008_モロッコ / フェズ編 ~迷宮のコンパスはスパイスの香り~
◆計画の崩壊◆
リヤドの重厚な木製の扉を開けた瞬間、街の喧騒がぴたりと止んだ。外の灼熱と渦巻くような人の気配が嘘のように、ひんやりと静謐な空気が二人を優しく包み込む。視界に飛び込んできたのは、セルリアンブルーのタイルが敷き詰められた小さな中庭。中央の噴水がこぽこぽと涼やかな音を立て、壁を伝う蔦の葉が一枚一枚、天窓から落ちる光を弾いてきらめいていた。まるで世界から切り取られた小さな宝石箱のようだ。
「うわ......すごい、別世界だね」
思わず息をのむユウの隣で、カナは壁の幾何学模様にそっと指を触れた。冷たく滑らかなタイルの感触が、火照った指先から心地よく伝わってくる。
「ゼリージュね。イスラム建築を象徴する装飾タイル。一つ一つのパーツを手作業で切り出して組み合わせる、気の遠くなるような......」
そこまで言いかけて、カナはふと口をつぐんだ。今は、知識を披露する時間ではない。この静寂を、この場の空気を味わうべきだと、肌で感じたからだ。中庭に咲くジャスミンの甘い香りが、思考よりも先に感覚を支配していた。
奥から現れた恰幅の良い女主人は、深い湖のような瞳に柔らかな笑顔をたたえ、二人を無言で招き入れた。そして、銀の盆に載せた小さなグラスを差し出す。ミントの葉が青々と浮かぶ熱い液体を一口含むと、脳天を突き抜けるような強い甘みが広がった。しかし、その後から追いかけてくるミントの爽やかな香りが、その甘さをすっきりと洗い流していく。乾ききった体に染み渡るその甘露は、まるでこの街からの最初の洗礼のようだった。
「フェズへようこそ。ここでは時計より太陽を、地図よりお腹の声を信じるといいですよ」
女主人は悪戯っぽく片目をつむいだ。ユウが「お腹の声! なんだか面白そう」と楽しげに繰り返す横で、カナは「非科学的ね」と心の中で小さく呟いた。彼女のバックパックには、この迷宮都市を完璧に踏破するための、三種類の地図と詳細な行動計画が、万全の態勢で出番を待っているのだから。
* * *
「よし、準備完了。これよりフェズ旧市街、メディナの攻略を開始します」
部屋に戻るやいなや、カナはベッドの上に広げた大きな地図をビシッと指し示した。赤いペンで引かれた線が、蜘蛛の巣のように入り組んだ路地を縫って、主要な観光名所を効率よく結んでいる。その線は、彼女の自信そのものに見えた。
「見てユウ。まずブー・ジュルード門から入り、時計回りにタンネリ、カラウィーン・モスク、そしてマドラサを巡る。このルートなら迷わず、半日で主要箇所を網羅できるはず。無駄な時間は一分もないわ」
自信に満ちたカナの横で、ユウは窓の外に広がる、密集した土色の屋根の波を眺めていた。そこかしこから生活の煙が立ち上り、微かに聞こえる槌の音や人々のざわめきが、街が生きていることを告げている。攻略、という言葉が、どうにもしっくりこなかった。
「ねえカナ。この街って、なんでこんなに道が入り組んでるの? わざと?」
「いい質問ね」とカナは待ってましたとばかりに人差し指を立てた。「八世紀末にイドリス一世がこの街の建設を始めた時、ある老人が予言したという伝説が残っているの。『いずれフェズという都は滅び、再びイドリスを名乗る者が再建するだろう』と。どこか神秘性を帯びた始まりだけど、実際この迷路は、外部からの侵略を防ぐための、極めて合理的な設計だったという説が有力よ。道は狭く、家々は高く、空を隠す。敵は方向感覚を失い、地の利を持つ住民に翻弄される。街全体が、人々を守るための巨大な要塞なの」
「へえ、街ごと要塞......。みんなを守るための迷路、か」
ユウは感心しつつも、地図に引かれた赤い線を見つめた。確かに合理的だ。しかし、彼女の心を惹きつけているのは、窓の隙間から流れ込んでくる、もっと別の何かだった。クミンやコリアンダーが混じり合った、香ばしくて、少しだけ甘い、抗いがたい香り。
「私、いい匂いがする方に行きたいな」
「匂い? ユウ、それでは計画性が......」
「だって、お腹がそっちに行けって言ってるんだもん。攻略じゃなくて、探検がしたいな」
ユウはにっこり笑って、ぐぅ、と鳴りそうなお腹をさすった。カナは盛大なため息をつくと、赤い攻略ルートをもう一度、まるで自分に言い聞かせるように、強く指でなぞった。
* * *
ブー・ジュルード門の、吸い込まれそうなほどに鮮やかな青いタイルは、フェズ・ブルーと呼ばれている。カナがその歴史的背景と顔料について解説する間も、ユウの目は門の向こう側、迷宮の入り口へと釘付けになっていた。ロバが荷を運び、フードのついた伝統衣装ジェラバをまとった人々が、絶え間なく行き交う。スパイスの匂い、革の匂い、焼き立てのパンの香りが混然一体となって、五感を刺激する。
「さあ、行くわよ。まずは右に折れて......革製品のスークを抜ける」
カナはスマートフォンでGPSを確認しながら、自信を持って歩き出した。ユウもその後に続く。道はすぐに狭くなり、両側から迫る壁が空を細いリボンに変えてしまった。金属を打つリズミカルな音、客引きの呼び声、子供たちの甲高い笑い声が、迷宮の壁に反響して不思議なハーモニーを奏でる。
色とりどりの革製スリッパ、バブーシュが並ぶ店、銀の装飾品が鈍い光を放つ店、ドライフルーツがピラミッドのように積まれた店。ユウはきょろきょろと視線を動かし、時折立ち止まってはカメラのシャッターを切る。そのたびにカナは少し苛立った声で彼女を呼び戻した。
「ユウ、計画が遅れるわ。こっちよ、この角を左」
カナは地図と周囲の景色を頻繁に見比べ、確信を持って角を曲がった。人波をかき分け、さらに細い路地へと入っていく。少し開けた場所に出て、カナは満足げに頷いた。
「ほら、計画通り。ここから南へ向かえば、タンネリ地区のはず......」
彼女がそう言って顔を上げた先。そこには、色鮮やかなガラスのランタンが天井からびっしりと吊るされた、見覚えのある土産物屋があった。つい数分前、ユウが「わあ、天の川みたい!」と足を止めた店だ。
カナの動きが、ぴたりと固まる。
隣で同じ光景を見ていたユウが、満面の笑みでくるりと振り返り、芝居がかった仕草で深々とお辞儀をした。
「カナさん、おかえりなさい!」
「......おかえりなさい、じゃないわよ!」
顔を真っ赤にしたカナが、地図に視線を落とす。赤い線は、確かに一本道を示しているはずだった。おかしい。こんなはずでは。プライドを傷つけられムキになった彼女が「もう一度よ!」と息巻いたその時、ユウの鼻がくん、と動いた。
それは、肉が焼ける香ばしい匂い。そして、タジン鍋がことことと煮える、甘く複雑なスパイスの香りだった。カナが指し示す計画の道筋とはまったく違う、迷宮のさらに奥深くから、その香りは確かにユウを呼んでいた。
◆主導権の逆転◆
「こっちよ、絶対こっち!」
カナは半ばヤケクソになって、別の路地へと突き進んだ。ユウはその背中を小走りで追いかける。さっきからもう何度目になるだろう、自信満々に角を曲がっては、数分後に見覚えのあるタイルの前に戻ってくる、というループを繰り返している。街はまるで、巨大な生き物のように二人を弄び、同じ場所へと吐き出してしまうのだ。
「私の知識が、私の計画が......こんなところで通用しないなんて......」
ついにカナは、ぜえぜえと肩で息をしながら壁に手をついた。額には汗が滲み、その瞳からはいつもの冷静な光が消えかけている。完璧に準備したはずの知識という名の鎧が、この迷宮の中では何の役にも立たない重荷にしか感じられなかった。その姿は、まるで羅針盤を失った船長だった。
「大丈夫だよ、カナ」
ユウはそんな彼女の肩をぽん、と叩いた。そして、犬のように鼻をひくつかせ、空中に漂う無数の香りの中から、ある特定の流れを嗅ぎ分ける。
「私に任せて! こっちから、すっごく香ばしい匂いがする」
ユウが指差したのは、カナの地図では完全にデッドエンドになっているはずの、暗く狭い通路だった。ためらうカナの手を、ユウはぐいと引いた。その手は温かく、力強かった。普段とは逆の、頼もしいユウと戸惑うカナ。二人の主導権が、迷宮の真ん中で静かに逆転した瞬間だった。
ユウの嗅覚だけを頼りに進む道は、カナの計画とはまったく異なっていた。それは、観光客が決して足を踏み入れないような、生活感の溢れる裏路地だった。軒先で談笑する老人たち、石段に座ってビー玉で遊ぶ子供たち、壁の染みをじっと見つめる痩せた猫。すれ違う人々は、物珍しそうに二人を見たが、その視線はどこか温かい。
「ねえ、本当にこっちで合ってるの? GPSは完全に圏外だし、もう自分がどこにいるのか......」
不安げに呟くカナに、ユウは振り返らずに答えた。
「大丈夫だって。この匂い、絶対美味しいやつだもん。ケフタサンドだよ、きっと!」
スパイスの効いたひき肉を炭火で焼く、あの抗いがたい香り。その匂いに混じって、別の強烈な何かが鼻をつき始めた。それは、古びた革と、薬品と、そしてもっと動物的な、生の匂いだった。ユウは思わず足を止める。
その時だった。どこからともなく、朗々とした声が響き渡った。アザーンだ。イスラム教の礼拝への呼びかけが、迷宮の隅々にまで染み渡っていく。周囲の喧騒がふっと静まり、人々は足を止め、あるいは店先で祈りの準備を始める。街全体が、厳かで神聖なリズムに包まれた。それは、この街が千二百年以上にわたって繰り返してきた、変わることのない祈りの時間だった。カナもユウも、ただ黙ってその声に耳を澄ませていた。
* * *
アザーンが止むと、街は再びゆっくりと動き出した。ユウは再び歩き出す。今度の匂いは、先ほどのケフタサンドとは違う。もっと強烈で、原始的な匂いだ。誘われるように狭い階段を上っていくと、視界が不意に開けた。
息をのむ光景だった。
眼下に、巨大な蜂の巣のような、円形の染料桶がびっしりと並んでいた。赤、黄、茶、藍。色彩の洪水が、灼熱の太陽を照り返して目に痛い。桶の中では、男たちが腰まで浸かり、黙々と皮をなめしている。めまいがするほどの皮と染料の匂いが、熱気と共に立ち上ってきた。タンネリだ。中世から続く、力強い営みの現場がそこにあった。
「すごい......」
カナが呆然と呟く。彼女の知識では知っていた。フェズのタンネリが、今も伝統的な手法を守り続けていることも、その匂いが強烈であることも。しかし、書物の中の知識は、目の前の圧倒的な現実の前ではあまりに無力だった。太陽に焼かれた石壁の熱、職人たちの額を流れる汗、染料の桶から立ち上る湯気、そして生命そのものを感じさせる強烈な匂い。五感の全てを揺さぶるこの光景は、どんな文献も伝えきれない、生の迫力に満ちていた。
自分の立てた完璧な計画が崩れ去り、友人の「お腹が空いた」という原始的な感覚に導かれて辿り着いた、この場所。カナは、自分の価値観が根底から揺さぶられるのを感じていた。知識という鎧が、一枚、また一枚と音を立てて剥がれていくような感覚。隣に立つユウの横顔は、ただ真っ直ぐに、その力強い営みを見つめていた。その瞳は、知的好奇心とは違う、もっと根源的な共感と敬意に満ちているように見えた。
◆生きた知識の味◆
タンネリの強烈な光景が焼き付いた網膜をリセットするように、二人は再び薄暗い路地へと足を踏み入れた。ユウはもう迷いなく、ある一点から漂ってくる香ばしい匂いをたどっていく。それは、ただのスパイスの香りではない。何時間もかけて煮込まれた肉と野菜の旨味が、土鍋の中で一体となって凝縮されたような、深く、そして優しい香りだった。
やがて、ユウは本当に小さな店の前で足を止めた。看板もなく、間口も狭い。注意していなければ通り過ぎてしまうような、迷宮に埋もれた一軒家だ。しかし、そこから漂う香りだけが、雄弁にその存在を主張していた。
「ここだ......絶対ここ!」
ユウが確信を持って言う。カナは半信半疑のまま、彼女の後に続いた。店の中は薄暗く、テーブルが二つあるだけだった。奥の厨房で、深い皺の刻まれた老婆が一人、黙々とタジン鍋の火加減を見ている。その横顔は、まるでフェズの歴史そのもののように静かで、穏やかだった。
* * *
言葉はほとんど交わさなかった。老婆は二人を見ると静かに頷き、やがて湯気の立つタジン鍋をテーブルに運んできた。特徴的な円錐形の蓋が取られると、凝縮されたスパイスとハーブの香りが、ぶわりとあたりに立ち込める。羊肉はほろりと骨から崩れ、プルーンやアプリコットは原型を留めながらも、肉の旨味を吸い込んで飴色に輝いていた。
一口食べた瞬間、二人は顔を見合わせた。言葉はなかったが、その表情がすべてを物語っていた。美味しい。ただ、美味しい。スパイスは複雑に絡み合いながらも見事に調和し、素材の味を極限まで引き立てている。旅先で食べたどんなご馳走とも違う、毎日でも食べたいと思うような、深くて優しい味わいだった。
夢中で食べ進めるうち、カナはふと、目の前の料理を生み出した道具に目を向けた。この、特徴的な円錐形の蓋に。
「あの......」
カナがおずおずと声をかけると、老婆は静かに顔を上げた。
「このお鍋の蓋は、どうしてこんな形をしているんですか? 何か、特別な意味が?」
すると老婆は、初めて微笑みを見せた。皺深い目尻が、さらに柔らかく細められる。
「それは、この土地の知恵だよ」
老婆はゆっくりと語り始めた。彼女は、二人が泊まっているリヤドの女主人の、古い友人だという。
「砂漠の暮らしでは、水は命よりも貴重なものさ。だから、一滴たりとも無駄にはできない。料理をする時に食材から出る水分は、湯気になってこの蓋のてっぺんまで上っていく。そして、冷やされて水滴になると、また壁を伝って鍋の底に戻ってくるんだ。こうして水を循環させれば、少ない水でも食材の旨味だけで、こんなふうに柔らかく煮込むことができる」
立ち上る湯気とスパイスの香り。老婆の皺深い笑顔。語り継がれる生活の叡智。凝縮された一滴。
カナは、頭を殴られたような衝撃を受けていた。知識としては知っていたかもしれない。タジン鍋の構造と原理。だが、それは書物の中の乾いた事実でしかなかった。今、目の前にあるのは、老婆の語りと、目の前の料理の深い味わいと、この土地の厳しい自然環境とが分かちがたく結びついた、「生きた知識」だった。
その時、リヤドの女主人の言葉が、脳内で鮮やかに蘇った。
『この街では、地図よりお腹の声を信じた方がいいですよ』
あれは、非科学的な迷信などではなかった。この迷宮で生きる人々が、何世代にもわたって経験から紡ぎ出した真実だったのだ。ユウの嗅覚は、ただ美味しいものを求めていただけではない。それは、この土地の知恵が凝縮された、本物の味へと二人を導く、最も正確なコンパスだったのだ。
「ユウ......ごめんなさい。そして、ありがとう」
カナは、素直に頭を下げた。ユウは少し照れたように笑って、最後の一切れのパンで、鍋に残ったソースを綺麗にすくい取った。
「ううん。私こそ、お腹が空いていただけだよ」
その笑顔は、アンコール・ワットで見つけた名もなきアプサラスの微笑みのように、穏やかで、全てを包み込むようだった。
* * *
件名:ご報告:遭難、あるいは発見
白石教授
ご報告いたします。
本日、フェズの旧市街で遭難しかけました。
私を救ってくれたのは、最新の地図アプリでも、歴史的知識でもなく、友人の「お腹が空いた」という言葉と、タジン鍋の香りでした。
書物の中にはない、生活に根差した知恵の尊さを、今、噛しめています。
円錐形の鍋蓋に隠されていたのは、一滴の水をも慈しむ人々の祈りにも似た叡智であり、その一滴に凝縮された味は、どんな歴史書よりも雄弁に、この土地の厳しさと豊かさを私に語りかけてくれました。
知識の地図を広げることばかりに夢中だった私は、どうやら、最も大切なコンパスを見失っていたようです。
水瀬 香奈美
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