第13話 基礎と遊戯

 王都の喧騒が嘘のように静まり返った、大聖堂裏の広場。夕焼けの赤い光が、広場に集う二人……シノンと、魔王ディアブロの姿を照らしていた。


「どうだ、小娘。……ここで私と、良いことをして遊ばないか?」


 魔王の、その圧倒的な『圧』を前に、シノンはゴクリと唾を飲んだ。だが、逃げられるとも思えなかった。


(やるしか、ない……!)


 シノンは、あの森で幹部と対峙した時と同じ、『基礎』の構えへと、静かに移行しようとした。


「……ほう」


 ディアブロは、その構えを見て、楽しそうに目を細めた。


「マグナスの武か。……いいだろう。それが、私にどこまで通じるか、試すがいい」


 ディアブロは、挑発するように、シノンに手を差し出した。


「……っ!」


 シノンは、構えを取ったまま、動かない。


▶(シノン)◇


(ダメだ……!)


 この人が、あの魔人幹部の王。本気で戦ったら、あの山崩やまくずしどころじゃない。王都が、……みんながいる、私の日常が、壊れちゃう……!


(でも、戦わなかったら? この人は、見逃してくれるの? ……いや、ダメだ。あの目は、遊ぶことしか考えてない)


 魔人幹部を退けた私を玩具として見ている。私が戦うまで、この人は、絶対にここから動かない。それどころか、私が逃げたり、戦うのを拒否したりしたら、無理やりにでも私を戦わせるために、この王都を人質にするかもしれない。


(戦うしかない。……でも、ここでは、絶対にダメだ!)


▶◇◇◇


「……どうした? 構えたまま動かんとは」


 ディアブロが、つまらなそうに眉をひそめる。


「マグナスの子孫のこりかぜが、その程度か。……ならば、こちらから火種を与えてやろう」


 ディアブロが、指先を、広場の向こう……シノンが逃げてきた市場の方角へ向けた。その指先に、破滅の光が宿る。


「……っ! やめて!」


 シノンが、悲鳴に近い声を上げた。


「やめてほしいか? ならば、遊べ」


 ディアブロは、冷徹な魔王の演技で、シノンに選択を迫る。


「……わ、分かりました! 遊びます! ……いえ、戦います!」シノンは、必死に声を振り絞った。 「戦いますから! ……だから、お願いがあります!」


「……ほう? お願い、だと?」


 ディアブロは、シノンが戦うことを選んだことに満足し、指先の光を消した。


「この場所じゃ、ダメです……!」シノンは、必死に訴えた。「ここには、私の……私の日常があるから。私の、大切な友達がいるから!」

「……それで?」

「だから! 誰もいない、誰も傷つかない、場所にしてください!」シノンは、深く、深く、頭を下げた。「そこなら、私、あなたの遊びに、付き合いますから……!」


 せめて場所を変えてほしい。それは、シノンが日常を守るために、必死でひねり出した、唯一のお願いだった。


 ディアブロは、そのを聞いて、数秒、黙り込んだ。そして。


「……クク。……ハハハ! 面白い! なんと面白い小娘だ!」


 ディアブロは、心の底から楽しそうに笑い出した。魔王は、恐怖よりも仲間を守ることを優先し、その上で戦うことを選んだ。そして、場所を変えろということは、場所さえ変えれば、本気で戦うという、意思表示に他ならない。


「いいだろう! その魔王わたしが直々に、叶えてやろう!」


 ディアブロが、手を掲げる。


「貴様の日常ではない、我ら二人のためだけの場所へ、案内してやる!」


 ディアブロの足元の影が、広場全体を飲み込むかのように、爆発的に広がった。


「きゃっ!?」


 シノンは、その影に飲み込まれる。視界が、闇に閉ざされた。


 ◇


 ほんの数秒の浮遊感。シノンが、次に目を開けた時、そこに王都の姿はなかった。見渡す限りの、荒野。乾いた風が吹き、崩れかけた古代の闘技場のような遺跡が、点在している。


「……ここは?」

「かつて、私とマグナスが遊んだ場所の一つだ。ここなら、誰も文句は言うまい」


 ディアブロが、闘技場の中央に、音もなく立っていた。彼は、シノンに向き直ると、その赤い目を、挑戦的に細めた。


「さて、小娘。……いや、シノン、だったか」

「……!?」 (名前まで、知られてる……!)

「お前のは、聞き入れた。……次は、お前が、私の退屈を終わらせる番だ」


 シノンは、もう、迷わなかった。仲間はいない。壊れるものもない。平凡を演じる必要もない。あるのは、自分と、目の前の最強だけ。


(……じいちゃん。私、初めて、本気で『基礎』を使ってみるよ)


 シノンは、不敵に笑った。あの森での構えとは違う。護身ではない、純粋な戦闘のための『基礎』の構えを取る。


「――『アベレージ・ワン』、シノン! 行きます!」


「来い! マグナスの子孫のこりかぜ!」


 二人の最強が、同時に、地を蹴った。


 ディアブロは、指先から、あの幹部が使った『影の槍』を、数百、数千と、豪雨のように放つ。だが、シノンは、その全てを『基礎』の歩法だけで、完璧に回避する。


「遅い!」

「ほう!」


 シノンは、回避しながら距離を詰め、『基礎』の掌底を、ディアブロの胸元に叩き込もうとする。ディアブロは、それを片手で受け流す。


 バゴォン!  受け流されたシノンの掌底は、背後にあった闘技場の壁に衝撃波となって突き刺さり、壁が粉々に砕け散った。


「……ククク。今のは危なかったな」


 ディアブロの目が、さらに楽しそうに輝く。


「ならば、これはどうだ。『重力魔牢グラビティ・ジェイル』!」


 シノンの全身に、山脈が乗ったかのような、凄まじい重力がかかる。


「ぐ……っ!」

「どうした? その程度か!」

「……『基礎』呼吸法!」


 シノンは、特殊な呼吸法で、体内の魔力を『気』に変換し、爆発させる。


「――『山崩やまくずし』、ゼロノ型!」


 ドッッッ!  魔王幹部に使った『踏み込み』ではない。自身の体から放たれた衝撃波が、ディアブロの重力魔術そのものを、内側から粉砕した。


「な……!? 魔術を、気で相殺しただと!?」


 ディアブロの演技の仮面が、初めて、明らかに剥がれ落ちた。


「楽しい……!」


 シノンが、心の底から笑っていた。


「すごい! あなた、すごい! じいちゃんとの『基礎訓練』みたいだ!」

「……!」


 その笑顔を見た瞬間、ディアブロも、すべてを理解した。この小娘は、自分と同じなのだと。


「……ハハ。……ハハハハハ!」


 ディアブロも、腹を抱えて笑い出した。『魔王の威厳』など、もうどうでもよかった。数十年……いや、数百年の退屈が、今、終わったのだ。


「最高だ! 最高だぞ、シノン!」


 ディアブロの赤い目が、魔王ではなく、一人の男の、歓喜の色に変わる。


「ならば、これからは本気で遊ぼうではないか!」


 ディアブロの手に、漆黒の炎が集まり、剣の形を取る。


「行きます!」


 シノンも、構えを新たにする。初めて出会った『自分と互角の相手』。二人の全力の遊戯バトルが、天地を揺るがし、始まった。



 ◇



 どれだけの時間が経ったのか。荒野は、もはや原型を留めていなかった。闘技場は消滅し、大地はえぐれ、クレーターだらけになっている。


「……はぁ……はぁ……!」

「……クク。……はぁ……」


 シノンとディアブロは、お互い、ボロボロになりながら、距離を取って睨み合っていた。二人とも、息が上がっている。だが、その顔は、この上なく満足していた。


「……最高だ」


 ディアブロが、心からの笑顔でシノンを見た。


「まさか、マグナス以外に、私とここまで遊べる人間がいたとは」


 シノンも、息を整えながら、笑顔を返した。


「……楽しかった。こんなに本気で『基礎』を使ったの、初めてかも!」


 互角。全力を出し切って、なお、互いに立っている。二人は、言葉を交わさずとも、互いの孤独を理解した。


 ディアブロは、シノンの表情を見て、ふと、長年忘れていた感覚を思い出した。


「……貴様も、私と同じか」

「え?」

「私も、ただ平凡に生きたかっただけだ。だが、この力が、それを許さなかった。……貴様も、そうだろう?」

「……!」


 シノンは、目を見開いた。目の前の魔王が、自分と同じことを考えていたと知り、言葉を失う。


「……気に入った」


 ディアブロが、不意に、真剣な顔で言った。


「シノン。貴様は、今日から私の『嫁』だ」

「………… ………… ………… …………へ?」


 シノンの頭が、真っ白になった。  今、この人、なんと言った?  よめ?  『嫁』?


「え? あ、あの……!?」

「決まりだ」


 ディアブロは、シノンの返事も聞かず、満足げに頷く。


「私は、一度欲しいと決めたは、必ず手に入れる主義でな」

「お、!? ていうか、嫁って……!」

「また遊びに来る。……いや、逢いに来る、シノン」


 ディアブロは、そう言い残すと、シノンの返事を待たず、再び影となって、その場から消え去った。


「あ……」


 一人、原型を留めない荒野に残されたシノン。数秒後、自分の言われた言葉の意味を、ようやく理解し始めた。


「(全力で戦えて、楽しかった……けど……)」


 シノンの顔が、荒野の夕焼けよりも、真っ赤に染まった。


「よめ!?!?!?ー」


 誰もいない荒野にシノンの声が響き渡った。

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