3章 3話 お嬢様のお友達
夏休みの補習教室は冷房が効きすぎて、半袖の制服では少し寒いくらいだった。それなのに、隣の席の友人が使う扇子からは柑橘系の香りが漂ってきて、冷たい空気の中に夏の匂いを運んでくる。
机の上に置かれたペンケースは、まるで宝石箱のような装飾が施されている。金具を外すと、銀色に輝くシャープペンと万年筆が現れた。美香が使っているのは文房具店で買った淡いピンクのシャーペン——中学時代からの愛用品だ。校則では華美な文具は禁止されているが、早乙女女子校では守る人は少ない。
「美香ちゃんのノートって、相変わらずきれいだよね」
右斜め前から声がかかった。振り向くと、町田凛が笑っていた。ショートヘアには茶色がかった色合いがあり、制服のスカーフもいつもよりラフに結んでいる。
「そう? 普通だと思うけど」
「色ペンの使い方とか、まとめ方が上品というか……褒めてるんだよ?」
「ありがとう」
先生が黒板で問題を解説する中、凛はシャープペンをくるくる回していた。いつものように笑顔を浮かべているが、視線がどこか遠くを見つめている。何か考え事をしているのだろう。
補習が終わり、廊下に出た時だった。
「ねぇ美香ちゃん、この後時間ある?」
「特に予定はないけど」
「じゃあ、ちょっとだけ付き合ってくれない?」
そう言って、凛は美香の手を軽く引いた。普段お茶らけている凛にしては珍しく、緊張しているように見える。
美香の能力——相手の感情を読み取る力——が、友人の不安を察知していた。
案内されたのは中庭のバラ園。夏でも丁寧に手入れされ、赤やピンクの花が咲き誇っている。凛はベンチに腰を下ろすと、小さく息を吐いた。
「……ちょっと、相談したいことがあるの」
「どんなこと? 何でも聞くよ。なんたって私はヒーローを目指してるんだから」
美香は凛より控えめな胸を張って答えた。普段学校ではこういった発言は控えているが、中高一貫の早乙女女子学園で中学からの友人である凛の前では素直に話せる。その言葉を聞いて、凛は少しだけいつもの元気を取り戻したようだった。
凛はしばらく指先でスカートの裾をいじっていた。視線が定まらず、言葉を選んでいるのが分かる。
「あのね、美香ちゃん」
「うちの犬が、いなくなったの」
「犬?」
「ミニチュアシュナウザーで、名前はモモ。先週の土曜日から帰ってこないの」
美香は思わず息を呑んだ。早乙女女子校の生徒たちは、休日もピアノや乗馬、留学準備と忙しくしている。そんな日常に突然混ざった「失踪」の話は、場違いに思えるほど現実味があった。
「警察や保健所には連絡したの?」
「した。でも全然……。それにね、ここからが変なの」
凛の声が少し震える
「家の雰囲気が、すごく変わったの。ママはずっと電話してるし、パパはやけに不機嫌で、私がモモのことを聞こうとすると『気にするな』って……何か隠してるみたい」
美香は黙って頷いた。女子校の廊下では今も笑い声が響いているが、そこに混じる視線は油断すれば背中を刺すような鋭さを帯びている。華やかな制服の中で、誰もが誰かを意識し、比較し、張り合っている。
「こんなこと、学校の子には言えなくて。変に噂になったら……でも美香ちゃんなら、外の人も知ってるし……その、ヒーロー活動してるでしょ?」
苦く笑う凛の声に、わずかな期待が混じっているのが分かった。
「困ってる人を助けてるって聞いたから……お願い、美香ちゃん」
「……話してくれて、ありがとう」
美香は凛の目をまっすぐ見つめた。
「その犬、私も探すよ」
凛の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
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放課後のタクシーは校門を出た瞬間から高級住宅街へと滑り込んだ。助手席の凛は窓の外を見つめながら、ぽつぽつと話し出す。
「……モモがいなくなったのは三日前の夕方。庭で遊ばせてたら、気づいたら門が開いてて」
「門の鍵は?」
「普段は自動ロックなんだけど、その日は開いてたの。誰かが触ったとしか思えない」
美香は軽く頷き、座席越しに凛の横顔を盗み見た。表情は落ち着いているように見えるが、指先が膝の上でそわそわ動いている。
やがて車が停まった。立派な石塀に囲まれた邸宅、手入れの行き届いた庭木。けれど美香の視線は、すぐに一点へと吸い寄せられた。
「……花壇、荒れてる」
玄関脇の花壇の一部で土がこんもりと盛り上がり、足跡のような凹みもある。
「庭師さん、最近何か作業した?」
「してないはず。あそこ、母が一番大事にしてる花壇だし」
門をくぐると、庭の端で作業していた中年の庭師がこちらに気づいた。だが目が合った瞬間、彼は視線を逸らして道具を持ち、奥へと引っ込んだ。
(妙ね)
玄関のドアを開けると、屋内の空気がひんやりと重く感じる。応接間から現れた凛の母は笑顔を浮かべながらも、どこか落ち着きがない。
「お友達が来てくれたのね。……でも凛、あまり長居はさせないで」
凛が応接間へ案内しようとしたが、美香は「少し庭を見せてほしい」と頼んだ。現場を見ずに話を進める気にはなれなかった。
「……庭の鍵、普段は誰が管理してます?」
「父と母、それから庭師さんかな」
「あの日は?」
「母が買い物に出てて、父は出張中。庭師さんは夕方には帰ったって」
会話をしながら、二人は庭の奥へ回る。日陰の芝生には、明らかに人の足跡と犬の小さな足跡が交じっている場所があった。それも門とは逆方向——塀の影の方へ。
「ここ、塀が低くなってますね」
「そういえば、あの角は昔から簡単に越えられるって父が言ってた」
塀のそばに置かれた木箱は、踏み台にするにはちょうどいい高さだ。美香は視線を横に流し、掃き掃除をしている若いメイドに声をかけた。
「すみません、モモを最後に見たのはいつですか?」
「えっと……三日前の午後です。門の方じゃなくて、裏庭の方に走っていくのを見ました」
凛が振り返る。
「裏庭?」
「はい。でもそのあとすぐ……黒いワゴン車が道に停まって……」
メイドはそこまで言って、はっと口をつぐんだ。明らかに「言ってはいけないこと」に触れそうになった顔だ。
(やっぱり——何かある
美香は凛に気づかれないよう、小さく息を吐いた。この家の人間か、あるいは家と繋がりのある誰かが、モモの失踪に関わっている可能性が高い。
凛の家を出た美香は、門の外で小さく息を吐いた。表向きは「補習帰りに友達の家に寄った」だけの午後だが、裏庭と黒いワゴン車の情報は明らかに偶然では片付けられない。
(あのメイドさん……途中で言葉を飲んだ。誰かに口止めされてる?)
まずは目撃情報の補強だ。美香は通りを挟んだ向かいの花屋に入り、店先で水やりをしていた年配の女性に声をかける。
「すみません、このあたりで黒いワゴン車を見ませんでしたか?」
「黒いワゴン? ああ、先週から時々停まってるのを見たよ。裏通りの方だね」
「どんな人が乗ってました?」
「中年の男二人組。あまり愛想がなくて、こっちを見ようともしないの」
美香は軽く会釈して、次は角のコンビニへ。入ってすぐ防犯カメラを確認し、バイトらしき男子に声をかけた。
「ねえ、ここのカメラって外も映る?」
「うん、駐車場側は映ってるけど……何かあった?」
「実は友達の犬がいなくなって、怪しい車を探してるの」
少年は少し考えた後、小声で教えてくれた。
「昨日の夕方かな……黒いワゴンがここで停まってた。運転席の人が降りて何か探してるみたいだったけど、すぐに裏道に走ってった」
(裏道……やっぱり裏庭と繋がってる)
さらに美香はコンビニを出てすぐのコインパーキングへ足を運ぶ。駐車管理のおじさんが椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた。
「すみません、この駐車場に黒いワゴンって停まりましたか?」
「ああ、昨日と一昨日も来てたよ。こっちじゃなくて、もっと南の倉庫街に向かってたな」
(倉庫街……車の行き先はもうほぼ確定)
胸の奥が少し熱くなる。このまま放っておけば、モモは本当に帰ってこないかもしれない。美香はスマホで地図を開き、倉庫街までの最短ルートを確認すると歩き出した。
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夕暮れのオレンジ色が鉄骨とトタン張りの倉庫群を鈍く染めていた。美香はタクシーを降り、辺りをぐるりと見渡す。人影はほとんどなく、かすかに潮と錆の匂いが漂ってくる。
(この空気……誰もいないはずなのに、どこか見られてる気がする)
舗装のひび割れた路地をゆっくり歩きながら、視線を建物の隅々へ走らせる。倉庫の壁に取り付けられた監視カメラが一瞬光を反射し、美香は足を止めた。
「……あそこだけ最新型だ」
他の倉庫は古びた防犯灯があるだけなのに、その倉庫だけは新しいカメラが複数、死角なく設置されている。しかも入り口のシャッター付近の地面には、タイヤの跡が何度も重なっていた。
さらに耳を澄ますと——
「……ワンッ……」
かすかだが、犬の鳴き声。しかも籠もったような響き方で、間違いなく建物の中からだ。
(ここだ……凛の犬がいる可能性が高い)
美香は物陰に身を寄せ、倉庫周辺を観察する。巡回らしき足音が遠くで響き、やがて近づいてくる。背の高い男が一人、倉庫の裏口へ回っていき、姿を消した。
「……一人なら、隙を突ける」
美香はポケットから小型のライトとスマホを取り出し、音を立てないよう歩を進める。倉庫の壁際に身を寄せ、裏口の鍵の構造を一瞥。彼女の指先に、わずかな緊張が走る。
シャッターの向こうから、また鳴き声。今度は短く、助けを求めるように。
(……行くしかない)
美香は深く息を吸い、耳を澄ましながら一歩踏み出した。
裏口のドアノブをそっと試すと、鍵はかかっていない。ほんの少しだけ開け、隙間から中を覗く。薄暗い室内に並ぶ木箱と鉄製の棚——そして奥の檻の中で、小さく丸まる犬の姿があった。
首輪は間違いない、凛の愛犬だ。
(やっぱり……)
美香は音を立てないよう扉を閉め、忍び足で檻へ向かう。その途中、部屋の隅の机に地図と帳簿らしき書類が無造作に置かれているのが目に入った。ざっと目を走らせると、複数の犬種と価格、そして日付が並んでいる。
(やっぱり違法売買……)
「クゥン……」
犬が美香に気づき、小さく鳴いた。
「静かにね……助けるから」
ポケットからヘアピンを取り出し、器用に錠を開ける。カチリと音を立てて鍵が外れ、
檻の扉が開いた瞬間——
「おい、何してやがる!」
低い怒鳴り声が背後から響き、心臓が跳ね上がる。振り向くと、さっき巡回していた男が立っていた。美香は犬を抱きかかえ、一歩後ずさる。
「その犬は——友達の家から盗まれたのよ!」
「ガキが何言ってんだ、離せ!」
男が手を伸ばしてきた瞬間、美香は犬を片腕で抱えたまま、足元の木箱を蹴飛ばす。ガタン!と派手な音を立てて箱が崩れ、男の足元を塞ぐ。
その隙に美香は裏口へ駆け出す。
「待てッ!」
男の怒声が背後に響く。外へ飛び出した美香は、そのまま倉庫街の細い路地へ身を滑り込ませる。男の足音が迫るが、曲がり角で待っていた自転車に飛び乗り、全力でペダルを踏んだ。
振り返ると、男は路地の出口まで追ってきたが、それ以上は来ない。距離が開いた瞬間、美香はスマホを取り出し、警察に通報した。
数十分後、現場にはパトカーが到着。倉庫の中からは他にも複数の犬が保護され、男は現行犯逮捕された。
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後日。
「本当に……ありがとう、美香」
凛が泣き笑いしながら犬を抱きしめる。犬も尻尾を激しく振り、美香の手に顔をすり寄せた。
「私、ただ……友達のために動いただけだよ」
そう言って笑う美香の目は、少しだけ誇らしげだった。
夕方の校庭では補習を終えた生徒たちの声が遠くに響いていた。美香と凛は校門のそばで立ち止まり、名残惜しそうに犬の頭を撫でている。
「……正直、私、自分じゃ何もできなかった」
凛の声は小さく、でもどこかホッとした響きを帯びていた。
「それでも、最初に相談してくれたのが私でよかったよ」
美香はそう言って、凛をまっすぐ見つめた。凛は照れたように笑い、ふっと真顔に戻る。
「ねえ、美香って……いつも人を助ける時、怖くないの?」
「怖いよ。でもね——誰かが動かなきゃ、って思うんだ」
その一言に、凛はしばらく黙って美香を見つめ、やがて小さく頷いた。犬が二人の間に割り込み、鼻先を擦り付ける。
「ありがとう、美香。……これからも、友達でいてね」
「もちろん」
美香は笑顔で答えた。その笑みには今回の出来事で得た小さな自信と、仲間を守る覚悟が滲んでいた。夕日が二人と一匹を包み込み、長い影が校門の外へと伸びていった。
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