7.あの熱帯魚が幻と消えるまえに
「川…?」
祖父は味噌汁を啜るのを止めソラの質問に不思議そうに聞き返した。
「そう、池でも湖でも魚のいそうな所。あっちの森の先にある?」
ソラの指差す方向を見ながら、祖父は首をかしげ考えた。質問への答えは決まっている。無い。しかし、孫の質問の意図を考えてなにかを察したように答える。
「あっちには無いが、川釣りができる所はある。昼には手があくから、おじいちゃんが連れてってやる。道具も納屋にあるはずだ。」
祖父の考えは少年の意図とは違ったが解答は得た。さらに川釣りに興味をもったソラは祖父の申し出に快く返事をする。
そんな二人の会話を聞いていた祖母が忠告をする。あの森の奥。そこには、古井戸があり落ちると危ないから近づかないようにという忠告である。
その忠告に対して祖父が即座に諭す。
「ばあさん、ありゃ枯れ井戸だったからおととし、ワシと村のモンで埋めて蓋までしたんだよ。ソラも興味があったら見ておいで危なくないから」
その言葉に祖母は井戸を埋めたことを思い出し納得した。それでも、井戸に近づくことは快く思っていないようだった。
朝食を終えたソラは、早速、井戸に向かうことにした。その森の中はいっそう緑が深く、ソラの足を竦ませる。
一定のリズムで低い声で鳴く鳥の声、そして風に揺れる木々の隙間から注ぐ陽光は一刻一刻と森の姿を変えさせ辺りを幻想的な雰囲気で包む。
ソラの足はその雰囲気に誘われるようにゆっくりと進んで行く。
5分ほど歩いて、少年は足を止めた。その場所から先は人々の侵入を防ぐように木々が自然の壁となり道がなく行き止まりだった。
生い茂る木々の手前に井戸があった。自分が今まで通ってきた道はこの井戸に向かうためだけに用意されたものだとソラは理解した。
その井戸には祖父の言ったとおりの蓋は〝無かった。〟
ソラはこの井戸の中にあの音の正体があると確信している。彼の好奇心が胸を高鳴らせ臆することなく井戸を覗かせる。
穴は埋められることなく深く続く。深さが増すほど暗さが増す。しかし、森の木々の隙間から射す陽光は確かにその穴の底にある水面に反射していた。
祖父母はなにか思い違いをしていたのかと考えていた少年の目に水面からしぶきがたつのが写る。
まず、少年は上を見上げる何かが降ってきたのかと思った。しかし、天を覆うように連なる木の葉の屋根は水面を揺らすほどのものでないと思った。
次にソラは身を乗り出して、水面を凝視する。そして、気づく。魚。水中に魚が見える。少年は自分が聞いた魚が跳ねる音はここからだったんだ夢じゃなかったんだと確信した。
いや、確信はしていた、なぜだかはわからない。それにこんな所からの音があの寝室に聞こえるとは到底思えない。考えるほど出てくる疑問は少年の好奇心がかき消していく。
水中を漂う数匹の魚は、鮒や鯉ではない。派手な見た目が目を惹く熱帯魚。…熱帯魚⁉
なぜこんな森の古井戸に熱帯魚が?そんな疑問は少年の興奮を沈めるものではない。
ソラはその興奮を胸いっぱいに吸うように、鼻を膨らませる。思い立って、少年は祖父母の家に駆け出す。正確にはその隣の真新しい納屋へ。
納屋には農機具が並び、その端に少年の目当てのものを見つける。釣竿。何種類かあるうちの手頃なものを手に取る。
再び森へと走るソラの気持ちは急いていた。気持ちは遥か先を走っている。
祖父のサンダルを履いてきたことを後悔した。いっそこのまま、脱ぎ捨てて裸足で駆け出そうかと思った。
ソラは走った。あの熱帯魚が幻と消えてしまうまえに釣り上げたいと思っていた。
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