4.14 魔王降臨
飛び散る泥の切間に本郷が見たのは、神格を得たヴィェルディゴニよりもなお二周り以上大きな怪物だった。
六足六腕六尾の威容は、とうてい生物からほど遠い。
醜貌はあたかも、千万の敵を城塞諸共
頭上に戴く六六六の眼球の冠はまさしく大千世界を睥睨し、平伏さぬ不敬者を死罪で罰するための検閲機。
手に握るは、城門よりもなお堅牢な大楯二枚。
山をも断たんばかりの極大剣一振り。
大海を穿つ戟一竿。
そして高位の魔導師のみが携えうる開闢の禍つ霊杖一本。
戦うこと一点へ収斂した醜姿は、まさに『
本郷も、本能でそれが絶対に敵わぬ、遥かなる畏敬と恐怖の対象であると悟った。
汚泥を纏うその魔王がいまだ身動ぎ一つしていないというのに、居並ぶ悪魔たちは地に縫い止められ、呼吸すら途絶させる。
今更手遅れだと知ってもなお、怯懦に駆られた悪魔はひれ伏し宥恕を乞う。
弱小な魔法生物は糞尿をこぼし、自ら喉を掻き切って自裁する。
ギョロギョロ動く頭上の瞳に睨まれるだけで死を希みたくなる。
そこにあるのは、純然たる暴力と畏怖の象徴であった。
ささやかな神格を得たヴィェルディゴニだけが、辛うじて口を利けた。
「……――嘘だ、こんな、こんなことがあってたまるか! こんなものまやかしだ! 人の身でこんな……騙されるな、あれはハッタリだ!」
ヴィェルディゴニは信者たちへ、あらん限りの黒霧を吐き出す。
眼前の魔王をどうにかしてくれる存在を求める盲信者たちは、淡い期待に縋り付き、ヴィェルディゴニの言葉を信じて進軍する。
汚穢の魔王が長大な盾を軽々と放り投げる。
轟音と共に、盾は本郷を守るように屹立した。
迫る烏合へ汚穢の王は戟を一たび振るう。
風切音すらも置き去るたったの一閃で、一〇の悪魔が胴を断たれる。
神奇の悪魔が不遜にも火を吐き、王へと浴びせかける。
しかし森を焼いた炎はいまや頼りない燐寸の火。
穢泥王の纏う鎧に触れるまでもなく、常時展開される魔王の干渉力場に届いた途端かき消える。
汚穢の只中。
無力な悪魔たちを睥睨する魔王は邪悪な奇跡を紡ぐ。
祈りの二本腕に握られた霊杖は、急速に複雑な計算式と出力公式を描き始める。
練り上げられる
汚泥の泡中に構築する
外殻を内蔵で満たし、
産み落とされる式蟲に与えられる命令は、『翔べよ貪れ、穢し候え。産めよ殖やせよ、地に満ちよ』。
形と目的と力を与えられた擬似生命は、数えることすらあたわない、地平を覆うばかりのの無数の蝿の形で孵った。
羽ばたく黒い嵐は、主君の一声を賜るまでもなく為すべきことを理解しており、弾丸のように吹き荒れる。
地鳴りじみた羽音が森を揺らした。
その音に、悪魔も獣も偽神もみな絶望する。
飛び立った蝿は嵐のように吹き荒び、魔王に楯突いた不敬者どもを四方から覆い尽くした。
そして棘のように悪魔たちの肉に突き立ち、貪欲に肉を食み進む。
肉の中、抱えていた卵を産む落とす。
明らかに生物として異常な速度で産卵されたそれは、同じく異常な速度で卵から孵り蛆虫となる。
埋没する肉を食み進め、やがて驚異的な速度で成長と変態を遂げる。
瞬く間に成体となった蝿は肉を食い破って羽ばたき、汚泥の中で交尾し、卵を抱えて再び
ひとしきり産卵と食餌を終えた成体はやがて役目を終え、地に墜ち泥へと還り、進化させた遺伝子を次の世代へと引き継ぐ。
蠅に襲われた者らは、身の内から食い破られ、汚泥と糞便で傷を穢され、孵り貫かれる。
戦線を退き治癒を施そうにも、蛆虫が縦横に肉の内を損壊させ外科的縫合を許さない。体内に振り撒かれる糞便と汚穢が毒となり感染症を併発させ、万一逃げ延びようともやがて死に至らしめる。深くまで産み付けられた卵が孵らば、やがて生命維持に不可欠な内臓をも破壊し尽くし臓器不全で抹殺する。
皮膚のはるか下を這い回る百千万の激痛たち。
生きながらに神経を食い破られ、やがて感覚を無くしていく末梢への恐怖。
不可避の死の宣告。
徹底された殺意のおぞましさ。
悪魔たちは子どものように慈悲を泣き叫ぶも、開いた喉からすら蠅が飛び立つ。
それは邪悪なまでに洗練された、そして発動すらも狂気というべき殲滅魔法だった。
魔法による擬似生命の
動きを制御する構造式の駆動部は、羽ばたきから獲物の咀嚼に至るまで精緻かつ状況適合的にプログラムする。
必然、疑似生命を魔法で作る式は、大悪魔の脳といえども過負荷に耐えられぬほど莫大かつ複雑なものとなる。
作り上げる蝿もたかが数匹では、脆弱ゆえに繁殖よりも先に根絶させられ意味がない。しかして雲霞のごとく数を揃えることも必須の発動条件となるが、形相に質量を与える
だがひとたび喚び起こされなば、その魔法は敵拠点を瓦解させ、大隊を壊滅へと追いやり、市街地を廃墟と化し戦況を確定させる威力を悠に孕む。
魔王のみに発動が許された狂気の階梯八位戦術級
勇壮に干戈を交わす、誉ある闘争など許さない。
立ちはだかる敵兵のあらゆる尊厳を奪い、蝿の糞として処理していくそれは、まさしく戦を司る魔王と、汚穢を本質とする邪悪な魔法使いが編み出した悪徳の奇跡。
降臨したるは、そんな邪悪を易々と発動し、自らも堅牢なる戦艦として暴虐を振るう暴君であった。
幾何級数的に増え続ける小指の先ほどの莫大な悪意は、次々と悪魔を餌にし糞便へと変えていく。
その只中に立てるのは、一部の隙もなく全身をミシュレントの鎧で覆う偽神ヴィェルディゴニただ一人。
蝿の鋭い棘を以ってしても貫けぬ鎧を纏った偽神は、それでも思い出されるアフリカの悪夢に全身を凍らせていた。
あの時もそうだった。
王国の兵隊たちが食餌として処理され、裸の王となったヴィェルディゴニは都落ちし単身逃げ伸びるより外なかった。
いや、これはあの時以上だ。
こんなにも無数の、異常な速度で成長する蠅ではなかったはずだ。
あの時ですら、まだ本領でなかったということか。
去し日の屈辱と、今現在の恐怖に偽神ヴィェルディゴニは身震いする。
恐怖と恐慌と狂奔が呼吸を乱す。
だが彼とて再びただ蹂躙されるつもりはなかった。
この日の復讐のため、どうすれば汚泥の蝿を攻略し、憎き魔法使いを殺せるか考え続けてきたのだ。
ヴィェルディゴニは剣腹で蠅を撃ち落としながら、ディミトリーと神奇の悪魔たちを捕まえる。
そして地面に埋めていた土の罠の辺りへと放り投げた。
「禍具師、土で城塞を設けよ! おさまるまで身を隠せ!」
「い、いや俺は今魔法が……」
「素っ首を叩き落とされるか、魔法を使って隠れるか選べ!」
威厳も慇懃さもない叱責に、慌ててディミトリーがボロボロの魔法を紡ぐ。
ヴィェルディゴニと禍具の力を借りて遅々と組み上がっていく土のドームの中に、ヴィェルディゴニは魔力を凍結させ無力化した蝿たちと魔力の結晶を放る。
「蝿の形相と呪言葉、構造式を解明しろ! 構造式を書き換える呪言葉を作り出せ! 蝿どもを増やせぬよう変異させるのだ!」
穢れより生まれた蝿たちは無類の耐毒性を誇る。
毒での根絶がかなわないことはアフリカで確認済み。
火を生み焼こうと、干戈で潰そうと、百や二百を間引いたところでその間に百倍の蝿が生まれる。
「所詮魔法で作られた擬似生命」と他の魔法同様構造式を書き換え破綻させようとも、それらは一匹一匹が自律した殺戮機構。一匹書き換えかき消すだけでは足りない、絶滅させるにはそれを百万遍繰り返さなくてはならない。
正攻法では到底すべて殺しきれない。
だが。交配により増えるなら、交配でもはや増やせぬよう遺伝子たる呪言葉の細部を書き換え、変異を起こせばいい。
次世代では不妊化された雌が生まれるようにしてしまう。
雌の不妊化構造式を内包する雄が倍々で増えれば繁殖はもはや成立しなくなる。
それは、遺伝子ドライブによる生物種根絶の技法。
穢泥王の魔法の構造式を執念深く分析し、ヴィェルディゴニがたどり着いたもっとも現実的かつ実現可能な対処法であった。
さりとて蝿への対処を用意してきたにしても、魔王そのものとして顕現することまではヴィェルディゴニも予想していなかった。
しかして信者と兵力の確保が急務の偽神は、六本の剣を背負い、自分よりも巨大で醜悪な黒い兵器に挑まねばならない。
「往くぞ、忌々しい魔法使い!」
元来戦闘向けではなかった偽神は、それでも剣を打ち鳴らし汚穢の王へ立ち向かう。
ここで逃げ延びれば、もはや信者による神の位階は失われ、矮小化し魔法連盟に追い回される未来は明らかである。
「我こそ神にして魔王!」
速度と精彩をましたヴィェルディゴニの剣が、複雑な軌道を描き飛翔する。
虚実織り混ぜ、打ち込む先を直前まで悟らせない剣筋。
必殺の威力、されど精密な太刀筋。
六本全てでそれを実現するヴィェルディゴニの制御も神がかっていた。
しかしそれを迎え撃ち、かつ蝿を制御し続ける穢泥王はなお一層神がかり、むしろ邪神そのものであった。
刺突を放つ直剣二振りを戟の一閃で悠々と叩き落とし、袈裟と逆袈裟を狙う二振りは極大剣の横薙ぎ一つで弾き返し、背後から本郷諸共貫かんと迫る二振りは尾を気ままに動かすだけで叩き返してしまう。
されど汚穢の王も、今の位置を離れてヴィェルディゴニへ追い縋る真似はしない。
ヴィェルディゴニの予想通り、大楯で本郷を庇う魔王はその場を離れられないのだ。
だがそれでも、偽神がジリ貧であることに変わりない。
逃げ惑う信徒は次々と、潰しても燃やしてもキリなく押し寄せる蝿の嵐に呑まれ、蛆の苗床にされていく。
偽神はその様を歯噛みして眺めざるを得なかった。
どんな膂力をしているのか、偽神の直剣も打ち返されるたびに刃こぼれを起こしていく。
そして干戈も盾も握らぬ魔王の双腕は、近くに転がる悪魔の死体を手繰り寄せ、頭を千切り投げつけてくる。
ただの質量の単純なる投擲というその戦法は、魔法が飛び交う戦場においてあまりに原始的。
しかし神代の時代にダビデが巨人ゴリアテを殺した戦法は投石であり、太古から伝わる今なお有効な戦技でもある。
魔王から放られ、勢いよく飛来する悪魔の頭。
初速百キロを悠にこえる六キログラム超の肉塊は、悪魔とて容易に挽き潰される威力を誇る。
堅牢な禍具の鎧を纏うといえど、ヴィェルディゴニも容易に食らうわけにはいかない。
堅い鎧は斬撃には強いが、中の肉体への衝撃をすべて殺し切るわけではない。
打たれればその衝撃で肉が割れ、骨が砕けうる。
中世の騎士同様、鎧を纏う偽神も切り傷を受けないまま、撲殺されうるのだ。
さりとて彼の背後にも、保持しなくてはならないものがあった。
蠅の遺伝子改変をおこなうディミトリーたちを匿った土のドーム。
猛威を振るう蠅を無効化し、敵の攻め手を削るために守らねばならない。
瞬発的に利害計算をした偽神は、信徒を守るべく攻撃に回していた剣の一本を迎撃に回す。
襲いくる砲弾を叩き落とし、どうにか自分の鎧への衝突を回避。
しかし砲弾は一発ではやまない。
続け様に千切り放たれる、悪魔の腕、足、胴。
剣一本では迎撃しきれず、砲弾を浴びる。
軋む鎧の上から揺さぶられる偽神は絶望する。
「こんなものを何度も受けると殺される!」、やむなく防御に回す剣をもう一本増やす。
魔王の自由を増やすのも恐ろしいが、それ以外に打つ手がない。
そうして防戦一方に陥る間にも、魔王が操る蠅は信徒たちの肉を食い、糞に変え削り落としていく。
払っても払っても払いきれない、那由多に増大する貪食の悪意。
逃げ惑い、悲鳴をあげ、悶絶する悪魔たち。
そこはまさに、地上に咲いた一個の地獄だった。
「できた、できたぞ!」
偽神の背後でディミトリーが叫ぶ。
永遠とも思えるほど長い時間だった。
ヴィェルディゴニによる事前の解析と補助があったといえ、人の身であれだけ膨大かつ複雑な呪言葉の内の構造式を書き換えるにしては早いと偽神は称賛する。
「放て!」
泥の隙間から飛び立つ無害化された蠅たちは、嵐と合流し交尾を始める。
そして改変された構造が群れの中で拡散し始める。
一方の性のみに固定された遺伝子情報たる構造式をもつ個体が性のバランスを崩し、爆発的に増えていく。
そうして、交尾を重ねるごとに卵を作れないまま土に還っていく蠅の数が膨れ上がる。
「我が執念を甘く見るなよ……!」
地獄に仏を見出す偽神。
――しかしすぐに、魔王の祈る手が描く構造式と、それに伴う蝿たちの動きに異常を悟る。
それは遠目から予想するに、遺伝子の組み替えによる突然変異を選択的に強化し、恣意的に拡散させるものだった。
交配の中で偶然生まれる、ヴィェルディゴニの改変に対し抵抗のある個体同士を選択的に掛け合わせ、その因子を代を重ねるごとに強化していく。
そして優先的にそれら個体の交配を加速させる。
そうして改変された不妊化遺伝子に耐性を持つ個体だけが群を満たしていく。
やがてヴィェルディゴニの編んだ起死回生の一手への対処は、つつがなく完遂された。
偽神は絶句した。
その蠅の魔法は、本来なら何年にもおよぶ研究を経て構築されるもの。
そのなかでもとりわけ複雑な構造式を備えていた。
地獄で幾百年もの研鑽を積んだ魔導の使い手たるヴィェルディゴニでさえ、構造の解析と改変に三年もの時間を要した。
書き換えた構造式には冗長性をもたせ、無駄に階層を跨がせて、式同士のつながりがみてとれないよう工作を重ねていた。
地獄に侍る高位の大悪魔であろうと、いきなり渡されても構造すら読み解けず、数日は途方にくれる複雑な構造だ。
だというのに。
そんなものを、眼前の魔王は苦もなく解析し、悠々とその場で、最適化された改造を施していく。
それもヴィェルディゴニの剣をあしらい、はぐれ悪魔たちを虐殺しながら、まるで鼻歌混じりに。
そうしてより一層複雑に書き換えられた蠅の遺伝子の構造式を見れば、もはやヴィェルディゴニも読み解き得るものではない。
偽神程度では一生かかっても辿り着けない魔法の極致。
これこそ魔王。
これぞ悪意の頂点。
あれこそ焦がれ、されど届かぬ絶望の君侯。
ものの一瞬で、幾年もかけた対策が水泡に帰した。
もはや大悪魔は正気を失いたくなった。
その間にも信徒が消え、捧げられた信仰が減り、あれだけ体に満ち満ちていた力が失われていく。
浮動する剣の制御も精彩を欠き、のたうつように飛ぶ。
「神から凋落させられるのか? また負けるのか?」
もとより魔王ですらなかった。
いまや仮初の神格すら失う。
ただの悪魔に堕ちる。
想像するだけで耐え難き屈辱。
しかしもはやそれは変えられそうにない。
ヴィェルディゴニは魔王の向こうの大楯を睨んだ。
「……只では済まさんぞ魔法使い! 貴様にも大事なものを失ってもらう!」
ヴィェルディゴニは土の中のディミトリーへ命じる。
「『百度連砂』で再現する事象の変更だ! 今から儀式を書き換えろ! 事象は「魔王が奥之院に神たる装置として拘束される悲嘆」! やれ!」
「今からかっ!? ああ、クソ!」
今、この場でもっともその事象に近いのは異形の魔王『
疫神を封じて御霊となし祀る代わりに土地へ封じる外法の再現。
急拵えの邪悪な儀式に、砂時計が軋みと悲鳴を上げながら砂を巡らせる。
そして甲一種禍具の威力を以って、魔王に向けられる恐怖と絶望と怨嗟が無理やり信仰の縛鎖に書き換えられる。
「根比べと行こうか穢泥王! 貴様が神になるのが先か、我々が果つるのが先か?」
魔王も、『百度連砂』が生み出す儀式とその因果の鎖が向かう先が己であることに気づかぬほど愚鈍ではなかった。
鎮座していた王は多脚を駆り、颶風よりもなお苛烈に押し寄せる。
迎え撃つヴィェルディゴニは、剣の五本をその場に残しドームを離れる。
そして嘲弄とともに魔王と交錯する。
もはや偽神ですらなくなった大悪魔が向かったのは、魔王が守護していた大楯の裏だった。
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