迷える大人とリーベの秘薬

叶屋叉那

第1話 ホワイトレディ

春。新しい季節に駅前通りは活気づく。新生活、新学期、新社会人、そんな言葉が至るところから感じられる。浮足立つ者もいるが、浮かばれない顔をした者がここに一人。


—カラン

「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ。」

少し低めのゆっくりとした男性の声。カウンター席しかない小さなバー。棚に並ぶ沢山の酒瓶。賑やかな通りとは正反対の落ち着いた空間がそこにはあった。

「あ、あの、私、バーとか入るの初めてで…」

端の席に腰かけながら山崎花菜ヤマザキカナは細々と声を絞り出した。


「まぁ、初めてのバーに選んでくれて嬉しいわ。はいこれ、お通しね。飲み物はお話をしながらゆっくり決めましょう。」

ボブカットの女性が笑顔で小皿を出しながら声をかける。花菜より小柄だが落ち着いた雰囲気に少しだけ安堵する。

「ありがとうございます。」

花菜は出されたキャロットラペを口に運ぶ。甘酸っぱさが鼻に抜ける。人参特有の匂いが春らしさを伝える。

「おいしいです。」

「よかった。今日は朝市で人参が安かったから作ってみたの。」

嬉しそうに沙奈枝が笑う。花菜より年上に見える彼女だが笑窪と八重歯に幼さを感じて、親しみやすさを覚える。


「沙奈枝さんの料理はどれも美味しいですよ。パスタやキッシュが人気なんです。女性のお客様ならケーキもおすすめです。」

カウンター越しの江戸がメニューを差し出す。色鮮やかな料理の写真が並んでいる。

「どれも美味しそうですね…。でも私、今ダイエット中で…」

「そんなに細くて可愛らしいのに、ダイエットなんて!ちゃんと食べないとこれから季節は大変よ?」

沙奈枝は心配そうに花菜の顔を覗き込む。

「あ、いえ…ダイエットというか、体重管理というか…。その…私、来月結婚式なんです。」


花菜には大学時代から付き合っている彼氏がいる。同級生だった掛本真吾カケモトシンゴは卒業してすぐ地方公務員となり、5年のキャリアを経て半年前に花菜にプロポーズをした。

「この街をもっと活気ある街にする。そんな街の変化を花菜と俺達の子どもにも見ていてほしい、これからも一番近くで。」

未来を見つめる真吾の真っ直ぐな瞳。7年も彼を一番近くで見て、触れて、支えてきた花菜はただ無言で何度も頷くことしかできなかった。


「素敵なプロポーズですね。私もこの街がどんどん賑やかになってくれれば嬉しいです。ましてやお客様の旦那様がそれを支えてくれているのですから。」

細長の目を更に細くして江戸が微笑む。旦那様、という響きに花菜は少し照れ笑いをする。

「結婚式なら尚の事栄養をつけなくちゃ。砂肝のポン酢和えなんかはどうかしら?疲れにもいいわよ。」

沙奈枝がメニューの隅に書いてある『アラカルトおまかせ』という文字を指差して提案する。


「不安?それとも実感が湧かないのかしら。」

驚いた表情で花菜は沙奈枝を見つめた。

「私の思い過ごしならごめんなさい。でも貴女、彼の話の後に少し戸惑っているような気がしたから…」

沙奈枝は申し訳なさそうに笑いながら花菜を優しく見つめ返す。

「不安、というか全てが変わるような気がして…」

結婚、という二文字が自分の人生を大きく変えてしまうのではないか。新しい人生、というものの漠然としない不安を花菜は抱えていた。


「何も変わりませんよ。」

江戸が優しく話し始める。

「結婚はゴールでもスタートでもないんです。ただ法律上、お客様と旦那様の関係が夫婦というものになり、同じ姓を名乗るようになるだけです。それ以外は何も変わりません。」


―コトン

花菜の目の前には白いカクテルの入ったグラスが置かれる。

「ホワイトレディ、というカクテルです。純白のウエディングドレスを着用されたヴィクトリア女王へ捧げられたカクテルと言われています。レモンの酸味が苦手でなければ、いかがですか?」

純白、混じり気のない白。ウエディングドレスには、貴方の色に染まります、という意味も込められているのだとか。


「かつて純白の生地はその白さを保つことが困難で、富の象徴だったそうです。けれど時代は変わるのです。お客様のブラウスのように白を何年も保つことだって可能なのですよ。」

花菜はふと自分の服装に目をやる。

このブラウスは新卒のときに買ったものだったか。服をあまり買い替えないのでたぶんそうだろう。と思い、カクテルグラスを見つめ直す。


「この街は毎日少しづつ変わっています。来月には通りのお肉屋さんの向かいにお花屋さんが入るそうですよ。今日は看板が取り付けられていました。新店でも毎日少しずつ準備しているのでいきなり景色が変わるわけではありません。同じ景色のはずなのにすれ違う人だって毎日少しずつ歳をとる。何も変わっていませんが、確かに変わっているのです。変わることが普通なのです。」


変わることが普通。いきなり変わるわけではない。江戸の落ち着いた言葉が花菜の胸の声と重なる。


「貴女はもう彼と暮らしているのよね?なら新生活だってとっくにスタートしているし、きっと勤め先や友人にも報告をして、式場の準備だって進んでいる。もう少しずつ変わっている。入籍をしたらどちらかの姓が変わる、それだけよ。」

何かを切る手を止めて沙奈枝も続ける。

「私も、真吾も、この街も、もう変わっているんですね。だから結婚してもこのまま変わり続けることは変わらない。」

江戸は目を細めて頷く。

「ありがとうございます。何だかちょっと気分が軽くなりました。カクテルも砂肝も頂きます。」

「レモンジュースを使ったカクテルなら、砂肝は塩和えでもいいかしら?」

楽しそうな沙奈枝に花菜は大きく頷く。


―カラン

「ありがとうございました。」

駅前通りは歓迎会終わりの大学生や社会人で賑わっている。真吾からの連絡はまだない。二次会は断れなかったようだ。

明日の朝はシジミの味噌汁かな。花菜は変わりゆく街並みを眺めながらスーパーへ向かう。



「この前のお客さんには、結婚はスタートだ、って言ってませんでしたっけ?」

沙奈枝は食器を洗いながら、口角を上げて江戸を見る。

「同じものでも人によって捉え方は違うでしょう?違うからお互いを理解して考えが広がっていくんですよ。」

グラスを拭きながら江戸は扉を見つめた。


―カラン

「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ。」

Liebeの夜はまだ始まったばかり。

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