第5話 鍛練の始まり

 宿の食堂は、朝ということもあって柔らかく明るい雰囲気に満ちていた。

 木製の長いテーブルには、焼き立てのパンと温かい野菜スープ、薄く切られたハムが並ぶ。

 他の宿泊客たちは旅支度を整えながら、やや急いだ様子で食事を取っていた。

 ネアはのんびりとパンをちぎり、スープに浸して口に運ぶ。

 野菜の甘みが広がり、胃の中に温かさが染みていく。


 『……こういう静かな朝もいいわね』


 耳に甘い声が届く。

 レセルは剣の姿で、ネアの背中に立てかけられていた。

 食堂の客たちは皆それぞれの会話に夢中で、ネアが小声で話しても気にしない。

 遠目には、独り言をぶつぶつ言っているように見えるものの。


 「言うほど静かじゃない気がするけど……。今日はどうする? 追加の報酬でだいぶお金には余裕できたけど、仕事探す?」

 『それもいいけど……どうせなら鍛練の時間を取った方がいいわ』

 「鍛練? 昨日戦ったばかりだよ」

 『だからこそ、よ。戦いの感覚は間を空けると鈍る。それに──』


 少し間を置いて、レセルの声が低く、しかし甘さを含んで続く。


 『剣を使えない時の戦い方も覚えてほしいの』

 「……剣を使えない時?」

 『奪われた時、人前で抜けない時、そういう可能性ってあるでしょう? そんな時でも、あなたは生き延びなきゃならない』


 ネアはパンを食べながら少し考えた。

 確かに、昨日の水路みたいに見知らぬ存在と不意に出会い、いきなり戦闘になることはあり得る。

 剣を握れない状況だと、今の自分には何もできない。


 「……わかった。じゃあ、部屋でやる?」

 『ええ。人目がない方がいいし、わたしも人の姿で教えられる』


 食事を終えると、すぐに部屋へ戻った。

 窓から差し込む朝の光が、木の床を斜めに照らしている。

 ネアは荷物を壁際に寄せ、少し広いスペースを作った。


 『じゃあ……始めましょうか、ネア』


 床を片付け終えると、背中の剣が淡く光に包まれ、人の姿となったレセルが現れた。

 長い袖の白いワンピース姿をしており、ネアは思わず全身を見つめる。


 「あら、そんなに見つめてどうしたの?」

 「そういえば、きちんとレセルのこと見てなかったなって。……着てる服って、もし破けたらどうなるの?」


 意外な問いだったのか、レセルはくすりと笑い、ひらりと舞うようにその場で回転する。

 ふわりとスカートが広がり、柔らかな布の揺れが部屋の空気を撫でた。


 「剣に戻ってからまた人になれば元通りよ。これはわたしの魔力で紡いだようなものだから。……実は結構なお気に入りなの」


 そう言うと、レセルは軽く裾をつまみ上げて一礼し、小さく笑う。

 そして距離を詰めてくると、そっと手を伸ばし、ネアの茶色い髪を指先でなぞった。

 柔らかな感触を確かめるように、さらりと髪をすくい上げる。

 どこか不意打ちのような仕草に心臓が跳ね、ネアは思わず身じろぎする。


 「もっと触れていたい気持ちはあるけれど、そろそろ鍛練に移らないとね」


 赤い瞳がまっすぐこちらを見つめている。

 どこか楽しげで、しかし優しさを感じさせる視線。


 「ええと、鍛練といっても……何からするわけ?」

 「まずは体の動かし方から。剣が使えない時は、回避と拘束が基本よ」


 レセルは軽く腕を回しながら、ベッド脇の空いたスペースに立つ。

 ネアが向かい合うと、すぐに一歩踏み込み、手首を掴んできた。

 捻って、軽く腰を入れると、ネアの体が簡単に横へ崩れる。


 「うわっ……!」

 「力任せじゃダメ。相手の力の流れを利用するの」


 ネアは素早く立ち上がり、今度は自分から手を伸ばす。

 だがレセルはくるりと回って受け流し、背後へ回り込んだ。

 首筋すれすれに吐息がかかる距離で、甘い声が響く。


 「ね? 簡単に背中を取られちゃう」

 「……くっ」


 次は回避の練習。

 レセルがゆるく踏み込み、ネアは横へ跳んでかわす。

 だが一歩目が遅れ、肩を軽く押されてバランスを崩してしまう。


 「まだ遅い。動きの前兆を感じ取って」

 「そんな簡単に感じ取れたら苦労しないよ」


 何度か繰り返し、少しずつネアの動きが良くなる。

 それでもレセルは不意に速度を上げ、真正面から踏み込んだ。

 手首を取って一瞬引き込み、足を払う。


 「きゃっ……!」


 ベッドに押し倒されたネアは、沈み込むマットレスの感触と同時に、茶色の髪が乱れた際、レセルの白い髪が頬をくすぐるのを感じた。

 赤い瞳が間近に迫り、魔剣の少女は笑みを浮かべる。


 「まだまだ未熟ね」

 「いきなり速くするなんて反則でしょ」

 「反則なんてないわ。本番で手加減してくれる敵はいないもの」


 そう言うとレセルはぎゅっと抱きしめた。

 腕の力は優しいのに、逃げられないほどしっかりしている。


 「でも……あなたが強くなってくれたら、わたしはもっと安心できる」

 「……わかったよ。じゃあ、もう一回」

 「ふふ、やる気になった?」


 ネアが頷くと、レセルはようやく体を離し、手を差し出して起こした。

 そして再び構えを取る。

 距離は近く、互いの呼吸が感じられるほど。


 「今度は……捕まらないから」

 「楽しみね」


 部屋の中で、二人の足音と小さな声が続いた。


 ◇◇◇


 あれから何度も受け流しと回避を繰り返し、ようやくネアはレセルの腕を捉えた。

 軽く押し返すと、レセルは一歩下がり、わざとらしく両手を上げて降参の仕草をする。


 「……まあ、最初よりは良くなったわね」

 「ふぅ、やっと褒めた」

 「褒めて伸ばすのも悪くないけど……わたしは、もっと欲張りなの」


 そう言って、レセルは不意に距離を詰め、ネアの肩を引き寄せた。

 腕の中に閉じ込められると、鼓動と体温が伝わってくる。

 耳元で、ささやくように甘い声が落ちた。


 「強くなってほしい。そうすれば、あなたを失う心配を少しは減らせるから」

 「……そんなに心配してるの?」

 「当然でしょ。わたしのものであり、唯一の使い手でもあるんだから」


 ネアは苦笑しつつも、腕を押し返す力は弱かった。

 そのまま数秒、静かな時間が流れる。


 「……そろそろ離して」

 「あら、もう少し、こうしていたかったのに」


 レセルがようやく腕を解くと、二人は息を整えながら窓辺に歩み寄った。

 外からは市場の喧騒や、荷車の軋む音が聞こえる。

 しかし、レセルの視線は遠くに向けられていた。


 「……ネア」

 「ん?」

 「今……誰か、見てた気がする」


 ネアも窓の外を覗く。

 通りの向こう、人混みの隙間に黒いフードを被った人影が立っていた。

 視線がこちらに向いたと思った瞬間、その影は人混みに紛れて消えていく。


 「……気のせいじゃないかもね」

 「ええ。あまりいい予感はしないわ」


 部屋に残った朝の光は温かいはずなのに、背筋にうっすら冷たい感覚が走った。

 しばらく窓辺で通りを見張っていたが、あの黒いフードの人影は現れない。

 ネアはため息をつき、肩を回した。


 「……消えたかな」

 「でも、油断しない方が」


 レセルが言いかけたその時、階下から女将の怒鳴り声が響いた。


 「こらーっ! そこ動くんじゃないよ、この泥棒!」


 二人は顔を見合わせ、急いで階下へ降りる。

 宿の入口で、さっきの黒いフードの人物が衛兵に腕を押さえつけられていた。

 フードの下から覗くのは、やせ細った中年男性の顔。

 足元には宿泊客の荷物袋が転がっている。


 「な、なんだ……ただの泥棒?」

 「……拍子抜けね」


 衛兵が「こいつは常習犯だ」と吐き捨てると、泥棒はすぐに連行されていった。

 その様子を見届けたレセルは、小さくため息をつく。


 「今回はただの泥棒だった。でも……」

 「でも?」

 「“たまたま”そうだっただけかもしれない。あの影が次も同じとは限らないわ」


 ネアは苦笑しながらも、その言葉を否定はしなかった。

 窓から差し込む午後の光が、部屋の床を斜めに照らす。

 街は平和そうに見えるが、その下で何が蠢いているのかはわからない。

 そう思うと、ほんの少しだけ胸の奥にざらついた感覚が残る。

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