『灯を分かつ法廷』

湊 マチ

第1話 前編 ― 最初の桜

『灯を分かつ法廷』


第1話 前編 ― 最初の桜


 春の風は、まだ冬の気配をひとかけら抱えたまま、福岡の街路樹を穏やかになでていく。明け方の雨が洗った舗道は薄く光り、福岡家庭裁判所の前庭では桜がふんわりと霞をかけたように咲きそろっていた。

 相馬直哉は、スーツの袖を整え、門標の金文字に目を留める。金属の冷たさを掌に移すように、一瞬だけ触れた。花びらが肩に落ちる。呼吸と同じ速さで、枝々の先が揺れる。


 「ここからだ」


 声に出すほどでもない独白が胸の内で形になった。35歳。裁判官になって10年。刑事と民事を一通り巡って、今回が初の家裁本格配属だ。

 庁舎の重い扉を押すと、石と木で組まれた静かな空気が広がる。厚いガラス越しに外の桜が白い光をまとい、その反射が廊下の床にゆっくり流れている。誰かの足音が遠くで角を曲がり、すぐ消えた。


 執務室は、前任者が残した几帳面さがそのまま残っていた。判例雑誌に色分けされた付箋、万年筆のキャップ、飴玉がひとつ。窓から見える並木は、視界の端で絶え間なくほどけては結ばれている。

 相馬は法服をハンガーに掛け直し、机に腰を下ろした。椅子がわずかに鳴る。その瞬間、扉が控えめに叩かれる。


 「相馬判事、最初の記録が参りました」


 書記官の高梨が両手で抱えたバインダーを置く。角がすり減っている。表紙には黒いゴシックで「親権者指定 審判事件」とある。

 綴じ紐を解く。紙の匂いは雨上がりの街に似ていた。


 申立人:田村誠一(37)。

 相手方:田村由美子(32)。

 子:彩花(8)。


 ざっと目を通す。離婚後、親権者をどちらに定めるかを巡って調停は不成立。審判に移行。

 誠一は「安定した収入と教育環境」。由美子は「出生以来の継続性と子の情緒」。

 ページを繰る指先に、花びらが1枚、ひらりと落ちて貼りついた。淡い桃色が黒インクの縁をやわらげる。


 (条文は明快だ。しかし、人は条文でできていない)


 窓の外、街路の先で保育園の園児たちが先生に手を引かれて横断歩道を渡っていく。黄色い帽子が小さな波をつくる。

 相馬はペン先で、申立書の欄外にごく小さく書く。「環境の継続性」「監護の実績」「子の意思の把握」。基本的な視座を、確認するためだけに。


 「家裁調査官の面接、日程入れておきます。調停室は第3でよろしいですか」

 「お願いします。双方の代理人とは別に、本人意見聴取の機会も検討しましょう」


 高梨が頷いて退室する。扉の閉まる音が緩やかに響き、静寂が戻る。

 相馬は改めて事件記録を開き、時系列を編み直した。結婚、妊娠、出産。誠一の転勤。由美子が実家に一時帰省。些末に見える出来事の隙間に、見過ごせない言葉が点々と落ちている。「平日夜は帰宅が遅い」「保育園の迎えはほとんど母」「休日は家事をめぐって口論」。それらを線で結ぶと、表に浮かぶのは白ではなく淡い灰色だった。


 初回期日の朝、雨は完全に上がっていた。調停室の長机は、真ん中に浅い傷が1本走っている。知らない誰かの年月が刻まれた線だ。壁の時計の秒針が一定の間隔で音を刻み、その合間合間を、桜の花びらが窓の向こうで落ちていく。


 先に入室したのは由美子だった。黒いカーディガンの袖口が少し伸び、指先がそこから覗いている。両手で1冊の絵本を抱え、膝の上でぎゅっと押さえる。目は腫れぼったいが、座る姿勢には芯があった。

 「裁判官……彩花は、私と一緒にじゃないと眠れないんです。夜中に目を覚ますと、必ず私の名前を呼ぶ。友達も近くにいて、学校も好きで……転校は避けたい。私、働くつもりです。実家も手伝ってくれます。どうか、お願いします」

 言葉は決して流暢ではない。だが、その途切れ途切れの隙間から、暮らしの温度が確かに漏れ出る。


 入れ替わるように誠一が入る。グレーのスーツ、落ち着いたネクタイ。椅子に座る背筋は真っ直ぐで、資料のファイルは角が揃っている。

 「私は会社員です。部署異動はあっても、収入は安定している。教育費の見通しも立つ。由美子さんの献身を否定するつもりはありません。ただ、将来を考えるなら、学区や通学環境を含め、私が親権者となるのが相当と考えています」

 抑えた声。言葉の輪郭はくっきりしているが、その影には焦燥が宿る。

 相馬は視線を一度だけ下げ、机の上に置かれた折り畳みの紙に気づく。由美子がそっと差し出したものだった。


 「彩花が書いた作文です。先生が、気持ちを言葉にする練習だって……」


 紙には、鉛筆で大きな文字が並んでいた。

 〈わたしは、おかあさんと いっしょが いい〉

 〈でも、パパと こうえんで あそぶのも すき〉

 消しゴムの消し跡がやさしく灰色の雲をつくっている。行間に小さな桜のシールが1枚貼られていた。

 相馬は、喉の奥に小さく硬いものを感じた。これを法廷語に翻訳した瞬間、何かを失うのではないかという予感だ。


 「本件では、家裁調査官による調査を実施します。学校や住居環境、監護の状況、子の心情を丁寧に確認しましょう。きょうは、お2人のお話を伺うことを中心にします」


 形式に則った言い回しを口にしながら、相馬は2人の手元を見た。由美子の指は、絵本の角を白くなるほど握りしめている。誠一の親指は、無意識にペンのクリップを上下させていた。どちらも、拠り所を探す仕草だった。


 調停室を出ると、廊下に春の匂いが満ちている。窓際のベンチには、面会交流で父に会いに来たらしい小さな男の子が、母の膝に頭を預けていた。母は男の子の髪に手を滑らせ、何度も同じ場所を撫でる。その様子を、職員の名札の揺れが静かに映していた。

 相馬はほんの1秒、足を止めてから執務室に戻った。


 昼をはさみ、記録の読み込みが続く。時折、桜の花びらが風に乗って窓ガラスに当たり、ゆっくり滑り落ちる。

 由美子の陳述書。夜、熱を出した彩花を抱えて救急外来に走ったこと。卒園式の朝、リボンが結べずに泣いた彩花の手を、自分の手で包んだこと。

 誠一の陳述書。教育ローンの試算表。学童の待機、塾の時間割、父の実家の支援の申し出。

 線は縦横に交わるが、どの交点にも、完全な白はなかった。


 夕刻、家裁調査官の東海林が来室した。40代半ば、穏やかな目の人だ。

 「初動で、学校とご自宅、双方の祖父母のお話も伺います。子の意見聴取は、学校のカウンセリングルームをお借りするのが良さそうですね。相馬判事、気になる点は」

 「環境の継続性をどう評価するか。監護補助者の実効性。あと……子の言葉の裏にあるものを、逃したくありません」

 東海林は頷き、メモに短く線を引く。

 「子は、よく大人の期待を読むんです。言葉の表面をなぞると、見誤ります。そこは気をつけます」


 窓の外で、風が少し強くなった。枝先がわずかにしなる。花びらが数枚、ガラスに流星のような軌跡を残して落ちていった。

 日が傾き、廊下の灯りがひとつ、またひとつと点る。人の気配が少なくなると、建物は呼吸を変える。階段の踊り場に、昼間は気づかなかった小さな影が生まれ、消える。


 夜。壁の時計が20時を回ったころ、執務室に残っていたのは相馬だけになっていた。机一面に広げた記録の白が、蛍光灯の光を反射して目に痛い。

 判例データベースの画面を閉じ、相馬は窓を少し開けた。冷たい空気が頬を撫で、遠くの国道から車の音が低く流れ込む。桜の香りは夜になると薄く、代わりに湿った土の匂いが強くなる。

 窓辺に立つと、庭の桜は昼間よりも輪郭がはっきりして見えた。光の少ない中で、花は自ら淡く発光しているようだ。


 (この紙の上で、ひとつの家族の未来を決めるのか)


 白紙の審判書用紙を取り出す。右上に事件番号を書き、下の余白に、迷いに似た線が1本走る。すぐに消しゴムで消す。

 机上に彩花の作文を置く。小さな文字は、さっきより幼く見えた。人は疲れると、優しいものに弱くなる。裁判官も人だ。弱さを自覚したうえで、なお、言葉を選ばなければならない。


 「審判は、誰かの勝ち負けにしない。できるかぎり」


 声に出した。ひとり言は、部屋の空気をわずかにあたためる。

 ペンを置くと、花びらが1枚、どこからか舞い込み、白紙の左下に静かに着地した。境界を作らない色だ。

 相馬は目を閉じる。脳裏に、由美子の震える指と、誠一の固く組まれた手が交互に浮かぶ。彩花の文字。その文字の上に貼られた小さな桜のシール。誰かが、誰かのために選んだ色。


 夜の家裁は、昼間よりもずっと広い。壁時計の秒針が部屋を横切っていくように聞こえる。

 相馬は窓を閉め、椅子に戻った。審判のためのメモを新しい紙に書く。

 「監護の継続性――8年の生活実態」「就学環境――転校回避の必要性」「父の養育能力――就労形態と実父母の支援」「母の就労計画――実現可能性と保育の手当」「面会交流の具体化」。

 項目を並べてから、最後に小さく付け足す。「彩花の声の、奥行き」。


 窓の外で、風が少しだけやんだ。

 相馬はペン先を見つめ、深く息を吸う。胸の中に、やわらかい香りが満ちる。桜は、散ることを前提に咲く。だから美しいのかもしれない。けれど人の暮らしは、散ることを前提に選べない。散らさないために、切らなければならないことがある。

 審判とは、灯を分けることだ。ふたつの灯を、同じ夜にともす方法を探すことだ。


 机の隅で、携帯が短く震えた。高梨からメッセージ。「家裁調査官、学校面談は金曜午前。ご自宅訪問は土曜午後で調整済」。

 「了解。ありがとう」とだけ返し、相馬は立ち上がる。法服に手を伸ばし、すこし迷ってから、そのままハンガーに戻した。きょうは着なくていい。きょうは、ただ書く。


 審判書用紙の余白に、ひとつの文を置いた。

 ――本件における最善の利益は、誰のどの瞬間に宿るのか。

 自問の形をした問いは、答えを急がせない。急がせないからこそ、答えに近づける。

 相馬は机の引き出しから薄い便箋を取り出した。彩花への「意見聴取のお知らせ」。ひらがなを多めに、難しい言葉にはふりがなを付ける。

 〈さいばんしょのひとは、こわいひとではありません。あなたのおはなしを、よくきくひとです〉

 書きながら、自分に向けられた言葉だとも思う。こわい顔をしない。聞く。急がない。決めるときには、決める。


 時計の針が21時を告げる。蛍光灯を1本消すと、部屋の影が少し濃くなった。窓の外の桜が、ほんの少しだけ近づく。

 相馬は立ち上がり、窓の鍵を確かめ、明日のスケジュールを机上に置いた。ドアノブに手をかける寸前、振り返る。白紙の隅に置き去られた花びらが、まだそこにいる。

 その1枚が、灯りを拾って、かすかに光った。


 廊下に出ると、夜の建物は水の底のように静かだった。遠くの自販機の灯りが青く、エレベーターホールの鏡に小さく自分が映る。

 玄関を抜けて外気に触れると、桜の下はやわらかい薄闇で満ちている。足元に積もった花びらは、踏むとすぐ形を変え、また元に戻る。

 相馬は見上げた。枝の先、花のひとつひとつが、今にもほどけそうな線で世界に繋がっている。

 「急がない。けれど、遅れない」


 声は夜に溶けた。

 彼は門を出る。街の灯が遠くで瞬き、風がまた、同じ速さで桜を揺らした。


(前編・了)

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