第11話 前夜──日常の影
朝は、昨日より少しだけ静かだった。
寮の廊下に並ぶスニーカーの踵は壁からちょうど四センチ出ていて、掲示板のピンは四隅が直角、紙の端は一枚もめくれていない。来栖が降りたあとも、誰かがその仕事を引き継いでいるのが分かる整い方だった。風は涼しく、港の塩分は薄め。けれど鼻の奥に、甘い何かの“記憶”だけが細く残っている。
(閾値以下です)ムス。
(でも匂いは“数”になってきた)カミ。
(ゼロでも準備。プリンも準備)アメ。
(最後のは違う)カミが息で笑った。
端末に夜明け一斉の通知。候補等級の本運用が始まり、各自の袖章データが更新された。
白=救護、青=偵察/情報、茶=兵站、灰=総務(風紀を含む)。学生の赤=対処は原則なし。線の本数は熟度で、二本が上級候補、一本が初級。白三本は教職相当の臨時指揮で、まだ学内に一人もいない。
「あ、白二本だ!」
ドアの隙間から澪が飛び込み、詩音が控えめに続く。
「私は白一本……搬送は自信ついたけど、筆記が弱い」
「数だ。四拍、四拍、四拍」
僕が指で空気に四角を描くと、詩音はうなずいて拳を軽く握った。
制服の袖に金糸で描かれた色線が、照明で薄く光る。色は役割、線は熟度。派手ではないのに、見る人にだけは十分強い。
——
一限は久遠院の魔導理論。
黒板に大きな三つの円。出力・制御・意図のベン図。
「反復する。『怖くない』は出力の言葉、『大丈夫』は意図の言葉。人を動かすのは制御の言葉——『こうして』『こうすれば』だ。昨日から諸君は準官として公式に動く。だから“短く、具体的に”。」
チョークが交点を二度叩く。
御影が手を挙げ、尻尾を机で輪にして固定した。
「先生、等級の横断運用の線引きって、どこですか?」
「主色優先・副色補助。白が搬送を補助するのは可、青が救護の主は不可。非常時は『最短の常識』を選べ。ルールは網、穴は埋めるためにある。」
天城がノートを閉じて言う。「穴を広げすぎると魚が逃げる」
「網で人が溺れるよりはましだ」久遠院は笑わずに笑い、黒板の角をさりげなく直した。
(角を直すのが大人の魔法)ムス。
(角が揃うと呼吸が揃う)カミ。
(プリンの角は最初から揃ってる)アメ。
(それは容器)カミ。
——
二限・三限は協同演習。
今日のテーマは「救護→搬送→遮蔽」の三位一体と、「忘れる儀式」の導入。場所は第二屋外訓練場。砂地は昨夜の霧でしっとりしている。
「救護班、脈」
「八四、やや速い。四拍に合わせます」澪が手首をとり、声を短く置く。呼吸が四拍で揃い、訓練用の“患者”役の一年生の肩が下がる。
「搬送、担架角度三度下げ。踵じゃなく母趾球」詩音が手振りで示し、担架の重心が自然に移る。
僕はすこし離れて“風の道”を薄く敷く。弾のためではない、人のための道。足裏幅に空気の密度を乗せ、力の逃げ道を作る。
「……軽くなった?」担架の前を持つ一年が驚く。
「更屋敷くんが敷いたのよ、風の滑走路」御影が小さく言い、天城が目線で「黙」と告げる。
派手にやらない。けれど効く。今日の訓練はそういう設計だ。
「次、『忘れる儀式』をやる」久遠院が告げ、保全隊が仮設の香料皿を出す。昨夜、温室で検出された甘香(閾値未満)と同系の合成香。
「焼く・風・数。甘香は嗅ぐ前に焼く、焼け残りは風で剥がす、最後に四拍×三で『忘れる』。名前をつけて手順に落とせ。怖さや匂いは名前があると軽くなる。」
澪と詩音、御影、天城が順番にやってみる。
「焼く」指先に細火。「風」僕が薄い層流を沿わせる。「数」天城が四拍を刻み、御影が声に出してなぞる。
匂いが“思い出”の層に落ちていくのが分かった。完全ではないが、手順化は武器だ。
(忘れるのは捨てるじゃない)ムス。
(引き出しに入れて、ラベルを貼る)カミ。
(ラベルにプリンって書いとく?)アメ。
(違う引き出し)カミが乾いた笑いを落とす。
演習の締めで久遠院。
「良い。倒れなかったことを誇れ。派手に倒れないのは才能だ。今日は“普通の上達”がいちばんの成果。」
——
昼の食堂は静かな戦場。
列は長いが押し合わない。トレイがぶつからない角度で流れ、厨房は規律の塊みたいに動く。
「八名クロワッサンサンド二つ、クラムチャウダー一つ、プリン三つ」
「更屋敷、今日もプリン?」とカウンターのお姉さんが笑う。
「今日は“忘れる儀式”のご褒美」
「なるほどね。角、揃えて食べるんだよ」
澪と詩音に一つずつ渡し、残りの一つを掲示板の前にいる来栖へ。
「配給」
「私はもう風紀ではない」
「“置札役”は風紀の外でもできる」
「……許容」
来栖はプリンを受け、蓋の角を一度だけ撫でてから外した。「報告、忘れるな。『人道』——名称・目的・副作用」
「副作用:見学者が調子に乗る」
「それは報告語ではない」
唇の端が、ほんの一秒曲がる。「でも、分かる」
食堂の出口で、掲示の角を直す来栖の手つきは、もう“罰する人”ではなく“置く人”のそれになっていた。
——
午後の“学域講義”。
百目鬼 縁(どどめき えにし)が臨時教壇に立つ。作戦局副局長。黒のスーツに目立たない銀のピン。
「スライドは使わない。諸君の端末へ地図を送る。目で聴け」
配信された地図に赤い点と円が現れる。
「シベリア防衛ライン――氷上移動型の群体が増えた。位相が半拍早い。だから“遅撃ち”の訓練を現地は始めた。早撃ちの癖は、敵の更新に追い越される。遅撃ちは、更新の間を掴む技術だ。」
「欧州共同防衛圏――偽装タグが流行。甘香を撒く“誘導標識”を、民間避難路に被せる。嗅いだら焼く。焼いたら風。風のあとには忘れる儀式。ここまでがセット。『焼くだけ』は、残り香に負ける」
百目鬼は視線だけで講堂を縫う。
「八名の沖——二十海里、六十海里、百十海里。“逆さの星”が出た記録。今朝はゼロ。ゼロは不在じゃない。準備だ。理事長の言葉だ、覚えとけ。」
天城が手を挙げる。「周期は?」
「昨夜は八分二十秒×二。周期短縮の兆候。だが“ここに誘う”兆候はまだない。まだだ。」
御影が小声で呟く。「遅撃ち、練習しなきゃ」
澪は端末に『四拍×二→撃』と書き、詩音は『息の角』とだけメモした。
(角は息にもある)ムス。
(四拍で角が揃う)カミ。
(四拍ごとにプリン)アメ。
(それは習慣に悪い)カミ。
——
放課後。
青の偵察班と茶の兵站班の合同演習。校庭の隅に仮設補給線、ドローンの射線管理、通信手順の復唱。
鷹羽副会長がリストを持って巡回し、朝霧会長は“盛らない広報”用のメモを作っている。
「タイトル案、『普通で強い』。副題は無しでいこう」
「了解」広報班が頷き、余計な感嘆符を外す。
僕はあえて“端”に立つ。
目立たない位置で、詰まりそうな線にだけ薄い風を敷き、遅れそうな合図にだけ短い数を置く。
目立たない、けれど効く。
「更屋敷くん、そこ“押してる”わけじゃないよね?」御影が囁く。
「押してない。地面の角をちょっと丸くしてるだけだ」
「言い方が詩的だ」天城がため息をつく。「でも効いてる」
(詩的は火力)アメ。
(詩は“置く”のに向いている)ムス。
(派手に置くのは詩じゃない)カミ。
——
そのころ、幹部棟では短い会議が始まっていた。
御子柴作戦局長、アーロン情報局長、エレナ国際協力局長、篠ノ宮防衛局長、青葉清澄教育局長、百目鬼副局長。画面越しにシベリア支部、欧州共同防衛圏、マダガスカル前進拠点がつながる。
「シベリア支部より。半拍位相ズレ、原因は氷床下の空洞共鳴。対処は遅撃ち+音殺し。現地の臨機訓練は進行中。」
「欧州より。偽装タグが避難路に混入。香料の成分、昨日とわずかに違う。記憶に引っかかるノートが増えた。忘れる儀式に『歌』の導入を検討。」
「マダガスカル前進拠点、逆さの星はゼロ。沿岸の“黒い潮”が一度だけ舌を出す。舌は短い。だが二度目は長くなる傾向。」
「八名の現状は」御子柴。
篠ノ宮が眼鏡を押し上げる。「温室棟・南側ガラスに甘香付着、閾値未満。校内保全が焼却・風剥離・四拍で処理済み。港監視は夜間に監視間隔を短縮。障壁位相はα+のまま、局地強化を増し目で。」
アーロンが眉をひとつ上げる。「“ゼロは準備”の掲示は広報済みか?」
朝霧会長から回線に入る。「学内掲示は『具体・短文・直角』で統一。煽らず、盛らず。」
エレナがうなずく。「外向け広報も『普通で強い』に統一。ヒーロー物語は控える。国家の手順に溶かす。」
百目鬼が短く言う。「学生への“部分解放”指針は重ねて通達。長官の全解放条件は現行維持——障壁二段階破綻+動線逆流。これは変えない。」
御子柴は頷き、「良い。角は立てるべきところにだけ立てる」。
会議は二十七分で終わる。何も長引かない。長引かせない。
終わった後に残るのは、テーブルの角がまっすぐであるという単純な事実だけ。
——
夕方の校庭。
楽器の音がハ長調からト長調へ、走る靴音が砂を軽く叩く。
僕はひと息ついて、掲示板の前に立つ来栖の背を見つけた。
「……置けてるか」
「置く。忘れるじゃない。置く」
彼女の声には、涙の成分はもうなかった。
「あの子の名前を、ちゃんと置く」
「名前は“手で持てる”ようにするためにある」
来栖が首を小さく動かす。「知ってる。だから短く、具体に」
そこへ朝霧と鷹羽。
「来栖、掲示ありがとう」
「『ありがとう』は規律に含まれないが、効果がある」
鷹羽が笑う。「規律に入れればいい」
「必要ない。言えばいい」
三人の間に、初めて柔らかい空気が座った。
(置けた)ムス。
(器は割れていない)カミ。
(プリンを持ってくる)アメ。
(それは“置く”ではない)カミ。
——
夜。
廊下の灯りは一段落として、窓ガラスに星の代わりのドローンの光点が映る。
澪と詩音は宿題を片づけ、歯を磨いて、ベッドの端に座った。
「白二本、似合ってる?」
「似合ってる。お兄ちゃんに似合うものは、私たちにも似合う」
「ふふ」
小さな笑い声が部屋の角を丸くする。
端末が一度震えた。“保全:港外監視・報告”。
<逆さの星:出現(×2)、間隔8:20→7:50。沖二十海里。
香気:未検知。
障壁:α+維持/局地強化。
学生出動不要/警戒態勢変更なし>
(周期が縮んだ)ムス。
(まだ“名”ではない)カミ。
(でも“数”は近い)アメ。
僕は窓枠に指を置く。昨日の痺れはない。けれど“方法”は残っている。
焼く、風、数。遅撃ち。人道。短文。直角。
手順の束が、胸の奥でひとつの棒になって通る。
祖母から短いメッセージが届く。
《角を直せ。砂の城は毎日崩れる。崩れる前提で、毎日直せ――琴乃》
祖父からも一行。
《学生であれ。いつでも。—東》
「了解」
寮の外、歩哨の靴音が規則正しく遠ざかる。
温室棟の屋根で小さな点検灯が一度だけ点き、消えた。
(潮の味、変わった)アメが囁く。
(薄皮が揺れている)ムス。
(まだ“名”じゃない。でも準備の音は聞こえる)カミ。
「知ってる」
——
その夜のさらに遅く、幹部棟の別の会議室。
百目鬼、篠ノ宮、アーロン、エレナ、清澄。画面の端にシベリア支部の雪が降っている。
「八名の“逆さの星”周期短縮、7:50。翌未明にゼロの可能性、あるいは6:40へ。
ゼロは不在ではない、準備。6:40は“呼び鈴”に近い」百目鬼。
「障壁の呼吸を長官のテンポに合わせているが、合わせすぎれば島が一人に依存する」篠ノ宮。
「依存は広報の敵。『普通で強い』を保つため、物語化を避ける」エレナ。
「校内は“忘れる儀式(焼く+風+数)”を基礎化。青の偵察には『遅撃ち』を」清澄。
「情報——“黒い潮”が一度だけ舌を出した。味見。次は嚙む」アーロンが素っ気なく言う。
百目鬼がまとめる。「結論:今夜はゼロで終わる。終わるが、明日が前夜だ。以上」
短い。短くて十分。
誰も英雄譚を語らない。角とピンと息だけを整えて、夜を終える。
——
寮の窓から海を見た。
水面は黒い鏡のように平らで、遠くの光を反転して持ち上げる。
逆さの星は、いまはゼロ。ゼロは不在ではない。準備。
「来るなら、来い」
誰にも聞こえない声でそう言い、四拍、四拍、四拍をもう一度数える。
胸の棒が通り、余計なものが落ちる。
今日は戦っていない。けれど、たくさん直した。角も、言葉も、息も。
それで良い日が、確かにある。
(おやすみ)ムス。
(おやすみ)カミ。
(明日のプリンは二個まで)アメ。
(根拠)カミ。
(希望)アメ。
(それなら許容)カミ。
灯りを落とす。島がゆっくり呼吸して、夜が深くなる。
遠く、港外の監視塔で誰かが立っていて、その人の息も四拍で揃っている気がした。
僕たちは同じ“数”で繋がっている。角を直す手つきで。
——
朝に近い時刻。
端末が震えないまま、一度だけ“空気”が震えた。
夢ではない。まだ現実でもない。
薄皮の向こうから、砂時計をひっくり返す気配だけが届く。
(前夜、完了)ムス。
(次は、名前を持つ)カミ。
(プリンも名前を持つ)アメ。
(持ってる)カミ。
(もうすぐ)ムス。
目を閉じたまま、僕は微笑んだ。
戦わない夜を勝ち切った人だけが、次の朝に立てる。
それが八名の“普通”で、僕たちの勝ち方だ。
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