9.その穴よりちっぽけな点

 海面で呼吸を整えていたソラは、腹の底から襲ってくる恐怖に息をのむ。息を止め再び、水面に顔をつけ辺りをうかがう。

 

 いない。どこを見渡してもあの首長竜の姿は見えない。あの巨体が珊瑚礁の隙間に身を隠しているわけはない。 


 ソラは浮上し、海面に顔をだして波に身を任せて漂う。深い吐息が自然ともれる。

 


 そして、冷静に思考を整理する。これまでの出来事に目をむけるより、これからの行動に考えを巡らす方が得策と思う。


 しかし、島もなければ、船の姿も見えない。広がるのは空と海。ソラの頭に浮かぶのはあの古井戸。

 戻らないといけない、海底の穴からあの古井戸の水面へ。


 ソラは息を吸い込み、水中に潜った。珊瑚礁の間を目で追う。ない。穴はない。


 首長竜に海面に叩き出された時に、ずいぶん穴から遠ざけられたのかもしれない。そう思い、その場所を探すために海面に顔をだし息を吸う。

 

 しかし、と思う。海底の様子はソラには全く同じに見える。ここで下手に動いてしまえば、さらに穴から遠ざかる危険がある。


 目印といっても海面に印などつけられない。手放した釣竿もとっくに波にさらわれて失くしてしまった。


 漂う海の上でソラの呼吸は乱れる。思考だけが解を求めて激しく動く。それに合わせて呼吸が荒く早くなる。


 ふいに世界地図が頭に浮かぶ。太平洋のあるなんの島もない空白の部分。そこに縫い針を一突き。たぶん自分はその穴よりもちっぽけな点だ。


 ソラはそんなことを考える。なにもない海の上、太平洋に放り出されたような気分。


 16歳の少年の思考は絶望に侵食される。心臓が張り裂けんばかりに鼓動し酸素を要求する。口からは吸う間もないほどに空気が吐き出された。


 目の周りがポンプのように痙攣し、目の中に涙を溜める。ソラの絶望をよそに、海は穏やかに波をたて、空の雲はゆっくりと流れていく。 


 そして、自然はさらに不安を煽る。視界の端に雨雲が見えた。黒い雲が流れてくる。

 

 その流れは不自然なほど速い。ほかの雲を置き去りにするように雨雲は近づいてくる。眉間のしわはさらに深く刻まれ、身の震えは口内で歯を鳴らす。


 事態に追いつけない。思考は降参したように考えるのを放棄する。雨雲をとらえたソラの目はただそれを眺める。 

 

 雨雲の下に何かをとらえる。ソラの位置からではまだ遠すぎてはじめは何かわからなかった。

 近づいてくるとそれが木造の船のようであることがわかる。船の先端と後方に人影が見える。


 船は雨雲と共に移動してくる。あるいは船がその黒い雲を引き連れてきているのかもしれない。


 近づいてくるとあることに気づく。最初は錯覚かと思ったがどうやら違う。浮いている。船は海面の波に乗って移動しているのでは無い。

 1メートルばかり、海面の上を飛んでいるのだ。その船の先端で船頭が櫂をこいでいる。


 その船頭は、全身が赤く突起のようなものが頭部に見える。また、船の後方には大太鼓を叩く人影がある。それは緑色の全身に同じように頭部に突起がある。筋肉が彫刻のように盛り上がる。人ではない。


 ソラの知るなかで一番近い例えは、鬼。船には二匹の鬼が陣取り、雨雲を引き連れ海を飛ぶ。


 鬼たちはソラの存在に気づいているのかいないのかはわからない。しかし、船は確実にソラに近づいていた。 


 絶望の先に混乱がまっていた。彼の置かれた状況はさらに複雑になっていく…


 




 


 


 


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