男の名は保
@baker1976
第1話 死線のプールとロキ神の影
東京郊外にある大型レジャーランド。真夏の太陽に照らされたプールには、家族連れや学生たちの歓声が響いていた。
團保(だん たもつ)、四十九歳。子供三人の父であり、妻は今日はパートに出ているため、彼ひとりで子供たちの世話を任されていた。
長男・亮(高校二年)、次男・悠人(中学三年)、末娘・紗奈(中学一年)。三人の子供たちはプールに入るや否や元気いっぱいにはしゃぎ、保はプールサイドから彼らの姿を見守っていた。
だが――。
「父さん! 一回くらいウォータースライダーやろうよ!」
「そうだよ、やってみなって!」
「お父さん、滑ってるとこ見たい!」
子供たちの強い声に押され、保は苦笑しつつも渋々列に並んだ。心臓は早鐘を打っている。
(もう若くないんだぞ……でも、ここで逃げたら父親の面目丸つぶれだ)
そして、スタートの合図。勢いよく滑り出した保は、激しいカーブと水流に翻弄され、体勢を崩した。息ができない。必死にもがくが、出口で水面に叩きつけられ、肺に水が流れ込む。
(あ……駄目だ……)
視界が暗転する。
その時――保の魂は、体から抜け出すような感覚を味わった。下にあるはずの肉体を俯瞰し、子供たちの叫びが遠く聞こえる。
『――好機だ』
不意に、闇の奥から低く響く声が聞こえた。
『この器、悪くはない。父としての責任感、魂の執着も強い。ならば余が使うにふさわしい』
闇から現れたのは、銀髪の男。北欧神話の神、ロキ。
『我が名はロキ。混沌と変化を司る神。現世に降り立つためには、器が必要……貴様の肉体を借りる』
冷たい手が魂を掴み、引き剥がそうとする。保の意識は恐怖に凍りついた。
(いやだ……まだ死にたくない! 三人の子供を残して逝けるか……! 俺は……俺は生きるんだ!)
その瞬間、保の魂は炎のように燃え上がった。強烈な「生きたい」という意志が、ロキの支配を拒絶する。
『なに……!? ここまで抗うか、人間風情が!』
保の魂は、強引に肉体へと戻っていった。ロキの降臨は阻まれた――しかし。
『ふ、面白い……器の主に弾かれるとはな。だが、半ば成功したのも事実。余の権能は、貴様に刻まれた』
ロキの姿は崩れ、黒い靄となって保の頭の中へと消えていった。
――――
気が付くと、保はプールサイドで係員に抱えられていた。咳き込みながら必死に呼吸を繰り返す。子供たちが心配そうに覗き込む。
「お父さん、大丈夫!?」
「……ああ……ちょっと水を飲んだだけだ」
だがその夜、自宅で横になっていた保の視界に、不思議な文字が浮かんだ。
《対象:團保(だん たもつ) 年齢:49歳 体力:低下 腰痛:慢性》
「な、なんだ……これは」
恐る恐る「腰痛」の項目に意識を向けると、画面のように点滅し、問いが現れる。
《改変しますか? Yes/No》
混乱しつつも「Yes」を選んで「健康」と書き換えた。
次の瞬間――。
『ほう、早速使ったか。我が権能の欠片を……』
頭の中で声が響く。振り返っても誰もいない。
「誰だ……!?」
『余だよ、ロキだ。もっとも今は“残滓”に過ぎんがな。器を奪うことは失敗した。だが余の力は貴様に宿った。せいぜい利用するといい』
声は皮肉げに笑った。
『名を与えてやろう。これからは“トリク”とでも呼べ。貴様の補佐役になってやる』
保は震えた。だが同時に、確かに腰の痛みは消えていた。
(本当に……力を手に入れたんだ)
こうして、父親である團保の密やかな“神のスキル検証”が始まった。
そしてその背後には、常にロキの残滓――トリクの声が響いていた。
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