第四話 凡人の俺に“未来”が見えた日

 休日の午後、郊外のブックマーケットに足を運んだ。

 広い店内には雑誌や小説、ゲームソフトまで雑多に並んでいる。

 その奥、ひっそりと設けられた“100円棚”――そこが俺の目的だった。



「……ネットで調べればいいだろ。タダだし、早いし」




 心の中でぼやいた瞬間、声が割り込んできた。




――『ネット記事は断片的で、表層的です。読み流して終わり、記憶には定着しません。


 ですが紙の専門書は体系として知識が整理されています。


 あなたは順番に“読むだけ”でいい。私が整理し、必要なときに引き出します。』




 冷たいはずの声が、不思議と説得力を帯びて響いた。




 語学棚の下段。埃をかぶった古い辞書や児童向けの英語本が無造作に並んでいた。


 黄ばんだ英和辞典。背表紙が剥がれかけた子供向けの短編リーダー。


 どちらも100円。




「誰が買うんだよ、こんな古いやつ……」




――『お前です。辞書は体系、リーダーは用例。二つで完結します』




 ため息をつきながらも両方を抱え、レジに向かう。


 小銭を出した瞬間、財布の軽さが現実を突き刺した。


 それでも、昨日の昼飯一回を削れば帳尻は合う。




 下宿に戻ると、ストーブの前で膝を抱えながら本を開いた。


 英和辞典のページを、ただ目で追う。




「……見るだけで、いいんだよな」




――『はい。理解しようとしなくて結構です。入力すれば、私が整理します』




 ページをめくるたびに、紙のざらつきが指先をかすめる。


 理解はできない。けれど、頭の奥に淡いノイズが走る。


 まるで見た文字が脳の奥に沈殿していくみたいに。




 数十分後、俺はふと手を止めた。


 子供向けのリーダーを開き、一行を目で追った。




 ――“This is my voice.”




「……あれ?」




 読めた。いや、読める気がした。


 “voice”――声。


 目の前の文字が、頭の中の“声”と重なる。




――『正解です。あなたはすでに、ひとつ理解しました』




 胸が跳ねた。




 その夜。




 ノートに落書きみたいに単語を書き連ねる。


 book、本。snow、雪。town、町。


 不思議なことに、ただ見ただけなのに、スペルの形が頭から離れなかった。




――『一日五語で結構です。三百六十五日で千八百語。


 千八百語あれば、日常会話に十分対応可能です』




「……俺でも?」




――『はい。あなたでも』




 冷たい声なのに、不思議とあたたかかった。


 百円の辞書と、百円のリーダー。


 小さな投資が、確かに世界を変え始めていた。




 布団に潜り込みながら、俺は思った。


 俺が英語を学ぶ理由は、まず期末テストを乗り切るためだ。


 落ちれば補修が待っている。面倒で時間を食うあの地獄を、もう味わいたくない。

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