第21話 霊力覚醒

 牛頭鬼を討ち果たした森は、ようやく静寂を取り戻していた。焦げた木の匂いと、えぐれた大地の残滓。巨大な足跡が深くくっきりと刻まれ、まるで地獄への入り口のように黒く口を開けている。破壊された木々が折り重なり、戦いの激しさを物語っていた。空気にはまだ瘴気の残り香が漂い、鼻を突くたびに戦慄が走る。


「……終わったんだよな」


 隼人が低く呟く。視線は地面に落ち、拳を握りしめている。その拳からは、まだ血が滲んでいた。赤い血が、土に染み込んでいく。


「本当に、俺たちが倒したんだよな。あの化け物を……信じられねぇ」


 沙耶は安堵の涙をぼろぼろと流しながら美琴の腕に縋った。小さな肩が激しく動き、嗚咽が漏れる。死の恐怖から解放された安堵と、生き延びた実感が同時に押し寄せているのだろう。


「よかった……みんな無事で……本当に、本当によかった」

「沙耶ちゃん、もう大丈夫だよ」


 美琴が優しく背中を撫でる。狐式神の紅葉も、沙耶の頭をぺろりと舐めた。その温かさが、沙耶を落

ち着かせていく。天音は冷静に術式の残骸を観察している。でも、僅かに怯えていた。普段の

冷静な彼女でさえ、今回の戦いの凄まじさに動揺を隠せない。天音は俺を見て頷く。


「小等部が牛頭鬼を倒す……学園創立以来、前例がないわ」


 皆月先生は俺たちを見渡し、険しい表情で言った。眼鏡の奥の目には、驚きと評価、そして畏怖さえ

も入り混じっている。汗が額に滲み、怯えているのを必死に隠そうとしていた。


「本来なら小等部に任せる任務じゃない。高等部でも苦戦する相手だ。いや、下手すれば教師陣で

も……」


 先生は言葉を切り、深く息を吐いた。


「だが……君たちはよく持ちこたえた。いや、それ以上だ。完璧に倒した」


 そして、俺をまっすぐ見る。その瞳に、確かな敬意が宿っていた。


「特に長谷部――お前がいなければ全滅だった。お前の指揮と、式の書き換えがなければ、今頃全員

が……」


 その言葉に、胸がざわついた。認められた喜びと、重圧が同時に押し寄せる。これから、もっと大き

な責任を背負うことになるのだろう。


***


 帰還の道すがら、異変は始まった。最初は違和感程度だった。息は荒い。全身が鉛のように重い。当然だ、あれだけの戦いをしたのだから。けれど――

 底の方から力が絶え間なく湧いてくる。まるで枯れた井戸に、突然清水が湧き出したみたいに。いや、もっと激しい。熱い何かが、全身を駆け巡る。

(……おかしい。俺の霊力が……増えてる? いや、増えてるなんてレベルじゃない)

 以前なら札に数度書き込むだけで霊力は尽き、意識が霞んだ。鼻血が出て、立っていられなくなった。だが今は違う。枯れる気配がないどころか、どんどん膨張していく。身体の芯に青い炎が灯ったように、力が溢れ出している。血管の中を、熔岩のように熱い何かが流れている。


「尚、顔色が変だよ」


 美琴が心配そうに覗き込む。その瞳に、驚きと恐れが浮かんでいた。


「なんか、光ってる? 青白く……すごく綺麗だけど、怖い」


 確かに、手のひらから薄い光が漏れていた。青白い、霊力の光。今まで見たことのない濃度だ。まる

で、小さな星を握っているみたいに、手のひらが輝いている。指先から、光の粒子が舞い上がる。


「どうして……俺は無才じゃなかったのか……?」


 思わず口に出し、胸を押さえる。心臓が激しく脈打っている。力が溢れる感覚は、喜びよりもむしろ

恐怖だった。制御できない何かが、内側から膨らんでいく。まるで体内に爆弾を抱えているような、そ

んな恐怖。天音が静かに、でも確信を持って言う。


「違うわ。元から才能はあった。ただ、開花する条件が揃っていなかっただけ」

「条件……?」

「生死を賭けた戦い。そして――」


 天音の瞳が、俺を真っ直ぐ見つめる。


「仲間を守りたいという、純粋で強い意志」

「それが引き金になったのよ」


 天音の分析は的確だった。確かに、今日の戦いで何かが変わった。美琴が危ない時、天音が傷ついた時、隼人と沙耶を守らなきゃと思った時――何かが弾けた感覚があった。心の奥底で眠っていた何かが、目を覚ましたような。


「無才と呼ばれた俺が、今、覚醒する」


***


 その夜。学園に戻った俺たちを迎えたのは、生徒会会長の白銀透華だった。月明かりの下、白い髪が銀色に輝いている。まるで月の女神のような、神秘的な美しさ。透華は音もなく歩み寄り、俺を見据える。瑠璃色の瞳が、まるで俺の魂まで見透かすように光る。

 その夜。学園に戻った俺たちを迎えたのは、生徒会長の白銀透華だった。

 月明かりの下、白い髪が銀色に輝いている。まるで月の女神のような、神秘的な美しさ。透華は音もなく歩み寄り、俺を見据える。瑠璃色の瞳が、まるで俺の魂まで見透かすように光る。


「……驚いているでしょう。でも、それは自然なこと」


 焦げた土の匂いがまだ残っている。風が吹き抜け、戦場の灰をさらっていった。

その静寂の中で、透華が口を開いた。


「上級妖異を倒すと霊力が上がるの。陰陽師の多くは、そうして力を高めていくのよ」


一線で活躍した者たちは皆、この“壁”を越えていた。


「だから、あなたも例外じゃないのよ」


 透華は月を見上げながら続ける。


「今一線で活躍している陰陽師は、皆そうやって"段階"を超えてきたの。私も、柊も、そして学園長も」


 彼女の瞳に、過去の戦いの記憶が浮かんでいるようだった。


「私が初めて上級妖異を倒したのは、中等部二年の時。その時の恐怖と、力を得た時の衝撃は、今でも忘れられない」

「……俺も、その道を……?」

「ええ。君もいずれ"上"に立つでしょう」


 透華の声は穏やかだが、その瞳は鋭かった。期待と、警告が入り混じっている。


「長谷部尚。君は今日、一つの壁を越えた」


 そして、はっきりと宣言する。


「壁を越えた者だけが、次の世界を見る」


 指先がかすかに震えた。(今日は、ここまでだ)

 その言葉に、胸が熱くなる。目頭が熱くなる。ずっと言われ続けた蔑称から、やっと解放される。涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。


「――ついに、自分の道を切り拓いたわね」


 透華の言葉に、俺は擦れる声で答えた。


「はい。でも、これは始まりにすぎません」


 透華が満足そうに頷く。


「その通りよ。よく分かっているわね」


***


「けれど――」


 透華の表情が一変する。月光に照らされた顔が、急に険しくなった。


「気をつけて」


 一歩近づき、低く、でも確実に俺の耳に届く声で告げる。


「力を得るたびに、妖異の残滓もまた心に宿る」


 背筋に冷たいものが走る。


「牛頭鬼の凶暴性、破壊衝動、血への渇望……そういった負の感情も一緒に取り込んでしまう」


 その瞬間、胸の奥にざらつくような違和感が走った。確かに、何か異質なものが混じっている感覚。黒い靄が視界の端に揺らめき、誰かを破壊したいという衝動が、一瞬だけ頭をよぎる。

 ドクン。

 心臓が大きく脈打つ。まるで、もう一つの心臓が生まれたみたいに。

(……これが、残滓……? 牛頭鬼の、心が……俺の中に?)


「制御できなければ――」


 透華の瞳が、悲しげに曇る。


「君自身が境界を越えるわ。人から、妖異へと」


 恐ろしい未来。でも、逃げられない現実。陰陽師の宿命。力を得れば得るほど、人から遠ざかっていく。恐怖と決意がせめぎ合う。震えそうになる膝を、必死で押さえる。歯を食いしばって、拳を握る。爪が手のひらに食い込むけど、その痛みが俺を現実に繋ぎ止める。そして俺は顔を上げ、透華の瞳を真っ直ぐに見返した。


「俺は……絶対に負けません」


 声に、全ての決意を込める。


「この力も、残滓も、全部制御してみせます」


 深呼吸して、続ける。


「仲間を守るために、この力を使います」

「妖異になんか、絶対にならない」


 透華は一瞬驚いたような顔をして、それから優しく微笑んだ。そして、俺の頭をぽんと撫でた。その手は、とても温かかった。


「その意志があるなら、きっと乗り越えられる」


 そして背を向ける。月光に照らされた後ろ姿が、神々しいほどに美しい。銀の髪が、風に揺れる。


「――期待しているわ、長谷部尚」


 振り返り、妖艶に微笑む。


「私の弟になる資格、十分にあるわよ」


 その言葉に、顔が熱くなる。耳まで真っ赤になっているのが分かる。でも今は、恥ずかしさより嬉し

さの方が大きかった。透華は歩き始め、最後に重要なことを付け加えた。


「明日から、あなたは正式に生徒会預かりになる」


 立ち止まり、振り返る。


「特別訓練が始まるわ」

「特別訓練……?」

「この力を制御するため。そして――」


 透華の表情が、一瞬険しくなる。瞳に、本物の危機感が宿る。


「これから来る本当の脅威に備えるため」


 風が吹き、透華の髪が舞う。


「牛頭鬼は、まだ序章にすぎない。本当の敵は、もっと大きく、もっと恐ろしい」


 その言葉が、夜の静寂に重く響いた。


***


 部屋に戻ると、美琴と天音が待っていた。二人とも心配そうな顔をしている。部屋の明かりが、なぜか眩しく感じる。


「尚、大丈夫?」


 美琴が駆け寄る。紅葉も心配そうに俺の足元をくるくる回る。


「ああ、平気だよ」

「嘘」


 天音が即座に指摘する。氷のような瞳が、俺を見抜いている。

「手が揺れてる。それに、霊力が不安定。暴走寸前ね」


 確かに、手が揺れていた。力が溢れる恐怖と、妖異になるかもしれない恐怖。二つの恐怖に挟まれて、心が揺れている。


「でも、大丈夫」


 俺は二人を見る。大切な仲間の顔を。


「君たちがいるから。一人じゃないから」


 美琴が俺の手を両手で包む。温かい。その温もりが、俺の緊張を止めてくれる。


「当たり前じゃん! ずっと一緒だよ。何があっても、絶対離れないから」


 天音も小さく頷く。


「監視も兼ねてね。暴走したら――」


 彼女の手に、氷の刃が現れる。


「私が止める。絶対に」


 冗談めかして言うけど、本気の決意が込められている。俺を妖異にさせないという、強い意志。ドアが開き、隼人と沙耶も部屋に入ってきた。


「長谷部、聞いたぞ」


 隼人が真剣な顔で尋ねる。


「お前、力が覚醒したんだって? しかも、とんでもないレベルで」

「ああ。でも、まだよく分からない。制御できるかも……」

「なら、俺たちも一緒に強くなる」


 隼人が力強く言い、拳を突き出す。


「お前一人に背負わせるわけにはいかない。俺たちは、仲間だろ?」


 沙耶も勇気を振り絞って頷く。


「私も、もっと上達したいです。みんなの足を引っ張りたくない。支えになりたいんです」

 五人で円陣を組む。手を重ねる。それぞれが成長への決意を胸に秘めて。温かい手が重なり、力が一つになる。――


「俺たちは、ここから新しい時代を作る!」


 俺の言葉に、みんなが笑った。心からの、仲間の笑顔。


「おー!」

(これが始まりなんだ。俺は……無才じゃない。この力で、みんなを守る道を切り拓く)

 窓の外を見る。結界塔が赤く光っている。警戒色は変わらない。でも、もう怖くない。むしろ、立ち向かう勇気が湧いてくる。胸の炎は、もう消えなかった。青い炎は、仲間という薪を得て、より強く、より美しく燃え上がる。妖異の残滓なんかに、負けてたまるか。

 俺たちの新しい戦いが、今始まろうとしていた。力を得た俺。それを支える仲間たち。そして、待ち受ける未知の脅威。でも、大丈夫だ。俺たちなら、どんな敵だって倒せる。みんなと一緒なら、どんな未来も切り拓ける。

 結界塔の光が、夜空に響く俺たちの決意を照らしていた。新たな力と、新たな恐怖。でも俺は、前に

進む。仲間と共に。


「仲間が、俺を人間にしてくれる」


***


 その夜、一人になった俺は、机に向かって新しい術式を試していた。覚醒した霊力で、今まで書けなかった複雑な式が描ける。筆が紙の上を滑り、青白い光が文字を追いかける。


(すごい……こんなに簡単に)


 でも、同時に胸の奥で何かが蠢く。黒い感情。破壊したい。壊したい。奪いたい。


「くそ……!」


 思わず筆を投げ出し、頭を抱える。これが、残滓。牛頭鬼の負の感情が、俺の中で囁き続ける。


 窓の外で、月が静かに輝いている。その光が、俺を照らす。


(大丈夫だ。一人じゃない。美琴がいる。天音がいる。隼人も沙耶も、透華先輩も。みんなが、俺を支えてくれる)


 深呼吸して、もう一度筆を取る。今度は、残滓を制御するための術式を書き始める。自分自身をデバッグする。バグを修正する。それが、俺にできること。


 札が完成し、淡い光を放つ。胸の黒い蠢きが、少しだけ静まった気がする。


「これが、俺の戦いだ」


 力と向き合い、残滓と戦い、それでも前に進む。それが、覚醒した俺の使命。窓の外で、結界塔が静かに光り続けていた。

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