真上の雪村さんは、感情がない(……と、昨日までは思っていた)

泡沫ホシ

第1話 真上にやって来たのは、氷の人形だった

 俺こと夏目想空なつめそらの日常は、基本的に平凡である。

 通っている星ヶ峰学園は良くも悪くも自由な校風で、クラスの隅で気怠い毎日を過ごしている。

 ただ1つ、そこら辺の人と違うことがあるとすれば、俺が築40年の木造アパート『ほしみ荘』の管理人代理を務めていることだろう。

 旅行好きの両親に半強制的に押し付けられた役割だも、もうすっかりと慣れた。住民は年配の方や物静かな学生さんばかりで、トラブルなんて起こらない。

 だから、今日もいつも通りの穏やかな週末になるはずだった。


「そういえば、202号室に新しい方が引っ越してくるからよろしくね!」


 旅行用のキャリーケースを玄関に用意しながら母さんが告げた。

 俺の部屋の真上。前の住人が引っ越してから、しばらく空き部屋だった場所だ。


「へー、どんな人なの?」

「それがねえ、お父さんの知り合いの娘さんなんだって。想空と同い年で、学校も同じらしいわよ」

「世間って狭いな」

「ほんとだよね。同い年で、同じ学校なんだから仲良くしてあげなよ」


 食パンを口にした瞬間、トラックの停まる音がした。


「悪いけど、ちょっと挨拶してきてくれない?もう出ないと飛行機に間に合わなくなるから」

「へいへい」


 俺は管理人代理として玄関を開けた。

 そこに立っている人物を見て、危うく食パンを詰まらせそうになる。


「……雪村ゆきむら千楓ちか?」


 腰まで届きそうな銀色がかったストレートのロングヘアが、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。

 雪のように白い肌に、小さな顔。すらりとした手足。

 ただ、ビー玉のように美しい瞳から、一切の感情が映し出させることなない。

 まるで名工が作り上げたビスクドールのように整っていた。


「どうしました?」

「……いや、なんでもない、です」


 雪村千楓。

 学年トップの成績に、全国レベルのピアノの腕前。体育祭ではリレーのアンカーとして陸上部に圧勝し、クラスを優勝に導いた。

 しかし、彼女の口から感情のこもった言葉を聞いた人は誰もいない。それどころか表情から感情を読み取ることもできない。そんな姿から、俺達の相手では『氷の人形』と呼ばれている。

 そんな有名人が、どうしてこんな場所に?

 こんな古くて生活感のあるアパートに、美術館の展示品が紛れ込んだような強烈な違和感だ。

 そんな混乱している俺を気にすることもなく、彼女は淡々と頭を下げた。


「……202号室に引っ越してきました雪村です。あなたが管理人?」

「あ、ああ。ここの管理人代理の、夏目だ」

「あなた同じクラスだよね」

「よくお存じで」

「……クラスメートを覚えるのは普通だから」


 クラスメートとは認識はしているらしい。

 ……それにしても、やはり感情が読めない。


「これ、挨拶」

「あ、ご丁寧にありがとう」

「じゃあ、片付けがあるからこれで」

「あ、待って!」

「なに?」

「えっと、その……今日は、1日中いるから」

「どういう意味?」

「分からないことあったら、いつでもインターホン押して。これでも管理人代理だからさ」


 俺の言葉を、雪村は数秒かけて吟味するように黙り込んだ。

 やがて、小さく頷く。


「……分かった」


 そう言って、目の前から雪村がいなくなった。

 ……緊張した。

 引っ越してくるのが雪村とは想定外だ。

 新しい日常が始まるように気がした。

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