第1話 修行の日々

「長谷部尚。やはりお前は才能というものを持たぬ男のようだな」


 道場の隅で、師範代の声が氷のように冷たく響いた。周囲に座っていた少年陰陽師たちから、含み笑いが漏れる。


 俺がいくら必死に式盤へ霊力を注ぎ込んでも、青白い小さな火球は毎回、プスンと情けない音を立てて消えてしまう。


「……はは。今日も期待を裏切らない失敗ぶりですね」


 自嘲気味に笑いながら、胸の奥で屈辱が燻る。


「火の気配すら感じないじゃん」


「木偶の坊の方がマシ」


 容赦ない囁きが、針のように心を刺していく。けれど俺は、俯いて苦笑いを浮かべているように見せながら、心の中では全く別のことを考えていた。


(違う……原因は力量不足じゃない。この術式そのものにバグがあるんだ)


 集中すると、空中の結界紋様がコードの羅列に変わって見える。条件分岐が曖昧で、終了条件のないループが延々と回ってリソースを食い潰している。前世のシステムエンジニアの経験から言えば、一目で分かる欠陥品だ。


(修正すれば動くはずなのに……誰も気づいてない)

 誰にも聞こえない声で、呪式の一部を書き換えた。霊力の無駄な流れを一行分だけ最適化し、もう一度術式を起動させる。


 ボォッ。


 拳大の火球が、安定した青い炎を纏いながらゆっくりと宙に浮かび上がった。


「……できた」


 思わず声が漏れる。その瞬間、背後から軽やかな拍手が響いた。


「やっぱり尚って凄いじゃない! 私、信じてたもん!」


 振り返ると、幼馴染の藤原美琴がまるで自分のことのように嬉しそうに笑っていた。彼女の足元では、小さな白い狐の式神が尻尾を振っている。


 天才と呼ばれる美琴にとって、火球の一つや二つなど朝飯前のはず。それなのに、俺の小さな成功を心から喜んでくれている。


「た、ただちょっと改造しただけだよ」


 照れ隠しにそっぽを向くと、美琴が興味深そうに首を傾げた。


「改造? なにそれ面白そう! 呪式に落書きでもしたの?」


 好奇心旺盛な瞳を輝かせながら、ひょいと俺の式盤を覗き込む。


「……企業秘密」


「なにそれ! ずるい! 私にも教えてよ!」


 ぷくっと頬を膨らませて抗議する美琴。その無邪気で愛らしい表情に、心臓が激しく跳ね上がった。


(やば……今の表情、反則的に可愛い……)


 六歳という年齢を考えると早すぎる感情かもしれないが、胸の奥で何か熱いものが渦巻いている。


「よーし! それじゃあ私も負けてられないわね!」


 美琴が意気込んで印を結ぶ。すると足元の小さな狐式神が「こんっ」と愛らしく鳴いて立ち上がる。その身体がみるみる膨らんで、やがて人の背丈ほどまで大きくなった。


「……おお、やっぱり美琴は格が違うな」


 素直に感嘆の声を上げると、美琴が得意そうに鼻を鳴らす。


「ふふん、これくらい私にかかれば余裕余裕──あれっ!?」


 突然、ドシンという鈍い音が道場に響いた。巨大化した狐が暴れ始め、美琴の制御を振り切って天井に頭をぶつけたのだ。


「ちょ、ちょっと待ちなさいコラぁ! 言うこと聞きなさい!」


「きゅうぅぅぅん!」


 狐は混乱したように鳴きながら、ますます激しく暴れ回る。


(……これは典型的な暴走ループだ)


 狐の霊術式が、破綻したコードにしか見えない。このまま放置すれば、式神が完全に制御不能になる。

脱出Exit


 俺は咄嗟に小声で術式修正の詠唱を始めた。修正パッチを一行だけ挿入する。すると──暴れ回っていた巨大な狐がピタリと動きを止め、まるで何事もなかったかのように尻尾を振りながら美琴の足元にすり寄ってきた。


「……え?」


 美琴は呆然と狐を見下ろし、それから困惑した表情で俺を振り返った。


「直った……? 今、何かしたでしょう? 私、確かに聞こえたもん」


「さ、さぁ? 何もしてないけど……」


 慌てて誤魔化そうとするが、美琴の鋭い視線は逃してくれない。


「絶対嘘! 何かしたでしょう!」


 ぐいっと顔を近づけて詰め寄ってくる。至近距離で見つめ合う形になり、美琴の大きな瞳が俺の視界を満たす。長いまつ毛、桃色の唇、頬に浮かんだ薄紅──すべてが鮮明に映って、心臓の鼓動が耳に響くほど高鳴った。


***


 数秒間の沈黙が流れた後、美琴がふいに表情を和らげた。


「……尚って、ほんと」


 声が急にしおらしくなる。


「時々、ずるいくらい特別なことするんだから」


 怒りではなく、困惑と……そして何か温かい感情が込められていた。美琴が自分で口にした瞬間、彼女の顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。


「な、なんでもない! 今のは忘れて!」


 慌てたように両手をばたばたと振り回し、狐が主人を見上げて「きゅう?」と小首を傾げる。


 道場に、甘い空気が降りてきた。


 俺の胸の奥では、今まで感じたことのない確かな鼓動が力強く響き続けていた。美琴の言葉──「特別」という響きが、心の深いところで温かく反響している。


(特別、か……)


 落ちこぼれと呼ばれ続けた俺を、彼女だけは違った目で見てくれている。その事実が、どんな術の成功よりも嬉しかった。


 前世では味わうことのなかった、この胸を満たす暖かな感情。それが何なのか、まだ幼い俺には正確には分からない。


 でも、不思議と前を向ける気がした。


「ねえ、尚」


 美琴が恥ずかしそうに視線を逸らしながら言った。


「次も……困った時は、助けてくれる?」


「当たり前だろ」


 即答すると、美琴がパッと顔を上げて満面の笑みを浮かべた。


「約束だからね!」


 小指を差し出してくる。俺も小指を絡めて、指切りの約束をした。柔らかくて温かい指の感触が、妙にドキドキする。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます!」


 美琴の声が、道場に明るく響いた。


 だが、術式の修正は1度に2回まで冷却期間は三分必要だ。三回目からは精度が下がるし慎重な運用が必要だ。

 その日から、俺は本格的に術式の修正に取り組むことにした。


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