第10話 世界の声を拾ってしまう者
翌朝、僕は川のせせらぎと、遠くで鳴る鐘の音で目を覚ました。カザマチの宿で見た悪夢の気配は、この街の清らかな空気の中ではどこにも感じられない。
(よく眠れた……)
僕は上体を起こし、窓から差し込む朝の光に目を細める。テーブルの上では、石の相棒が静かに朝日を浴びていた。
食堂に降りると、昨日の少女が元気な声で迎えてくれた。
「おはよう、旅の人! よく眠れた?」
「ああ、とても。昨日の魚、本当に美味しかったよ」
「でしょ! ミーナも大好き!」と彼女は胸を張る。
自分のことを名前で呼んだのが少し恥ずかしかったのか、ミーナは照れたように頬をかくと、仕切り直すように言った。
「あたしはミーナ! 旅の人は、なんてお名前?」
その真っ直ぐな瞳に、僕は観念して小さく息を吐いた。
「カイだ。よろしく、ミーナ」
朝食のパンとスープを味わいながら、僕はミーナにそれとなく尋ねてみた。
「ミーナ。この街で、少し変わった薬草やお香を売っている店を知らないかな?」
「変わったお香? それなら、三番目の橋のそばにある、エララおばあちゃんのお店だよ! いろんな匂いの葉っぱとか、きれいな石とか、たくさん置いてあるの!」
ミーナに礼を言い、僕は教えられた店へ向かった。
その店は、柳の小道に面した、ひっそりとした佇まいだった。木の扉を押すと、カラン、と澄んだ鈴の音が鳴る。店内は、乾燥した薬草や磨かれた石、そして心を落ち着かせる香の香りで満ちていた。店の奥で、物静かな老婆が、薬研で静かに何かをすり潰している。彼女が、エララさんだろう。
僕が声をかけようか迷っていると、エララさんは顔も上げずに言った。
「……そこに突っ立っていないで、座りなさい」
指し示された丸椅子に、僕は恐る恐る腰を下ろす。エララさんは薬研を動かす手を止め、ようやく僕の方に顔を向けた。皺の深い目が、僕の魂の奥まで見通すように、じっと見つめてくる。
「旅の者だね。ただの薬草を買いに来た顔じゃない。お前の魂は、ひどく騒がしい」
(……見抜かれている)
僕は観念して、話し始めた。
「……突然、聞こえるようになりました。風の声が、遠くの噂や匂いを運んできます。足元の道は、そこであった過去の出来事を教えてくれます」
僕は一度言葉を切り、自分の胸に手を当てた。
「でも、それだけじゃない。人の多い場所に行くと、声だけじゃなく、そこにいる人や土地の感情が、全部僕の中に流れ込んでくるんです。喜びも、怒りも、悲しみも……全部。まるで、自分と他人との境目がなくなって、他の誰かの記憶の濁流に溺れていくような……」
僕の話を黙って聞いていたエララさんは、静かに頷いた。
「……お前さんは、世界の声を拾ってしまう者、じゃな。その力は、本来なら師から弟子へと、長い時間をかけて受け継がれるもの。じゃが、お前さんの場合、何の準備もない魂に、力が無理やり流れ込んでしもうた。だから、声の聞き分けも、耳の閉じ方も知らぬまま、世界のあらゆる声に苛まれておる」
彼女は、僕が「呪い」と呼んでいたものの正体を、静かに解き明かしていく。
「だが、そのままでは危うい。いずれお前自身の魂が、他者の記憶の濁流に飲み込まれて、消えてしまうだろう」
(消えてしまう……)
その言葉が、重く胸に響いた。
「治す方法は、あるんですか?」
「わしにできるのは、応急処置を教えることだけじゃ」とエララさんは言う。
「例えば、意味のない詩を頭の中で繰り返し唱え、他の声が入る隙をなくす。
あるいは、一つの石を無心に磨き続け、意識を指先にだけ集中させる。そうやって、無理やり耳を遠ざけることはできる。じゃが、それは一時しのぎに過ぎん」
(意味のない詩、ね。昨夜、その道のプロに会ったばかりだけど)
「根本的に治すには……」
「お前さん自身が、力の使い方を学ぶしかない。わしには教えられんが、伝承に残る場所なら知っておる。この国の東の端に『沈黙の僧院』があった。そこの者たちは、世界のあらゆる音を聞くために、まず己の沈黙を聞く術を極めたそうじゃ」
希望の光が見えた気がした。
「今日の相談は、ここまでじゃな」
エララさんはそう言うと、相談料として、僕には決して安くない額の銀貨を請求した。僕は有り金のほとんどを支払い、礼を言って店を出る。
川沿いのベンチに座り込み、僕は自分の財布が、旅を続けるには絶望的なほど軽くなっていることに気づいた。鞄からゴーレムを取り出し、膝の上に置く。
「なあ、相棒。希望は見えたけど、先立つものがなくなっちまった」
僕は、ため息をついた。
「僕が力を制御する方法を学ぶための旅費は、これでほとんどない。君の心臓石の代金がいくらかも、まだ分からないっていうのに」
(まあ、いざとなったら、昨日の詩人たちの集会に行けば、意味のない詩はいくらでも手に入りそうだけどな……さて、どうしたものか)
希望と同時に、資金難という新たな、そして現実的な問題に直面した僕は、この美しい街でどうやってお金を稼ぐべきか途方に暮れるのだった。
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