心食の淫魔たち

@PP-ROTATION

第01話 偽りの聖母

現代社会に、人間を捕食する悪魔が潜んでいる。

サキュバス――人間から生命エネルギーを吸収することで生き存える魔物。その毒牙にかかった者は、徐々に衰弱し、生きる活力を失い、一年も経たずに衰弱死する運命にある。

人々はこの脅威の存在を知っており、恐れ、社会全体で強固な結束を築いて排除に努めている。だが、奴らは巧妙だった。人間社会に完璧に溶け込み、何の疑いも持たれることなく日常を送りながら、静かに獲物を品定めしている。

男たちは、サキュバスの圧倒的な美貌と、脳を蕩かす性技に翻弄される。目の前にいるのが人類の敵であり、自らの命を脅かす脅威だと理解していながら、理性を取り戻すことができない。そして最終的には、自ら進んで、その身を差し出してしまう。

人間かサキュバスかを判断する方法は、ただ一つ。実際に身体を重ね、その異変を感じ取る他にない。この事実こそが、サキュバス撲滅を困難にしている最大の要因であった。

奴らは、人間の心の脆弱性を熟知している。孤独、将来への不安、社会から取り残される恐怖、閉塞感への不満――そういった人間の不安定な心の隙間を、巧妙に埋めていく。

相手の目を真正面から見つめ、芯のある言葉を紡ぐ。修道女のような貞淑さ、性とは無縁に見える清純さ、会話の端々から感じ取れる論理的で理知的な聡明さ。

そして、その合間にチラリと見え隠れする、娼婦のような淫らさ。

それらが完璧に融合し、誘蛾灯のように男を引き寄せる。

だが、その正体は悪そのものである。人間を食糧やおもちゃとしか思わない、悍ましい悪魔。愛の言葉も、濃厚な愛撫も、慈愛に満ちた表情も、優しい仕草も――その全てが、相手を踏み躙り、美味しく調理するための工程に過ぎない。

自ら鍋に飛び込んでくる食材たちを見下し、生物としての絶対的な上下関係を噛み締めながら、奴らは今日も、新たな獲物を求めて街を徘徊している。

サキュバス同士は、テレパシーによって距離を超えた交信が可能であり、密接なコミュニティを築いている。人間が知らぬ間に、都市の影で、静かな狩りの連携が行われているのだ。

そして今夜も、一人の男が、美しい悪魔の罠に足を踏み入れようとしていた――。



アスファルトを叩く雨音が、サイレンの不協和音に溶けていく。田辺は煙草の火を消すと、湿った夜気と共にアパートの階段を上った。ドアの隙間から漏れるのは、鑑識の焚く無機質なライトと、そして――あの、甘ったるくも死を想起させる香り。

「また『アレ』か…」

先に現場に入っていた同僚が、青ざめた顔で呟く。部屋の中央には、ベッドに横たわる男の亡骸があった。まだ二十代後半のはずの男は、生気を根こそぎ吸い取られ、まるで数十年を一夜にして駆け抜けたかのように萎びていた。深く窪んだ眼窩、乾いてひび割れた唇。しかし、その表情だけが、まるで至上の喜悦に達したかのように、穏やかな恍惚を浮かべている。それが、サキュバスの“食事”の痕跡だった。

「被害者は高橋和也、28歳。システムエンジニア。死因は…まあ、いつもの『衰弱死』でしょうな」 「女の痕跡は?」 「ありません。指紋、髪の毛一本すら。まるで最初から誰もいなかったかのように。」

田辺は部屋を見渡す。ワンルームの殺風景な部屋。本棚には自己啓発本や技術書が並び、机の上にはエナジードリンクの空き缶が転がっている。孤独と、社会から取り残されることへの焦燥。サキュバスが最も好む餌場だ。奴らは人間の心の脆弱性を嗅ぎ分ける天才だった。孤独、不安、不満。そういった負の感情が澱む魂ほど、彼女たちにとっては上質な蜜となる。

人々はサキュバスを恐れ、忌み嫌う。人類の天敵。社会を蝕む悪魔。誰もがそう理解しているはずなのに、被害者は後を絶たない。圧倒的な美貌と、脳を蕩かす性技。一度その毒牙にかかれば、男は理性を失い、自らの命が削られていると知りながら、快楽の祭壇に己を捧げてしまうのだ。

「…必ず尻尾を掴んでやる」

田辺の低い声には、個人的な憎悪が滲んでいた。数年前、前途有望だった後輩刑事が、サキュバスに魅入られ、彼の腕の中で息を引き取った。助けを求めることもせず、ただ幸せそうに微笑みながら、塵のように消えていった。あの無力感と怒りが、今も田辺を突き動かしている。


捜査本部に戻ると、ホワイトボードはすでに新たな被害者、高橋の写真で埋め尽くされていた。彼のSNS、通話履歴、あらゆるデータが洗い出されていく。そして、田辺の目が一点に留まった。

『水瀬 怜(みなせ れい)』

高橋がここ数ヶ月、頻繁に連絡を取り合っていた女性の名前。SNSのプロフィール写真は、黒髪を清楚にまとめ、修道女のような白いブラウスに身を包んだ姿だった。伏せられた睫毛の影が、貞淑な印象を際立たせる。だが、その口元に浮かんだ微かな笑みには、見る者の心をざわつかせる、底知れない色香が潜んでいた。

彼女と高橋の接点は、オンラインの読書サークルだった。怜はそこで、参加者の悩みを聞き、聖母のように優しく、理知的な言葉で彼らを導いていたという。高橋もまた、仕事のストレスや将来への不安を彼女に打ち明け、心酔していた様子がメッセージのやり取りから見て取れた。

『怜さんのおかげで、僕は独りじゃないって思えました』 『君の魂はとても美しい。だから、自分を卑下しないで』

甘く、心に寄り添う言葉の数々。だが、田辺にはその全てが、獲物を安心させて油断させるための、周到な罠にしか見えなかった。サキュバスは人間を食糧としか見ていない。愛も、優しさも、信頼も、全ては極上の食事にありつくための調理工程に過ぎないのだ。

「…見つけたぞ、化け物」

田辺は怜の身辺調査を命じると、自らも彼女に接触するべく行動を開始した。


数日後、田辺は都心にある大きな図書館にいた。怜が週末、ここで子供たちのために絵本の読み聞かせボランティアをしているという情報を掴んだからだ。

子供たちの輪の中心で、怜は柔らかな声で物語を紡いでいた。その姿は、疑いようもなく善良で、慈愛に満ちていた。陽の光を浴びて輝く黒髪、子供たちを見つめる優しい眼差し、時折見せるはにかんだような笑顔。周囲の誰もが、彼女に好意的な視線を向けている。この光景だけを見れば、彼女が悪魔であるなどと誰が信じるだろうか。

やがて読み聞かせが終わり、子供たちが親の元へ散っていく。田辺が意を決して彼女に歩み寄ろうとした、その瞬間だった。

不意に、怜が顔を上げ、真っ直ぐに田辺の目を見た。

まるで、彼がそこにいることを最初から知っていたかのように。距離があるにもかかわらず、その黒曜石のような瞳が、田辺の心の奥底まで見透かしてくるような錯覚に陥る。

怜はゆっくりと立ち上がると、スカートの裾を軽く払い、静かにこちらへ歩み寄ってきた。彼女が近づくにつれて、あの現場に漂っていた甘い香りが、幻のように鼻腔を掠める。

そして、田辺の目の前で立ち止まると、彼女は聖母のように、それでいて娼婦のように蠱惑的に、小さく首を傾げて微笑んだ。

「こんにちは。何か、私にご用でしょうか?」

その声は、鼓膜を震わせる音波であると同時に、直接脳髄に響く媚薬のようだった。長年の経験で鍛え上げたはずの理性の城壁に、確かな亀裂が入る音を、田辺は聞いた。目の前にいるのは、紛れもない人類の敵。そして、抗いがたい魅力を持つ、悍ましき捕食者。

捜査官と悪魔の、最初の邂逅だった。

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