第六話 リリア
雪が少しずつ解け始める頃、蒼護市の空気はまだ冷たいのに、日差しだけは春を予感させていた。
机にノートを広げ、蛍光ペンを指で弄んでいた俺は、またあの違和感を覚える。
『ここは例題四を重点的に。理解が甘いまま進んでも意味がありません』
穏やかで丁寧な口調。
だが、数分後にはまるで別人になる。
『四番、重点。理解が甘い。次』
短く、冷徹に。
俺は思わず眉をひそめた。
「おまえ、さっきと口調が違うだろ」
『同一です。誤認識にすぎません』
あくまで平然としているが、やはり妙だ。俺は小さくため息を吐く。
いつまでも“声”って呼ぶのもややこしいし……と、半ば照れ隠しのように口を開いた。
「じゃあ、名前でも付けるか。……Siri、とか――」
『不適切です。停止』
頭の奥にパチッと火花が走ったような感覚。言葉が喉で止まった。
な、何だ今の……?
『冗談で済ませるものではありません。あなたの記憶から最適な候補を抽出しました』
次の瞬間、俺の胸を直撃する言葉が響く。
『――“リリア”です。以後、私はリリアと名乗ります』
「はぁ!? なんでそれ知ってんだよ!」
心臓が跳ねた。リリア。
俺がこっそり読み続けていたラノベのヒロイン。誰にも話したことのない“俺の秘密”だった。
顔が熱くなる。だが“声”――いや、リリアは淡々と告げる。
『あなたが最も信頼し、長期的に伴走を望む名です。ご安心ください、以後はリリアと呼んでください』
「勝手に決めんなよ……!」
けれど、心のどこかで否定できなかった。名前を得た途端、“声”がただの機能ではなく相棒になったように感じられたからだ。
さらにその夜、俺はもう一つ気づいた。
リリアの“設定”を開けることに。
〈プロフィール〉〈口調〉〈助言の粒度〉〈倫理フィルタ〉――。
リストを前に息を呑む。俺は口調を「丁寧」に固定し、科目ごとに助言の詳細度を調整した。
するとリリアは静かに答えた。
『承知しました。これで、効率は二八パーセント改善されます』
その瞬間、俺の世界は少しだけ広がった。
◇
数か月が過ぎた。
積雪が消え、街の霧も薄れる頃。期末テストの答案が返却される日が来た。
廊下に響く雪解け水の匂い、湿った上履きの感触。俺は深呼吸しながら席に座った。
答案が配られていく。ざわめき、ため息、笑い声。
そして――
「工藤」
先生から渡された一枚の紙。右上の赤数字を見て、思わず目を見開いた。
九十七点。数学は満点。英語もわずか一問の失点。国語も副科目も軒並み高得点。
俺は手が震えるのを抑えきれなかった。
「えっ、工藤……?」
「嘘だろ、どうしたんだよ」
「工藤って、あの工藤だよな」
周囲がざわつく。普段目立たない俺の答案を見て、同級生も教師も驚いている。
先生は少し目を細め、ぽつりとつぶやいた。
「……工藤、よく頑張ったな」
胸の奥が熱くなる。
俺は答案をファイルに挟み、机の下で小さく呟いた。
「……これが、俺のスキルだ。なあ、リリア」
返事はなかった。
ただの沈黙が、相棒の確かな存在を告げているように思えた。
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