終身雇用契約

志乃原七海

第1話件名:人事異動および服務規程に関する通達**



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### **件名:人事異動および服務規程に関する通達**


**辞令!**

**田中健志の妻、千早は夫健志に対し、**

**本日付をもって現職を解き、浮気相手の女性と同じ部署への**

**異動を命ずる!**

**以上!**


**人事部長殿**


そのA4用紙は、夕食が並んでいるはずのダイニングテーブルの真ん中に、一枚だけポツンと置かれていた。奇妙なほど丁寧な明朝体で印刷された文字を、田中健志は三度読み返した。


「……なんだこれ」


冗談にしては、悪質すぎる。健志はネクタイを緩めながら、リビングにいるはずの妻に声をかけた。


「千早ー、この紙、どういう意味?」


返事はない。ただ、カチャリ、と書斎のドアが開く音がした。現れた千早は、いつもと寸分違わぬ、アイロンのかかったブラウスにタイトスカートという出で立ちだった。彼女の手には、分厚いクリアファイルが握られている。


「健志さん、お疲れ様です。本日は、あなたの人事考課に関するヒアリングとなります。そちらにお座りください」


千早の声は、氷のように冷たく、感情が一切乗っていなかった。彼女は健志の向かいの席に座ると、ファイルをテーブルに置いた。表紙には『田中健志:パフォーマンス評価報告書』とテプラで貼られている。


「おい、千早、いい加減にしろよ。疲れてるんだ」

「疲れているのは承知しています。だからこそ、迅速に、事務的に進めましょう」


千早はファイルを開いた。一枚目は、健志が会社の同僚である佐々木由美と二人で食事をしている写真だった。先週の金曜だ。


「これは……」

「業務契約、第三条第二項、『誠実義務』。あなたは契約対象者である私、田中千早以外の女性と、業務上不必要な接触を行いました。これは明確な契約違反です。本来であれば、懲戒解雇が妥当な事案です」


千早は淡々とページをめくる。次は、ホテルの予約確認メールのプリントアウト。その次は、健志が由美に送ったLINEのスクリーンショット。証拠は完璧だった。健志の背中に、嫌な汗が流れた。


「ご、ごめん! 悪かった! 本当に、一度だけの過ちなんだ! 許してくれ!」


健志は椅子から立ち上がり、テーブル越しに頭を下げた。しかし、千早は眉一つ動かさない。


「許す、許さない、という感情論で話しているのではありません。これは、契約不履行に対する然るべき処置です。しかし」


千早はそこで言葉を切ると、人差し指で辞令の紙をトントンと叩いた。


「我が社は、従業員の更生の機会を奪うようなことはしません。よって、今回の処分は『解雇』ではなく『異動』とします」


解雇ではない、という言葉に、健志はわずかに安堵した。だが、その安堵はすぐに凍りついた。辞令の内容が脳裏をよぎる。


「異動先は、本日付で新設される『特別監視室』です。室長は私。そして、室員はあなたと、佐々木由美さんのお二人です」

「なっ……!?」

「ご安心ください。佐々木さんにも、別途『業務提携契約』のオファーを出しています。彼女のパートナーシップに関するコンプライアンス意識も、調査する必要がありますので」


千早はにこりともせずに続けた。


「あなた方の今後の業務内容は、『夫婦関係の再構築に向けた共同プロジェクト』です。毎日、定時に業務日報を提出していただきます。議題は、あなた方の不貞行為が、我が社という組織に与えた損害の分析と、その信頼回復に向けた具体的なアクションプランの策定。もちろん、議論の様子はすべて録画・録音させていただきます。査定資料となりますので」


地獄だ。健志は言葉を失った。浮気をした相手と、その行為を監視する妻と、毎日同じ部屋で「夫婦関係の再構築」について話し合わなければならない。それは、死よりも惨めな罰ではないか。


「そ、そんなこと……できるわけないだろ!」

「できます。これは業務命令ですから」


千早は立ち上がると、書斎からもう一冊、真新しいファイルを持ってきた。そして、健志の前に置く。


『田中健志:再教育プログラム』


「入社時、あなたは私と交わした契約書の内容を覚えていらっしゃいますか?」


入社時。つまり、結婚するとき。婚姻届という名の契約書だ。そこに書かれていたのは、法的な文言だけではなかったはずだ。千早が自作した、分厚い添付書類があった。健志はそれを冗談だと思い、ろくに読みもせずサインをした。


「契約書の添付資料、懲罰規定第七項。あなたはそれに同意の署名をしました。『乙(田中健志)の背信行為が発覚した場合、甲(田中千早)は乙の社会的および精神的尊厳を再生するための、あらゆる教育的措置を講じることができる』。あなたは、この条項を忘れてしまったようですね」


千早は、完璧な笑顔を作った。それは、顧客に絶対的な安心感を与える、トップ営業マンのような笑顔だった。


「これから毎日、あなた方の愛が、友情が、あるいはただの欲望が、私の目の前でゆっくりと解体されていく様を観察させていただきます。社会的に、精神的に、あなたを『再生』させるための部署。それが『特別監視室』です。さあ、健志さん。明日の朝礼で発表する『自己批判と今後の抱負』、今夜中にレポートとしてまとめて提出してください。書式は問いません」


健志は、目の前に置かれた再教育プログラムのファイルを見つめたまま、動けなかった。解雇されたほうが、どれだけ楽だっただろうか。


これから始まる、出口のない監獄での日々を思い、彼は静かに絶望した。千早はそんな夫を満足げに見下ろすと、書斎のパソコンに向かい、メールを打ち始めた。


**To: 人事部長殿**

**件名:人事異動の件、滞りなく本人に通達完了。**


送信ボタンを押すと、彼女は静かにパソコンを閉じた。明日からの「業務」が、楽しみで仕方がなかった。

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