第3話 キーホルダーを無くした!
次の日の朝。
空気は昨日よりも少しひんやりしていて、校舎の壁に映る朝日がまぶしかった。
私は、少し慣れてきた廊下を歩く。
昨日よりも足音が軽い気がする。黒板消しの匂い、ワックスの匂い、すれ違う低学年の子の「おはようございます」という声。
そのどれもに最初の日ほど緊張はしなくなっていた。
五年二組の教室の前まで来て、ドアのすりガラスごしに中の影を見た。
数人が席に着いていて、がやがやと小さな声がしている。
私は深呼吸してから、そっとドアを開けた。
カララ、と戸が鳴る。
顔を上げた何人かが「おはよう」と軽く声を返してくれる。私は笑顔で会釈しながら、自分の席のほうへ向かった。
窓際の一番後ろ――。
そこにいる湊くんは、やっぱり窓の外を眺めていた。
私は一歩だけ近づいて、小さな声で言った。
「……おはよう」
すると湊くんは、少し肩を動かしてこちらを見た。
その表情はやっぱり無愛想なんだけど、ほんのわずかに目が和らいでいるようにも思えた。
「……おはよう」
小さな声。でも確かに返ってきた。
――心臓がどきんと跳ねた。
昨日までとは違う。たった一言なのに、何かが変わったような気がした。
私は自分の席にランドセルを置いて、椅子に腰かける。
まだ友達と呼べる関係じゃない。
でも、挨拶をすれば返ってくる。
その小さな繋がりが、昨日よりも今日の教室を少しだけあたたかく見せてくれると思った。
****
その日の授業は、算数に国語に理科と、いつも通りに過ぎていった。
黒板にチョークの音が響き、ノートに文字を書き写す。窓の外からは運動場で遊ぶ声が時々混じってくる。
美空ちゃんは、やっぱり休み時間になるとすぐに教室を出て行ってしまった。どこで何をしているのかは分からないけれど、迷いなく席を立っていく背中はなんだか楽しそうだった。
湊くんとも、それ以上の言葉は交わさなかった。
けれど私は、不思議と孤独じゃなかった。
――もしも声をかければ、きっと返ってくる人がいる。
たったそれだけのこと。
でも、その安心感が、私を支えてくれていたんだ。
****
放課後。
私は昨日と同じ道を通り、第二体育館の隣にある倉庫へ向かった。
ドアを開けると、中では美空ちゃんがホワイトボードに何かを書き込み、湊くんは机に向かってノートを広げていた。
「あ、葵ちゃん」
美空ちゃんが顔を上げる。
「来てくれたんだ」
「……昨日のことが気になって」
「うん、いいよ。見てるだけでも」
私は机の端に座り、二人の様子を見守った。
二人は時折会話を交えながら、ノートに何か書き込んだりしている。
その時、ドアが小さく叩かれた。
「はーい」
美空ちゃんが答えると、ランドセルを背負った小さな女の子が入ってきた。
ランドセルが大きくて、背中をすっぽりと覆っている。
多分、一年生か二年生くらいだろう。
「あの……」
女の子はか細い声で言った。
「友達からもらったキーホルダーを、なくしちゃったの」
両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。大切なものをなくした不安が、その仕草から伝わってきた。
美空ちゃんは女の子に近づき、同じ目線になるようにしゃがむ。
「ようこそ、秘密結社お助けクラブへ。あなたが無くしたキーホルダー、私たちが解決します!」
美空ちゃんはそう言うと、机の上から一枚の紙を取り出した。
その紙の上には「依頼カード」と大きく書かれている。
「名前と、困っていることを書いてね」
女の子は少し緊張しながら、鉛筆を握って文字を書いていった。
『二年一組 小林あゆ キーホルダーをなくした』
湊くんはそれを受け取り、黙ったままノートに書き写していく。
その横顔は真剣で、普段教室で見る姿よりもずっと頼もしく見えた。
「最後に、キーホルダーを見た場所と時間を教えて」
美空ちゃんが優しく問いかけると、あゆちゃんは少し考えてから答えた。
「えっと……お昼休み。校庭のジャングルジムの近くで……」
「なるほどね! じゃあ、そのキーホルダーってどんな特徴があるの?」
美空ちゃんは聞くと、あゆちゃんは目を少し細めた。
「ピンクのクマさん……あゆが茶色いクマさんで、みおちゃんは黄色のクマさんなの!」
「……友達とお揃いなんだね」
ふいに私は思わず心の声が漏れてしまったようで、あゆちゃんは私の声に驚きながらも嬉しそうに大きく頷いた。
「うん! お揃い! 離れていても、繋がってるの!」
“離れていても、繋がってるの!”
私は、なんだか暖かい気持ちになった。
きっと、みおちゃんは私と同じように転校したのかな。
それで、離れていても繋がっている。お揃いのキーホルダーがあれば、どんな時も寂しくない。
このキーホルダーが、二人を繋いでくれているんだ。
湊くんは短く頷き、ノートにさらさらとメモをとった。
「よし、調査開始だな」
その声に、私は自然と背筋が伸びた。
美空ちゃんとあゆちゃんは手を繋ぎ、倉庫から出ようとする。
湊くんもその後に続く。
私も、二人の背中を追った。
****
校庭へ出ると、夕方の光がグラウンドを淡く染めていた。
砂場、ジャングルジム、滑り台。皆で一通り探したけれど、見つからない。
「どこにもない……」
女の子の目が潤む。
「んー、もう少し探してみよっか。見落とした所があるかもしれない」
美空ちゃんはそう言って、滑り台の下をまた探し始める。
私も同じようにキーホルダーを探している。
ピンクのクマ。
地面も砂の中も、雑草の茂みの中も探した。
だけど全く見つからない。
「やっぱりないのかなぁ……」
あゆちゃんの声が震えてきている。
「あゆちゃん、大丈夫だよ! 絶対に見つけるから!」
私は優しくあゆちゃんの小さな頭を撫でる。
今にも涙を流しそうな、そんな表情。
探さないと。お揃いのキーホルダー、友情の印。
そのとき、湊くんがふと立ち止まった。
「……上だ」
見上げると、ジャングルジムのてっぺんに、小さな光が反射していた。
湊くんが登っていき、手を伸ばす。
次の瞬間、彼の手の中に、あのキーホルダーが握られていた。
「これだろ」
「……! ありがとう! うれしい!」
女の子は笑顔になり、両手で大切そうに受け取った。
「わぁ、よかった……」
美空ちゃんも嬉しそうに小さく拍手している。
その笑顔を見た瞬間、私の中で何かが変わった。
自分のことじゃないのに、他人のことなのに、こんなに一生懸命になって――人を助けるって、こんなに素敵なことなんだ。
****
倉庫に戻ると、美空ちゃんが机にノートを広げた。
カバーの角は少しすり切れていて、たくさんの人の手を渡ってきたのが分かる。
「今日の記録、ちゃんと書いておかないと」
「記録……?」
私は思わず首をかしげた。
「そう。お助けクラブは、ずっと前から受け継がれてきたんだよ。だから、活動したことは全部残しておくの」
美空ちゃんは、先ほどの依頼カードをノートのページに貼りつけ、横にきれいな字で『解決』と書き添えた。
そのページには、他にも色とりどりの字や、シールや小さなイラストが並んでいる。
落し物を探したこと、喧嘩の仲直りを手伝ったこと……。
想像していたより、このお助けクラブを利用する人が多く、一定数の知名度があるのだと知った。
どの記録にも、助けを求めた人の気持ちと、それに応えたメンバーの思いが詰まっているように感じた。
ページをめくるたび、胸がじんわり熱くなる。
私も、こんな風に人の力になれたら。
そっとページから顔を上げると、美空ちゃんと湊くんがこちらを見ていた。
二人の視線が真っすぐで、息をのむ。
「……私も、入りたい」
自分の声が、倉庫の中に小さく響いた。
言った瞬間、心臓が大きくドキドキして、全身が熱くなる。
美空ちゃんの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと? うれしい!」
椅子から立ち上がって、両手で私の手をぎゅっと握ってくる。
湊くんはすぐには何も言わなかったけれど、静かにうなずいた。その目は、いつも教室で窓の外を見ているときよりも、少し柔らかかった気がする。
「ようこそ、秘密結社お助けクラブへ!」
美空ちゃんの声がはっきりと響いた。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちて、広がっていく。
――これから、きっと何かが変わっていくんだ。
私は、そう強く思った。
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