第13話 乱れる足並み

 模擬任務当日。小等部三年の俺たちは、学園訓練場の結界内に立っていた。朝の冷たい空気が肺を刺す。吐く息が白く染まり、緊張で震える指先を何度も握り直した。焦げた術式と汗の匂いが漂い、赤い石柱の間には不気味な霧が揺らめいている。その霧は生き物のようにうねり、時折、人の顔のような形を作っては崩れていった。


 そして、その中心で――黒い靄が渦を巻き、徐々に人影を形作っていく。模擬妖異。だがその禍々しいオーラは、本物の妖異と何ら変わらない。いや、むしろ俺たちの実力を測るために調整された分、より残酷かもしれない。


 皆月先生の声が、朝靄を切り裂くように響いた。


「この模擬任務で重傷を負えば、上級への道は閉ざされる。失敗すれば留年もありうる」


 先生の眼鏡が、朝日を反射してきらりと光る。


「覚悟して臨め」


 クラス全体がごくりと息を呑んだ。誰かの震える吐息が、静寂の中で異様に大きく聞こえる。だが――昨日までの教室とは違う。佐久間が拳を握りしめ、村井の方を見る。村井も眼鏡を上げながら、小さく頷いた。その視線に、もう敵意はない。


「……一緒にやろうぜ」

「おう、負けるのは嫌だからな」


 結城さんが紫のツインテールを結び直しながら、決意を口にする。


「私たち、もう派閥なんかで争ってる場合じゃないもんね」


 美琴が俺の袖を引っ張る。狐式神の紅葉も、戦闘態勢で毛を逆立てていた。


「尚、大丈夫だよ。みんなで力を合わせれば、絶対勝てるもん!」


 天音が静かに呟く。その瞳に、青い炎が宿っていた。


「そうね。昨日の約束、守ってみせるわ」


 一度はバラバラだった俺たちの心が、今は「協力する」という一点に集まっていた。俺は深呼吸をして、懐の札を確認する。昨夜、徹夜で準備した改良式が、静かに霊力を帯びていた。


(みんなを、守ってみせる)


***


 開始の合図と同時に、地面が震えた。まるで地震のような振動が足元から伝わり、赤い石柱がびりびりと共鳴する。模擬妖異の咆哮が、訓練場全体を震わせた。


「行くぞぉ!」


 佐久間が先陣を切る。『獅子咆哮術』の霊圧が、空気を震わせながら敵に向かって突進した。


「援護するよ!」


 村井の『電子結界術』が展開され、青い光の網が佐久間を守る。美琴の狐火が視界を照らし、天音の『氷炎術』が敵の足を凍らせる。赤と青の光が交差し、まるで花火のような美しさだった。


「いいぞ、このまま押せる!」


 木下の『風読み術』が敵の動きを読み、的確な指示を飛ばす。


「右から来るぜ! 結城、頼む!」

「任せて!」


 結城さんの『水鏡術』が、妖異の攻撃を反射する。水の鏡が幾重にも重なり、万華鏡のような幻想的な光景を作り出した。最初は順調だった。昨日の教室で交わした約束を信じ、それぞれが役割を果たしていた。小林さんの『治癒術』が、傷ついた仲間を癒す。淡い緑の光が、希望の灯火のように戦場を包んでいた。


 だが――妖異は、俺たちの甘さを容赦なく突いてきた。黒い靄が突然膨張し、触手のような無数の腕が四方八方から同時に襲いかかる。それは、まるで地獄から伸びる亡者の手のようだった。


「なっ!?」

「危ない!」


 後衛の結界が慌てて展開されるが、位置がずれて前衛を庇いきれない。タイミングが、ほんの一瞬遅れた。


「ちょっと下がれ!」

「いや、俺が前に出る!」


 声が錯綜し、動きが乱れる。佐久間と村井が同時に前に出ようとして、ぶつかりそうになる。


「邪魔すんな!」

「そっちこそ!」


 一瞬の躊躇。わずかな綻び。それが致命的な隙となった。


「甘いな、小僧ども」


 模擬妖異が、初めて言葉を発した。その声は、まるで地獄の底から響くような不気味な響きだった。


***


 次の瞬間、黒い腕が佐久間を捉え、激しく地面に叩きつけた。


「ぐあっ!」


 鈍い音と共に、佐久間が血を吐く。村井も別の触手に巻き取られ、石柱に激突した。眼鏡が砕け散り、鮮血が頬を伝う。


「くそっ……!」


 隊列が、完全に瓦解した。


「だめだ、隊列が……!」


 支援の結界が穴だらけになり、妖異の黒い靄が津波のように流れ込む。その瘴気に触れた者が、次々と膝をついていく。


「うっ……毒気が……」

「立てない……」


 美琴の狐火も、天音の氷炎も、黒い靄に飲み込まれて消えていく。


(このままじゃ全滅だ!)


 俺は懐から札を取り出し、震える手でペンを走らせた。額から流れる汗が、札に落ちて滲む。混乱した結界を強制的に立て直す式。全体を一度リセットして、再構築する。


 式が青白い光を放ち、乱れた結界を強制的にリセットする。訓練場全体に、まるで波紋のように光が広がった。その一瞬の静寂を破って、俺は声を張り上げた。


「聞け! 配置を変えろ!」


 全員の視線が、俺に集まる。疑いと不安、そして一縷の希望が交じった瞳たち。


「前衛は二列に分かれろ! 後衛は斜め後ろ、三角形を作れ! 囮は一人でいい――俺がやる!」


 美琴が悲鳴のような声を上げる。


「尚!? 無茶だよ!」


 天音も珍しく動揺を見せた。


「正気? 霊力の低いあなたが囮なんて……」


 けれど、立ち上がった村井が血を拭いながら叫ぶ。


「長谷部の言う通りにしろ! あいつは昨日、妖異を止めたんだ!」


 結城さんも続く。水鏡を展開しながら、力強く頷いた。


「派閥なんて言ってる場合じゃない! 協力しないと全滅よ!」


 佐久間が、痛みに顔を歪めながらも立ち上がる。


「……チッ、しょうがねぇな。無才のお前を信じるなんて、俺も焼きが回ったもんだ」


 でもその顔には、確かな信頼があった。


「信じて、飛べ!」


 俺は札を天高く投げ、自ら妖異の正面に躍り出た。


***


 黒い触手が、俺めがけて殺到する。死の恐怖が全身を駆け巡る。でも、後ろには仲間がいる。


(ここで、逃げるわけにはいかない!)


 俺は新たな札に、震える手で最後の式を書き込んだ。俺が囮として立ち続ける間、全員の攻撃を同調させる。一斉攻撃の準備が整ったら、一気に解き放つ。


「今だ!」


 美琴と天音が同時に術式を解放する。


「狐火・紅蓮の舞!」

「氷炎術・凍てつく業火!」


 赤と青の炎が螺旋を描きながら妖異を包み込む。その美しさは、まるで伝説の不死鳥のようだった。佐久間と村井も、力を合わせる。


「獅子咆哮術・雷鳴轟く!」

「電子結界・完全封印!」


 二つの術式が融合し、金色の雷獅子が妖異に牙を剥く。結城さんの水鏡が攻撃を増幅し、木下の風が後押しする。小林さんの治癒術が、みんなの霊力を回復させていく。前衛が結界で押さえ込み、後衛の札が幾重にも重なり、妖異の動きが完全に止まる。


 そして――俺は最後の札に、全霊力を込めた命令を書き込んだ。影が存在し続ける限り、核を破壊し続ける。完全消滅まで。


「これが、俺たちの答えだ!」


 青白い光が、まるで天から降り注ぐ裁きの雷のように、妖異の核心を貫いた。黒い靄が引き裂かれ、断末魔の叫びが訓練場を震わせる。そして、粉々に砕け散った妖異の欠片が、朝日を受けてきらきらと輝きながら消えていった。


 訓練場に、静寂が訪れる。泥だらけ、血だらけ、汗だらけ。それでも皆は立っていた。俺たちは、お互いの顔を見合わせる。そして、誰からともなく笑い声が漏れた。


「や……やった」

「勝った……勝ったんだ!」


(……勝った。俺たちは、派閥を超えて勝ったんだ)


***


 皆月先生が、ゆっくりと歩み出る。その表情は相変わらず厳しいが、口元には確かな笑みが浮かんでいた。


「……合格だ」


 その一言に、訓練場が歓声に包まれる。


「混乱を立て直した判断力、見事だった。特に――」


 先生の視線が、俺に注がれる。眼鏡の奥の瞳が、温かい光を宿していた。


「長谷部尚。お前の采配がなければ全滅していた」


 ざわめく生徒たち。


「無才のはずじゃ……」

「でも、確かに助かった」

「派閥より、みんなで勝てたんだ」


 先生が続ける。


「派閥に囚われず、全体を見て最適解を導いた。仲間を信じ、自らリスクを負った。それこそが、真の陰陽師に必要な資質だ」


 観覧席から、ゆっくりとした拍手が聞こえてきた。透華会長が立ち上がり、その瑠璃色の瞳に深い満足の色を浮かべていた。陽光を受けて輝く銀髪が、まるで天使の羽のように美しい。


「――期待以上よ、長谷部尚」


 その声は、訓練場全体に響き渡った。


「あなたたちは今日、派閥という古い殻を破った。それは、この学園の新しい時代の始まりかもしれない」


 胸が熱くなる。目頭が熱くなる。俺は、俺たちは、確かに認められた。仲間たちの顔を見渡す。みんな、泥と血にまみれながらも、最高の笑顔を浮かべていた。俺は拳を高く掲げ、声を張る。


「次も、みんなで勝つ! 派閥なんてもう関係ない! 常識は、俺たちがぶっ壊す!」


「「「おーーー!」」」


 夕日が訓練場を黄金色に染める。俺たちは肩を組み、支え合いながら、次の試練へと歩き出した。傷だらけの身体が、夕陽に照らされて輝いている。それは、新しい絆の輝きだった。


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