第3話
混乱のままに教会に駆け込み、息を整える。
「どうかしましたか? ローズ」
言えるはずがない、まさか、何がどうして?
息子の泣き声が聞こえて、急いで私は部屋に飛び込んだ。
「まだカロンは、お母さんのおっぱいが恋しいみたいなのよ」
やっと潰した麦がゆで離乳食を始めたばかりで、お腹がすいたのだろう。
急いで乳を与え、気持ちが落ち着いてきた。
――彼には息子を知る権利があるだろう
英雄となった彼とは立場も変わってしまった。
村に戻ったらなんて口約束など、もう無効になっているかもしれない。
それでも、せめてこの子の存在だけは報せるべきだろうか?
そんな思いも、数日後には霧散した。
教会の人々は、新たな英雄の話でもちきりだった。
バックは新たな領地と爵位を与えられ、そして名門貴族の令嬢と婚約を交わしたらしい。
その貴族は、かつて私が追い出された、あの屋敷だった。
「英雄様の村の娘たちを雇用して、保護してあげていた縁らしい」
「へー、貴族様の中にも優しい人がいるんだな」
違う。彼らは賃金を騙して、私たちを契約で縛ってこき使っていた。
そんな真実よりも、あの屋敷の娘と元恋人の婚約の事実に私は打ちのめされた。
「名門と結婚すれば、英雄様の未来も安泰だな」
「王様の覚えも目出度く、今後は将軍にでもなるんだろうし」
ガクガクと震える私の袖をつかみ、息子はケラケラと笑っていた。
何も知らない息子を抱きしめて、私は決意した。
――きっとこの子の存在は邪魔になる、だから知られてはいけない
村に帰ることもできなくなった。
帰れば彼に知られるだろう。
幸いにも、両親に手紙の一つも出せていない。
私が追い出された事までは掴めても、ここにいる事は誰も知らない。
身元についても。シスターは詮索せずにいてくれた。
今になって、その有難みを噛み締める。
この王都で、人に紛れて生きていこう。
ここならば息子と自分の二人くらいは、静かに生きていけるだろう。
貴族となって別世界で生きるバック、そんな彼と近くて遠い距離で生きる。
ざわつく私の心さえ耐えきれば、村に戻るより息子との未来にほのかな光が輝いた。
それから数か月が経過する。
私たちの周囲は相変わらず平穏だ。
この教会でかくまわれた私は、シスター見習いだと思われているそうだ。
訳アリの女が教会で出産するのは、よくある事らしく、息子カロンもヨチヨチと歩く姿は参拝客の笑顔を誘った。
いつまでも客人でいられないと、私は私のできることをする。
掃除や料理、何より村で培われた細工刺繍は人気があり、月に一度のバザーで出品して欲しいと頼まれるようになる。
眠る息子のかたわらで、目をこすりながら私は小さな布のコースターに刺繍を入れていく。
素朴な飾りつけに、村独自のクロスステッチを重ねた細工をいくつも施した。
眠る息子の姿に、その父親の姿が重なる。
出陣する最後の夜に、同じベットで眠った彼は、息子と同じ顔で私を抱きしめてくれた。
今になって、良い思い出だったと思えばいい。
チクチクと痛む胸を押さえて、この子さえいればいい。
むしろ彼が生きてくれた事への感謝と、新しい人生の門出を祝福しなければと思いなおす。
だがいつまで待っても、彼の婚姻の話は進まなかった。
その理由すら知らず、あえて毎日の忙しさに没頭して、私は息子との生活に励んでいたのだ。
*****
「ああ、可愛いわね。息子さん?」
「はい、カロンと申します」
教会前のささやかな広場にて、私は声をかけられた。
バザーの日に、私のコースターを気に入って、全て買い上げてくれた婦人が息子に微笑んでくれた。
嬉しそうに、敷いた敷物の上で愛想をふりまく息子カロンは、父親似で人見知りはしないらしい。
来る人々が、基本的に慈善に溢れた人が多いためか、息子や私に対しても好意的で優しく接してくれた。
一歳を過ぎた息子は、目を離すとトテトテと歩いていき、知らない人に片言でしゃべりかけたりする。
その愛らしさに人々は笑って対応してくれた。
最初は気遅れしたバザーの出品の手伝いも、今は息子に支えられて楽しみにすらなっている。
王都でも外れの貧しい地域の小さな教会、こんな所に来てくれるのは似たような貧しい平民ばかりだ。
なので油断していた。
突然あらわれた、懐かしい姿に私は息をのむ。
目の錯覚かと疑ったが、彼は立派な騎士服を着てまっすぐにこちらに向かって来た。
息子を抱いて教会内に逃げようとしたが、息子は笑って彼にまで愛想を振った。
「ローズ」
私は驚きすぎて声も出ない。
周囲も彼が何者かわかり、人の波が割れていく。
固唾をのんで見守る人々の視線の中でも、彼は怯むことなく私の前に立つ。
販売用の小さな机を挟んで、久しぶりの対面を私たちは果たす。
だが、私はそれを望んでいない、今更どうして現れたのか……。
苦し気な私と違い、彼は心底嬉しそうに昔の笑顔でほほ笑んだ。
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