第2話 東京からの脱出
孝輔と恵子を乗せたタクシーは、平井駅前から新宿区若松町に向かった。蔵前橋を渡った辺りから、孝輔は心臓の激しい動悸に襲われた。柄にもなく殺人犯なんかと渡り合ったせいで、心臓の調子がおかしくなったのかと思っていると、今度は頭が割れるような酷い頭痛が襲ってきた。タクシーのちょっとした振動が頭の芯にずしりと響く。孝輔は目を瞑り必死に痛みに耐えていた。
タクシーの運転手が孝輔に声を掛けた。
「お客さん、そろそろ若松町ですけど、場所はどのあたりですか」
「夏目坂通りに入って貰って、ひとつ目の信号を・・・あれ?」
孝輔が前方に目をやると、江渡神組の事務所のあるマンションの前に三台のパトカーが赤色灯を点けて止まっていた。マンションの入口にはふたりの警察官が立番をしている。組事務所で何かあったのだろう。あるいはオレオレ詐欺のかけ子部屋が摘発されたのかも知れない。少なくとも、ヘロインの入ったリュックサックを持ってウロウロできる状況ではなさそうだ。今日は諦めて高円寺の部屋に帰ろう。激しい頭痛の中で孝輔は考えた。
「運転手さん、申し訳ない。止まらずにこのまま真っ直ぐ進んで貰って、JRの高円寺駅に向かって下さい」
「JRの高円寺? はい、了解しました」
タクシーが夏目坂通りを下り切ったところで、身体が震えるほどの悪寒が加わり孝輔は意識が朦朧となった。ガチガチと歯が鳴る。恵子が心配そうに声を掛けるが、何を言っているのか聞き取れない。孝輔はうわ言のように「大丈夫だ」を繰り返した。高円寺の駅前でタクシーを降りたときには、孝輔はひとりで立つこともままならず、恵子に支えられながら何とか部屋にたどり着いた。そのあたりのことを孝輔はぼんやりとしか覚えていない。
JR中央線の高円寺駅から徒歩で十五分ほどの場所にある、古びた三階建てのアパート「幸福荘」の304号室が孝輔の部屋である。八畳とキッチンしかない一Kの間取りで、脱ぎ捨てたままのシャツやズボン、コンビニの袋に入ったごみ、林立するビールの空き缶が孝輔と恵子の周囲をぐるりと取り囲んでいる。
孝輔と恵子は小さなちゃぶ台を挟んで座り、買い置きのカップラーメンを啜っていた。 孝輔はラーメンにほとんど手を付けないまま割りばしをちゃぶ台の上に投げ出すと、そのまま畳んだ万年床にぐったりともたれ掛かり目を瞑った。食欲は全くない。身体の節々が軋みをあげて、頭が割れるような痛み、加えて時折ガチガチと歯が鳴るような悪寒が襲ってくる。タクシーに乗り込んだときに孝輔が握りしめていた裁ちばさみを見てギョッとした運転手の顔と、その後に続いて乗り込んできた恵子が握りしめていた孫の手を見てポカンとした運転手の顔が、孝輔の頭の中でグルグルと渦を巻いている。
恵子はカップラーメンをズルズルと啜ってからモゴモゴと言った。
「ねえ、よっちゃん、具合悪いの? 大丈夫? 熱は・・・あら、酷い熱。その汚い布団を敷いて横になりなさい、お母さんが看病してあげるから」
孝輔が熱にうなされたように呟いた。
「お母さん? いや・・・お母さんじゃないんだ・・・ゴメン、ダメだ、明日、明日話すよ・・・本当にゴメン・・・」
孝輔はそう言うと意識を失った。
恵子は不思議そうな顔をしてちょっと首を傾げると、ちゃぶ台を片付けて万年床に孝輔を寝かせてから、孝輔の枕元に置いてあるリュックサックを手に取り、鼻歌を歌いながら流し台に向かった。
孝輔は夢を見ていた。
トーテムポールのような二本の門柱
木造二階建ての古びた校舎。小学校だ。
校舎の屋根に覆いかぶさるような大きな木。
ここはどこだ・・・北のはずれ・・・竜飛岬・・・なぜ竜飛岬と分かるんだろう。
あれはお母さんだ。手を繋いでいる子供は・・・よっちゃん?
『お母さん、お願いがあるんだ。僕が埋めたタイムカプセルを一緒に掘り起こして欲しいんだ』
『ウフフ、いいわよ。ねえ、よっちゃん、タイムカプセルはどこに埋めたの』
『それは秘密。この小学校のどこかだよ』
『そのタイムカプセルは、いつ掘り起こすの』
『三十年後だよ。ねえ、お母さん、約束だよ』
『分かったわ。よっちゃん、約束ね』
ふたりが指切りをしている姿を、孝輔ははるか空の上から見ていた。
どこかで着信音が鳴っている。
孝輔の枕元でウトウトしていた恵子は着信音で目を覚ますと、辺りを見回した。着信音は万年床の横に積み上げられた汚れた洋服の上に投げ出してある紺色のジャケットから聞こえている。恵子はジャケットを取り上げると内ポケットに手を差し入れ、スマートフォンを取り出した。自宅の固定電話しか使ったことのない恵子は、着信音を発しているスマートフォンをじっと見つめてから、パタパタと振ったりひっくり返したりしたが着信音は鳴りやまない。
「これって、どうするのかしら。ボタンも無いし・・・」
首を傾げた恵子の指が偶然に液晶画面に触れ、着信音が止んだ。静かになったスマートフォンから男の声が響いた。
「誰だ」
恵子は吃驚した顔をして、スマートフォンを手鏡のように顔の前に近づけた。再び男の声が響いた。
「誰だ」
「誰だって・・・貴方こそ誰よ」
「ん? 女か・・・。孝輔は・・・浅井孝輔はそこにいるのか」
「アサイコウスケ? ここにいるのは私とよっちゃんだけ。でもよっちゃんは酷い熱で起き上がれないから電話に出るのは無理ね」
「よっちゃんって誰だ」
「馬鹿ね、よっちゃんはよっちゃんよ。それよりも、貴方こそ誰よ」
「俺は江渡神組の鮫島だ。これは俺のスマートフォンだぞ、俺のジャケットに入っていたはずだ。なぜお前が持っているんだ。お前は誰だ」
「ええ? エドガワクの鮫島さん? 何だご近所さんじゃないの、私は平井三丁目の佐木田です。町内会の役員をやってたの、町内会連合の総会で会ったことあるかしら」
「何? ご同業さんだと。白井会の三代目? ウチの関東弘心会と張り合ってる関東白井会か。関東白井会の三代目の下で顔役のサキタだと? そうかい、お前さんが噂に聞く崎田組の女組長かい。女のくせに相当きついことやるって噂じゃねえか。俺は江渡神組のしがない代貸でね、関東総連合の総会なんぞに顔を出せる身分じゃないんだ」
ふたりの会話は誤解に誤解を重ねて続いていく。
「何言ってるかよく分からないけど、町内会のことで困ったことがあれば言って頂戴、相談に乗るわよ。うちの町内会長はいい人だから話をしといてあげるわ」
「うちのシマのことを関東白井会の会長に相談できる訳がないだろう。ははぁん、お前、うちの組が弱小でオヤジが入院しているのをいいことに、うちの組にちょっかい出そうとしてやがるな」
「ええっ、お父さん入院しているの? おせっかいなんかじゃないわよ、心配しているの。そうだ、一度警察に相談してみなさいよ」
「警察に捜索させるだと? なるほど分かったぜ、昨日のガサ入れはお前んとこが裏で糸を引いていたって訳か。東中野署の山岸が情報を持ってるなんておかしいと思ったんだ。畜生、汚ねえことするじゃねえか」
「何言ってるかよく分からないけど、そろそろよっちゃんに薬をあげなきゃいけない時間だから、電話を切るわね」
「何! クスリだと! お前、どうしてヘロインのことを・・・そうか、孝輔はお前んとこの組の若い衆か、やられた・・・さすが、噂どおりやることがきついぜ。なあ、崎田組の女組長さんよ、頼むからそのヘロイン返してくれないか。そいつは本家筋の極村組の組長からの預かりもんなんだ。うちの組のブツじゃないんだよ。それを返さなきゃウチの組は極村組に皆殺しにされちまう」
「薬はよっちゃんにあげなきゃいけないから、貴方に渡せるわけないじゃない。薬は私とよっちゃんの物です」
「よっちゃん・・・そうか関東白井会の大番頭と言われる、吉川組の吉川健一か!三代目とは反りが合わないと聞いたが、崎田組の女組長とつるんでいたってことか。そういや、関東白井会の三代目会長は昔気質でクスリには手を出さないって噂だが・・・なるほど、お前と吉川組でクスリのしのぎに手を出そうとしているってことかい。くそっ、こうなりゃ意地でもヘロインは取り戻すぜ」
「あら私、ヘロインなんて見てないわよ。そのコウスケって人がヘロインを持っているんじゃないの」
「お前の手元にない? 孝輔がまだ持っている?・・・そうか、孝輔の野郎、ヘロインを持って逃げやがったな。崎田組と他の組を天秤にかけて、競わせて高値でヘロインを捌こうとしてやがるのか。ふざけやがって。崎田組の女組長さんよ、孝輔はウチが先に捕まえる。お前さんには渡さないよ、それじゃあな」
徹頭徹尾誤解したまま、鮫島からの電話が切れた。声のしなくなったスマートフォンをしばらく見つめていた恵子は、「訳分かんない」と呟いてスマートフォンを元のジャケットの内ポケットに仕舞った。そして恵子は孝輔の枕元に座ると、孝輔の肩を優しく揺さぶった。鼻の頭に玉のような汗を浮かべて眠っていた孝輔は、弱々しく目を開けた。
「よっちゃん、具合はどう?」
孝輔は目の焦点がぼやけ、目の前にボンヤリと座っているのが誰だか分からず、一瞬何を言われているのか理解できなかった。
「よっちゃん?・・・ああ、・・・お母さん。うん、だいぶん良くなったよ」
「どれ・・・熱はだいぶ下がったみたいだけど、もう少し寝ていた方がいいわ。よっちゃん、お腹空いていない?」
恵子の声を聞いた途端、孝輔のお腹がぐうと鳴った。キッチンから昆布と醤油の入り混じった良い匂いが漂っている。恵子は笑いながら流し台に立つと、暫くして湯気の立ったどんぶり鉢を持ってきた。孝輔は万年床の上に起き上がると、恵子からどんぶり鉢と箸を受け取った。
「おうどんを作ったの。ご飯物より食べやすいと思うわ」
孝輔は、ウンと頷いてから勢いよくうどんを啜り込んだ。柔らかなのど越しの麺に昆布の出汁の利いたおつゆが絶妙に絡み、空腹の孝輔の箸が止まらない。孝輔の横に座って、恵子もどんぶり鉢を持ってうどんを啜っている。
「うん、美味い。お母さん最高だよ」
「うふふ、そうでしょう。お母さん頑張っていっぱい作っちゃった、お代わりもあるから食べてね」
うどんを二杯もお代わりをして満腹になった孝輔は恵子から薬を貰い、汗で濡れた肌着を着替えるために上半身裸になった。
孝輔の胸の真ん中には喉元からおへそに向かって三十センチほどの大きなみみずばれのような傷跡が付いていた。
「よっちゃん、その傷・・・・」
恵子は大きな目を見開いて孝輔の傷跡を見つめている。
「ああこれ、子供の頃に心臓の移植手術をしたんだ。これは手術の痕だよ」
「子供の頃?」
「二十年前になるかな・・・ううう寒い」
孝輔は慌ただしくシャツを着ると、もう一度万年床に横になった。孝輔は布団の中でゲフッと満足気にうどんの出汁の臭いのする息を吐くと、直ぐに寝息を立て始めた。恵子はどこか遠くを見るようなボンヤリとした目で孝輔の寝顔を見ていた。
孝輔は万年床の中で目が覚めた。
朝の光が薄いカーテンを通して部屋の中を明るく照らしている。昨晩の熱が嘘のように下がり、身体の節々の痛みも取れて頭はスッキリと晴れている。孝輔は万年床の上に起き上がると、両手を上に突き上げてウンと大きく背伸びをした。熱に浮かされて何か夢を見ていた気がするが全く思い出せない。
万年床の横では汚れた洋服やゴミに囲まれて、身体にタオルケットを掛けた恵子が猫のように丸くなって眠っていた。軽く鼾をかいている恵子の顔を見て、孝輔の頭の中に昨日の出来事が蘇ってきた。孝輔はテレビの電源を入れると、ズボンのお尻のポケットに刺さったままバッテリーの切れているスマートフォンを充電器にセットした。流し台に立って水道の蛇口に口を付けてゴクゴクと水を飲むと、孝輔は手の甲で口を拭き、テレビに向かって万年床の上に胡坐をかいた。
テレビのワイドショーでは、平井三丁目のマンションで起こった殺人事件が報じられていた。犯人は逃走中であり、手掛かりはいまのところ何ひとつないという捜査関係者からの話が伝えられた後、画面は現場の風景に切り替わった。マンションを取り囲むように規制線が張られていて、その前で交通整理をしている警察官をバックにして、猿のような顔をした男のリポーターがマイクを手に持って早口で喋り始めた。
『平井三丁目マンション殺人事件の関連情報です。捜査関係者の話として、現場のマンション近くの一軒家に住む佐木田恵子さんが、昨晩から行方不明になっているとのことです。佐木田恵子さんの自宅の居間には何者かが土足で侵入した跡があり、殺人事件に関連して何らかのトラブルに巻き込まれた可能性があるとして、誘拐事件も視野に慎重に捜査が進められています。また、佐木田恵子さんは認知症を患っており、どこかを徘徊している可能性もあることから、警察では情報提供を呼び掛けています。以上、現場から猿山がお伝えしました』
孝輔は思わずギョッとして自分の耳を疑った。
・・・誘拐事件? まさか僕が誘拐犯だってことになるの? 冗談じゃない、僕はお母さんの命の恩人だぞ・・・そして、オレオレ詐欺犯で・・・しかもヘロインを所持していて・・・。やばい、やばすぎる。警察に捕まったらおしまいだ。何とか上手く、お母さんだけを警察に保護して貰わなきゃならない。
テレビの前で孝輔が頭を抱えていると、目を覚ました恵子がタオルケットを胸の前で掴んだままムクリと起き上がった。恵子の視線はボンヤリと部屋の中を彷徨い、やがて孝輔の顔の上で焦点が合った。恵子は小首をかしげて言った。
「貴方はだあれ? ここはどこ? 私はなぜこんな所に居るの?」
孝輔が目を剥いた。
「ええっ! 僕のことを覚えていないの。こうす・・・いや、よっちゃんだよ、息子のよっちゃん。いやだなお母さん忘れないでよ」
狼狽えた顔の孝輔を恵子がギロリと睨んだ。
「何言ってるの、私の息子の良夫は二十年前に死んじゃったわよ。嘘を吐かないで頂戴。それに良夫は死んだお父さんに似てもっとハンサムです」
「なるほど、よっちゃんって良夫という名前なのか・・・いやいや、それよりも、まさか本当に昨日のことを覚えていないの」
孝輔の頭の中に認知症という言葉が浮かんだ。本当に覚えていないのかも知れない。
「昨日は一日中家に居ました。貴方なんて知らないわ・・・まさか・・・ひょっとして誘拐! 私誘拐されちゃったの? 貴方は誘拐犯?・・・怖い! お願い、命だけは助けて頂戴。お金はいくらもないけど、五百万円なら持ってるわ。何に使うのか忘れちゃったけど、昨日郵便局から下ろしてきたの」
「違う違う、僕は誘拐犯なんかじゃありません・・・えっ? 五百万円持っているの? 昨日は知らないって言ってたじゃない」
「あら、三百万円だったかしら・・・」
恵子が首を傾げた。
突然、孝輔のスマートフォンの着信音が鳴った。孝輔は飛び上がるほど驚くと、恐る恐るスマートフォンを手に取った。
「はい?」
「おっ、出やがった。孝輔、お前、ブツを持って逃げやがってふてえ野郎だ。しかもお前、関東白井会崎田組の若い衆だっていうじゃねえか。マッタク仁義もへったくれもねえな」
スマートフォンから、頭の天辺から抜けてくるような甲高い鮫島の怒鳴り声が響いた。孝輔は何を言われているのか理解できないまま思わずヒッと首をすくめた。
「あの・・・鮫島さん、誤解です。ヘロインの持ち逃げなんてしてませんよ」
「何を言いやがる、現に逃げてるじゃねえか。何で昨日のうちに組事務所に連絡しねえんだよ。スマホの電源も切りやがって。俺は昨日の夜、崎田組の女組長とサシで話をしたんだよ。ネタはバレてんだ、言い逃れはできねえぞ」
「そんな馬鹿な、本当に何かの間違いですって。昨日の夜、ヘロインを返そうと組事務所に行ったんですが、マンションの前にパトカーが止まっていて中に入れなかったんです。ヘロインは直ぐに返しますから、ねっ、それで勘弁してくださいよ」
「孝輔、ヘロインはまだお前の手元にあるんだな」
「もちろんです」
「いまどこにいるんだ」
「高円寺にあるアパートの、僕の部屋です」
「よし、すぐお前の部屋に前田を取りに行かせる。こっちも昨日のがさ入れで警察に引っ張られたおかげで、まだ後始末にバタバタしているんだ。孝輔、逃げんじゃねえぞ。もし逃げたら、地獄の果てまで追いかけていって必ずぶち殺すからな」
鮫島はそう凄むと、孝輔の返事を待たずに一方的に電話を切った。
孝輔の目の前にしゃくれた顎をした鮫島の般若の面のような凶暴な顔が浮かんで消えた。孝輔はブルルと身震いをすると手に持ったスマホを放り投げ、慌てて周囲を見回した。
ない。確かに枕元に置いたはずのリュックサックがない。
孝輔は万年床の周囲にうず高く積まれている洋服やゴミ袋を片っ端から放り投げて、「ない、ない」と呟きながらリュックサックを探した。
「誘拐犯さん、何を探しているの」
キッチンから恵子の間延びした声が届いた。
いつの間にか恵子は流しに向かって立ち、コンロでお湯を沸かしていた。コンロの横にコーヒーカップが置いてあり、その横にインスタントコーヒーの瓶が並んでいる。
「ねえ、コーヒーで良いわよね、というかコーヒーしかないけど。ちょっと落ち着きなさいよ。貴方は凶悪な誘拐犯なんでしょう? その割にはボンヤリしてるけど」
孝輔がムッとした顔で言い返した。
「だから僕は誘拐犯じゃないって言ってるでしょ。それよりも、ねえお母さん、ここにあったリュックサック知らない? 中に大切な預かり物が入っていたんだけど」
恵子がムッとした顔でやり返す。
「だから私は貴方のお母さんじゃないって言ってるでしょ。リュックサック? リュックサックってこれのこと?」
恵子はキッチンの床に投げ出してあるリュックサックを指さした。リュックサックはしなびた姿で力なくキッチンの床に横たわっていた。
孝輔はキッチンに駆け込むとリュックサックを掴み上げた。やけに軽い。孝輔は嫌な予感を覚えながらリュックサックの中に手を入れた。
「ない! ここに入っていたヘロインがない! お母さん、あのヘロイン・・・いや、白い粉の入ったビニール袋を知らない?」
「ああ、あの小麦粉ね。食べちゃったわよ、昨日の夜。貴方も美味しいって言って二杯もおうどんをお代わりしたじゃない・・・ん? おうどん?」
恵子の頭の中で何かがピカリと光った。恵子は何かを思い出そうとするかのように、スッと目を瞑ると、ゆっくりと首を左右に振った。そして、スイッチが切り替わったかのようにパチッと目を開けた。
「・・・そういえば・・・あら、よっちゃん、貴方もう身体は大丈夫なの?」
「食べた? おうどん? ヘロインを? いったい何を言って・・・。それよりお母さん、僕のことが分かるの?」
混乱している孝輔を見て、恵子は情けないという顔をした。
「何言ってるのよ、よっちゃん。しっかりしなさいよ、昨日のことも覚えていないの。まあ、そうか、酷い熱だったから仕方ないか。そうよ、よっちゃんが粉から打った本格的なうどんを食べたいから、小麦粉を持っているって言ったんじゃない。だからお母さん、よっちゃんが寝ている間に小麦粉を練っておうどんにしたのよ。そば打ち教室の腕前発揮ね。美味しかったでしょ」
自慢げに話す恵子に向かって、孝輔は拝むように両手を合わせて懇願した。
「あんな量のヘロインを食べたら死んじゃうよ。ねえ、本当のことを言ってよ、もうすぐ江渡神組からあのヘロインを取りに人がくるんだ、それを渡さなきゃ僕は殺されちまう」
「だ、か、ら、おうどんにして食べたって言ってるじゃない。よっちゃんも食べたでしょ、共犯よ共犯」
両手を腰に当ててきっぱりと言い切る恵子を見て、孝輔の脳裏に疑念の雲が湧き上がった。
「そんな・・・あれは本当に小麦粉だったってことか」
孝輔の頭の中で思考がグルグルと渦を巻く。
・・・誰かが中身をすり替えて、鮫島さんにヘロインだと言って渡した。鮫島さんはそれを知らない。だからあんなに必死になって僕を追っている。・・・ということは、現物がなければ中身が小麦粉だったことは証明できないってことだ。・・・それじゃあ僕がヘロインを持ち逃げしたってことになる! 何の証拠もなしに『あれは小麦粉でした』って言っても鮫島さんは信用してくれやしない。・・・殺される、このままじゃ鮫島さんに殺される!・・・
孝輔は頭を抱えるとキッチンの床に蹲った。恵子は孝輔の姿を見て「変なの」と言いながら沸いたお湯でインスタントコーヒーを淹れた。
「ほら、よっちゃん、とにかくコーヒーでも飲んで落ち着きなさい」
孝輔はコーヒーカップを受け取り、俯いてがぶりと一口飲んでから、ふっと顔を上げた。恵子を見上げる孝輔の目が血走っている。
「そうだ、お母さん、小麦粉の残りはどうしたの、それと小麦粉が入っていたビニール袋もあるはずだよね」
「小麦粉はぜーんぶ使っちゃったわよ。ビニール袋? どこに捨てちゃったかしら。この部屋のどこかのゴミ袋の中にあるんじゃない? ゴミ袋はそこら中にあるから分かんないなあ。だから部屋を綺麗に片付けなさいって、お母さんいつも注意してるでしょ」
孝輔の目の前が真っ暗になった。もはや残された道はひとつしかない。
「ダメだ、探している時間もないし、そもそもビニール袋だけじゃ信用してくれやしない。このままじゃ、殺される、逃げるしかない・・・お母さん、僕は逃げるよ。お母さんは警察に行って、昨日見たことを話して保護して貰えばいいよ」
「昨日見たことってなあに? 昨日はお母さん一日中この部屋に居たわよ」
「覚えていないのか・・・そうか、お母さん認知症で・・・」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」
「分かった、分かったから。とにかくここに居ちゃダメだ、お母さん、ひとまず一緒に逃げよう。その後のことは逃げた先で考えよう」
孝輔は万年床の上で素早く着替えると、放り投げてあったスマートフォンをズボンの後ろポケットに差し込み、空のリュックサックを手に持った。そして周囲に散らばっている洋服を適当に拾い上げてリュックサックに詰め込んだ。
「よし、お母さん、出発しよう」
孝輔が恵子の方を振り向くと、恵子は流しの前に立ってボンヤリとコーヒーを啜っていた。
「よっちゃんダメだ、このインスタントコーヒー古いんじゃない? 香りが飛んじゃっているわ。まあ、インスタントだから仕方ないか」
相変わらず恵子の声には緊張感がない。
「お母さん、コーヒーを飲んでいる場合じゃないんだよ、早く逃げなきゃ。捕まったら殺されるんだよ」
「あら、困ったわね、今日は猫のジュリーもいないし」
何気ない口調の恵子の言葉に、孝輔はガツンと頭を殴られた気がした。重要なことを忘れていた。
「猫? そうか、あの殺人犯もいるんだった。殺人犯に見つかっても殺されちまう・・・なんてこった。とにかく逃げよう」
恵子は万年床の横に置いてある巾着袋を首から下げると、小さな旅行鞄と孫の手を持った。そして、汚れた洋服の上に放り投げられている紺色のジャケットと床に落ちている裁ちばさみを拾い上げた。
「よっちゃん、忘れ物。ほら、ジャケットを着て、護身用の武器を持って」
「これ僕のジャケットじゃないんだけど・・・まあいいか、少しはましに見えるだろう」
孝輔はジャケットを着ると、裁ちばさみをリュックサックの中に押し込んだ。
孝輔と恵子が幸福荘の狭い階段で二階まで降りたとき、玄関前の路地にブレーキ音を響かせながら白のバンが急停車して、中から数人の男が飛び出した。先頭を走るひょろりとした体形のパンチパーマの男は江渡神組の前田だ。前田たちは玄関ドアを乱暴に開けて幸福荘の中に雪崩れ込むと、我先にと階段を駆けあがった。
孝輔はハッと立ち止まった。
「いま車の止まった音がしなかった?」
孝輔はそういうとじっと耳を澄ませた。階段の下から響くドタドタという足音が大きくなる。
「いけない、江渡神組だ。こんなに早く・・・逃げなきゃ」
孝輔は咄嗟に左右を見回したが、逃げる場所も隠れる場所もない。万事休す。捕まれば鮫島に殺される・・・ヒューズが切れたように孝輔の思考が停止した。その場で棒立ちになった孝輔の膝がガクガクと震えた。
「よっちゃん、こっち」
恵子は孝輔の手をグイッと引いた。そして恵子は目の前の202号室のドアを無造作に開けた。
「おはようございまーす」
恵子は能天気な声であいさつしながら、孝輔の手を引いて部屋の中に入った。ドアを閉めると同時に、ドアの向こう側から階段を上っていく前田たちの足音が響いてきた。間一髪だった。
孝輔の部屋と同じ間取りの202号室では、ダボシャツを着てステテコをはいた髭面の男がお茶碗とお箸を持ったところだった。こたつの上には納豆のパックと焼き魚が置かれている。いきなり部屋に入ってきた恵子と孝輔を見て、男は一瞬何が起こったのか分からず、お茶碗を持ったままの姿でポカンと口を開けて眼を丸く見開いている。虚を突かれたその男は呼吸すらしていない。
無言の男に向かって恵子はにっこりと笑った。
「あら、お食事中でしたか、ごめんなさいね急にお邪魔して。えっと・・・回覧板です。あらっ、回覧板を持ってくるのを忘れちゃった。オホホ、私ったらドジねぇ。それじゃあまた、失礼しました」
恵子はそれだけ言うと回れ右をし、あっけに取られて立っている孝輔の手を引いて部屋の外に出た。三階の廊下を孝輔の部屋に向かって走る前田たちの、ドタドタという足音が頭上から響いている。
「さあ、よっちゃん、いまのうちに逃げよう」
恵子は未だに呆然としている孝輔の肩をポンと叩いた。恵子の機転が孝輔を救ったのだ。孝輔がハッと我に返る。
「何だか分からないけど、とにかく助かった」
とりあえず命を永らえた孝輔は恵子の手を引いて階段を駆けおりた。
孝輔と恵子は幸福荘の玄関から前の路地に飛び出すと、左手に見える大通りに向かって走り出した。孝輔と恵子の後ろを追いかけるように、路地の奥に停車していた黒のベンツがゆっくりと動き出した。徐々に速度を上げながらふたりの背後に近づく黒のベンツの、フロントガラスの向こうでチラリと出っ歯が光った。
「待てこのヤロウー! 逃げるんじゃねえー!」
路地に前田の叫び声が響いた。孝輔が振り返ると、幸福荘の304号室の窓から顔を出した前田と目が合った。前田の目が怒りに燃えている。孝輔の背中にゾクリと悪寒が走った。孝輔が路地に視線を戻すと、孝輔と恵子の二十メートル後方でベンツのエンジン音が突然吠えるように高まり、ベンツのタイヤから煙が上がった。孝輔と恵子に向かってベンツが一直線に急加速している。
「何だあの車・・・危ない!」
恵子を庇うように抱きかかえた孝輔の目に、ベンツのフロントグリルが禍々しいほど大きく映った。
「うわー!」
孝輔は叫び声を上げ、恵子を抱いたまま咄嗟に身を屈めた。
孝輔と恵子が身を屈めたことで、ふたりの身体で遮られていた動物病院の看板が顕わになった。その看板には可愛らしい三匹の子猫の写真が使われている。看板に目をやると、三匹の子猫に見つめられているようだ。
「ひいっ、猫!」
ベンツは急ハンドルを切り、孝輔と恵子の脇をかすめるように走り抜けると、路地の反対側にある宅配業者の手荷物集配店舗に突っ込んだ。
孝輔が恵子の肩を抱いたまま、宅配業者の手荷物集配店舗を滅茶苦茶にして、ひしゃげたボンネットから煙を上げているベンツを呆然と眺めている。ベンツの屋根には黒い猫の絵が描かれた宅配業者の看板が墓標のように載っていた。
「助かった・・・いったい何が起こったんだろう」
「黒猫の祟りじゃない?」
「猫? まさかあの殺人犯が・・・」
幸福荘からどやどやと数人の男たちが路地に飛び出してきた。男たちの先頭で前田が孝輔を指差して何か怒鳴っている。
「いけない、お母さん、逃げよう」
孝輔は前田に気付くと慌てて恵子の手を引き、大通りに向かって走り出した。
前田たちが路地を抜けて大通りに入ると、百五十メートル先を孝輔と恵子が走っている。その先には羽田空港行のリムジンバスがパーキングランプを点滅させながら停車していた。孝輔と恵子の姿がリムジンバスの車体に遮られて前田たちから見えなくなった。
「あいつら、あのリムジンバスに乗るつもりだ。急げ」
前田たちはリムジンバスに追いつこうと必死になって大通りを走り出した。どこからか救急車のサイレンが響いてきた。事故の通報を受けた警察官が自転車に乗って高田たちの方へ走ってくる。
ベンツの事故現場に向かっていた警察官は必死の形相で走る前田たちに気付くと、不審そうな顔をして自転車を止め、腕組みをして前田たちを睨んだ。
「前田の兄貴、ポリ公だ。こっちを見てますぜ」
「みんな走るな、ゆっくり歩くんだ。何でもないようなツラをしろ」
前田たちは慌てて走るのを止め、警察官と目を合わさないように下を向くとゆっくりと歩き出した。わざとらしく目を逸らしながら目の前を通りすぎていく前田たちを、警察官は首を傾げながら暫く見ていたが、ベンツの事故現場に向かう救急車のサイレンが近づくと、慌てて自転車に乗って走り去った。
前田たちの目の前でリムジンバスは発車した。一足遅かった、停留所には誰も残っていない。前田は呆然とした顔で遠ざかっていくリムジンバスのテールランプを見送りながら、ノロノロとした動作でポケットからスマートフォンを取り出した。前田の額にびっしりと汗が浮いているのは走ったせいだけではないようだ。覚悟を決めた前田は、ゴクリと生唾を飲み込んでから話し出した。
「あっ、鮫島さんですか、前田です。あのー、実は、孝輔に逃げられました。・・・ひっ、そんなに怒鳴らないで下さいよ。こっちだって一生懸命に・・・分かりましたよ。俺が悪いんです・・・えっ、指? そんな酷い・・・指だけは勘弁して下さい。この次は絶対・・・ええ、孝輔はリムジンバスで逃げました。羽田空港行です。・・・はい、先回りして・・・任せてください」
前田はスマートフォンを切ると、ふうっとため息をついて首を振り、額の汗を手で拭った。横にいた若い男が心配そうに前田に声を掛けた。
「前田の兄貴、鮫島さんは相当怒ってました?」
「相当なんてもんじゃない、お前ら全員指を詰めろって怒鳴られた」
「えっ、俺たちも? 前田の兄貴だけじゃなくて? 俺たち下っ端は前田の兄貴の指示どおりに動いただけですよ、それで責任取れなんて酷くないですか。やはり責任は管理者である前田の兄貴ひとりで負うべきですよね、なあみんな」
若い男の後ろに控えていたふたりの男が同時に頷いた。前田のこめかみに蚯蚓腫れのような血管が浮き上がる。
「うるせえ! こうなったら一蓮托生なんだよ。とにかく、羽田空港に先回りして、孝輔がリムジンバスから降りたところを押さえるぞ。今度失敗したら・・・怖くて言えねえ」
前田たちが警察官の前をそしらぬ顔で歩いていたときに、孝輔と恵子はリムジンバスの停留所にたどり着いた。アイドリングのゴロゴロという低いエンジン音を響かせながら停車中のリムジンバスは直ぐにでも発車しそうな様子で、孝輔はバスの乗降口から中を覗き込んだ。何とか逃げ切れそうだ。孝輔の顔が安堵で緩む。
「羽田空港行です。そろそろ発車時間ですが、乗車されますか?」
運転手の声に頷いた孝輔が乗降口のステップに片足を掛けたとき、孝輔のジャケットの背中を恵子がグイと引っ張った。
「なに? お母さん、早く乗らなきゃ、やつらに追いつかれちゃうじゃないか」
「よっちゃん、こっちのバスに乗ろうよ。こっちのバスが先に発車するみたいよ」
「こっちのバスって・・・?」
恵子が指さした先には、車体に派手な色で今出川自動車教習所という名前と電話番号がでかでかと書かれた十人乗り送迎用マイクロバスが止まっていた。
「これって自動車教習所の・・・」
「さあ急ぎましょ。よっちゃん、捕まったら殺されちゃうんでしょ」
恵子は孝輔の答えも聞かずにさっさとマイクロバスに乗り込んだ。
時間は迫っている、恵子をマイクロバスから引きずり下ろす余裕はなさそうだ、こうなったらヤケクソだ。孝輔は天を仰いでから、恵子の後に続いた。恵子は運転席のすぐ後ろの席に座ると、運転手に話しかけた。
「運転手さん、早く発車してくださいな。そうでないと、この子が殺されちゃうの」
マイクロバスの運転手は乗り込んできたふたりを見ると、キョトンとした顔をした。
「殺されるって言った?・・・冗談? まあいいか」
孝輔と恵子を乗せた今出川自動車教習所の送迎用マイクロバスが、ガラガラと騒々しいエンジン音を上げながら動き出した。マイクロバスの後を追うように、羽田空港行のリムジンバスもプシュというドアの閉まる音に続いて滑るように動き出した。リムジンバスの車体に隠れるように前を走るマイクロバスの姿は、停留所まで追いかけてきた前田たちには見えなかった。
青梅街道沿いに広大な敷地を持つ今出川自動車教習所のロビーには待合用のソファーが並び、所々に教習生が座ってスマホをいじったり教則本を読んだりしていた。
孝輔と恵子は人目を避けるようにして端の方のソファーに座っていた。
「お母さん、これからどうしようか」
「よっちゃん、逃げるんでしょう。だったら遠くに逃げましょうよ。やつらが追っかけてこないような遠くに」
「遠くって言ったって、どこ?」
「・・・そうね、北がいいな。北のはずれ、うん、竜飛岬ね。お母さん、石川●ゆりが大好き」
孝輔が顔色を変えた。孝輔の心臓がドクリと音を立てた。
「北のはずれ? 竜飛岬?・・・どこかで聞いた気がする」
「だから、石川●ゆりよ。つがる~かいきょう~」
「そうじゃなくて、あれは・・・ダメだ、思い出せない」
孝輔は頭を抱えた。頭の奥底がズキズキと痛む。忘れている・・・何かを忘れている、いや、それとも思い出したくないのか。
「ウフフ、よっちゃん、お母さんと約束したじゃない。忘れちゃったの? 一緒に行こうって。よし、行先は竜飛岬に決定!」
孝輔の心臓が、またドクリと音を立てた。頭の中で誰かが叫んでいるようだ。
・・・約束?・・・そうだ、それは竜飛岬にある! 竜飛岬に行かなければならない。・・・それ? それとは何だ・・・だめだ、思い出せない・・・夢? 夢で見たんだろうか。・・・
孝輔は考えを振り払うように頭を振ると、悟ったような顔で恵子に向かって頷いた。孝輔の心は決まった。
「分かったよ、お母さん。竜飛岬へ行こう。お母さんとの約束を果たさなきゃ。とはいったものの、逃げるにはお金がいるよ。僕の手持ちは・・・・小銭も併せて二万円と少々。お母さんはいくらお金を持っているの」
孝輔の財布の中を興味深げに覗き込んでいた恵子はポカンとした顔で孝輔を見た。
「お金? あら嫌だ、お母さん家にお財布を置いてきちゃった。ウフフ、サザ●さんみたい」
孝輔がガクリと首を垂れた。
「ダメだこりゃ」
「ねえよっちゃん、お腹空いたね。朝御飯を食べようよ。あそこに喫茶室があるじゃない」
恵子はそう言いながらソファーから立ち上がり、教習所のロビーの脇に設けられている小さな喫茶室を指差した。
喫茶室でモーニングセットを食べた孝輔と恵子は、喫茶室の椅子に腰掛けてコーヒーを啜りながら、壁に掛けられたテレビをボンヤリと見ていた。
ワイドショーでは江戸川区平井三丁目のマンションで発生した殺人事件の続報を伝えていた。殺害されたのは山川洋二という職業不詳の暴力団関係者であり、警視庁の元刑事という肩書を持つコメンテーターが、暴力団同士の抗争ではないかと訳知り顔で解説している。犯人は不明らしい。
「とにかく、この犯人が捕まるまでお母さんは隠れていた方がいいね。犯人はお母さんに顔を見られたと思っているんだから」
「犯人の顔? 何言っているのか分かんない」
孝輔はフウとため息を吐いた。
「やっぱり覚えていないのか。それじゃ警察に保護して貰うのは無理だな」
「それより、よっちゃん、お腹空いたね。朝御飯まだでしょう、何か頼みましょうよ。お母さんはモーニングセットがいいな」
孝輔がムウウと唇を突き出した。
「さっきモーニングセットを食べたばかりじゃない、覚えていないの?」
「あら、そうだっけ? 何だか小腹が空いちゃったな・・・・それよりも、よっちゃん、貴方テレビに出てるわよ」
「え?」
ワイドショーでは平井三丁目の一軒家から行方不明になっている恵子の名前に続いて情報提供が呼びかけられ、恵子を誘拐した可能性のある男性であるとして孝輔の姿を映した防犯カメラの映像が流れていた。
猿のような顔をした男のリポーターが頷きながらマイクを向けた先で、タクシー運転手が無精ひげの生えたごつい顎を撫でながら嬉しそうな顔をしてリポーターに答えていた。
『ええ、平井駅の近くでお婆さんと男の人を乗せました。行先? 高円寺の駅の辺りで降ろしましたよ。タクシーに乗り込んできたときに、男の方は手になにか尖ったものを持ってました。チラッと見えただけだったんで、そのときは何とも思わなかったんですが、ありゃナイフですね。間違いありません、刃渡り三十センチのサバイバルナイフです。お婆さんは男に脅されて仕方なくといった感じで、車の中はずっと黙っていましたよ。私が早く気づけば良かったんです。そういや、お婆さんも手に何か持っていたような・・・ゴムボールの付いた孫の手? いやいや、そんなはずは・・・見間違いです』
『卑劣な犯人に誘拐された佐木田恵子さんの無事と一日も早い解放を願ってやみません。以上、猿山がお伝えしました』
孝輔は思わず周囲を見回した。厨房の前で肥ったウエイトレスがスマートフォンをいじりながらあくびをしている。孝輔と恵子の斜め向かいのテーブルに座っている眼鏡をかけた若い男は、下を向いて申請書らしき書類にボールペンを走らせている。閑散としている喫茶室の中で、テレビの映像に写った男が孝輔だと気が付いた者はいないようだった。
孝輔は額に滲んだ脂汗を掌で拭った。
「ダメだ、こんな所でモタモタしていたら捕まっちゃう。とにかく北へ向かおう」
「でもよっちゃん、お金はどうするの」
「何とかなるさ、いや、何とかするさ。とにかく行ける所まで行こうよ」
孝輔と恵子は喫茶室の椅子から立ち上がった。
今出川自動車教習所の教習コースの脇に、路上教習用の日産セドリックが止まっていた。車体には送迎用マイクロバスと同様に派手な色で、今出川自動車教習所という名前と電話番号がでかでかと書かれている。車の前後には仮免許運転中の標示板が付けられており、運転席には教習生が既に座って待機していた。
助手席に座っていた教習指導員は忘れ物をしたといって車から降りたきりまだ帰ってこない。教習生の坂口は今日の卒業検定を前にして、緊張した顔でハンドルに手を掛けていた。既に三回も卒業検定に失敗していてもう後がないのだ。
教習車の助手席のドアが開き、先程の教習指導員とは違う男が乗り込んできた。後部座席のドアも開いて銀髪の老女が小さな旅行鞄と巾着袋を持って乗り込んできた。旅行鞄から孫の手がはみ出している。
男は坂口に声を掛けた。男は・・・孝輔だ。
「はい、それじゃあ車を出しましょう。発車時の前後左右の確認を忘れないようにね」
坂口は面食らった顔で孝輔に訊いた。
「あのう、あなたは?」
「ああ失礼、代わりの教習指導員です。さっきの指導員は腹痛で動けなくなっちゃったんで、急遽私が代役を務めます。そのせいで制服も間に合わなくて私服のままきてしまいましたが、ご容赦くださいね。私は今出川、ここの自動車教習所の所長の関係者のようなものです。君、名前は?」
「坂口といいます。あの、今出川先生、後ろの方は?」
坂口はバックミラー越しにチラリと恵子に目をやった。
「ああ、私の母で今出川と言います、彼女も教習指導員です。今日はふたり体制で指導を行います。彼女には死角になりやすい後方の安全確認をお願いしています。まあ、卒業検定の合格に向けたバックアップの一環と思って下さい。但し、追加の料金が発生します。坂口君、お金は?」
坂口はポケットから財布を出した。
「えっと、三万円とちょっと、あとはクレジットカードしか持っていないんですが」
孝輔はウンと頷いた。
「三万円でいいですよ。後ろの今出川指導員に渡してください。・・・それじゃあ坂口君、行きましょう。はい、一時停止して、ウインカーを出して。うん、いいですね、スムーズな合流だ。これなら合格は間違いなしだ。今日は青梅街道を真っ直ぐ新宿に向かって走りましょう。ああ、車間距離に気を付けて・・・」
孝輔と恵子を乗せた路上教習用の日産セドリックは青梅街道の車の流れに乗り、新宿方面に走り去った。
羽田空港第一ターミナルのリムジンバスの発着場で、前田はいらいらと高円寺方面ルートのリムジンバスを待っていた。孝輔の乗ったリムジンバスのナンバープレートの番号を案内所で伝えて運行状況を確認すると、羽田空港の第一ターミナルの発着場にはあと五分で到着するらしい。念のため第二ターミナル、第三ターミナルにも手下を張り付けているが、とにかく、ここで孝輔を押さえようと前田は腹をくくっていた。前田の頭の中に鮫島の鬼のような顔が浮かんでは消える。耳元で鮫島の甲高い怒鳴り声が聞こえるようで、何度も耳の穴を指でほじくっていた。じっとりと手に汗が浮いている。
緩いカーブを曲がって姿を見せたリムジンバスは、何台も並んで停車している他の路線のリムジンバスの横を滑るようにすり抜けて第一ターミナルの発着場を進み、前田の目の前にゆっくりと止まった。プシュという音と共にバスのドアが開き、手に大きな荷物を持った乗客が待ちかねたようにバタバタと乗降口から降りてくる。
前田は血走った眼を皿のようにして降りてきた乗客の顔をひとりひとり確認し、孝輔の姿がなかったことが分かると、血相を変えてバスの乗降口のステップを駆け上がった。
「ちょっと、お客様、ここは降車専用なのでここからのご乗車はできません」
「うるせえ! ご乗車じゃねえ、人を探しているんだ。邪魔するな!」
前田は運転手を怒鳴りつけると中央通路をゆっくりと進んだ。バスの乗客は何事が起きたのかと興味深げに前田の方に顔を向け、引き攣った顔の前田と目が合うと慌てて視線をそらせた。前田はバスの中に残っている乗客の顔を、すがるような思いで確認したが、孝輔はいなかった。突然膝が震えて力が抜け、思わずしゃがみそうになった前田は、バスの座席の背もたれを必死につかんだ。
「いない・・・なぜいない! いないはずがないんだ!」
前田は震える膝に力を入れると中央通路を引き返して運転席に近づき、唖然とした顔で前田を見ている運転手の胸ぐらを掴んだ。前田の顔は悪鬼のように歪んでいる。
「おい、乗客が足りねえ! どこに隠した! 言え! この野郎!」
前田が運転手の胸ぐらをグラグラと揺すった。運転手は泣きそうな声で答えた。
「何をおっしゃっているのか分からないんですが」
「途中で降ろしたのか、どうなんだ!」
「ここにくるまでの停留所は乗車専用ですから、途中で降車されたお客さんはいませんよ」
「じゃあ何でいないんだ、確かにこのバスに乗ったはずだ」
「お探しの方がこのバスに乗車されるのを見たんですか」
思わずウッと呟いた前田の視線が宙を泳いだ。
「見ては・・・いない。だが、このバスが出た後には停留所に誰もいなかった。このバスに乗ったことは間違いない。車のナンバーも合っている」
先程までと打って変わって、前田の声は力なく震えている。
「そんなことを言われても・・・お探しの方はどこでご乗車されたんですか」
「高円寺だ、高円寺の大通りの停留所だ。三十歳ぐらいの男が乗車したろう」
「高円寺? 高円寺からご乗車されたお客さんはいませんよ。記録が残っているから見れば分かります。高円寺で男の人? そういえば発車間際に男性の方が乗車しようとして止められましたよ」
前田が目を剥いた。
「そいつはどうしたっ!」
「ああ、このバスの前に止まっていた自動車教習所のマイクロバスに乗りましたね、お婆さんと一緒でしたが」
風船から空気が抜けたように、前田の身体が萎んだ。空気と一緒に口から魂も抜け出したようだ。
「そんなバスが止まっていたのか・・・見えなかった・・・それじゃあ孝輔は逃げた・・・」
前田は運転手を放すと、肩を落とし項垂れた姿でバスの乗降口のステップをトボトボと降りた。前田がよろけるようにフラフラとバスから離れると、リムジンバスは前田が戻ってくるのを恐れるかのようにプシュと音を立てて慌ただしくドアを閉め、次の発着場に向けて走り出した。前田の周りにふたりの若いチンピラが集まった。
「前田の兄貴、どうしたんです。孝輔は? まさか、いなかったんですか」
前田は暫く項垂れていたが、やがて真っ赤に充血した目を上げるとかすれた声を絞り出した。
「孝輔に逃げられた。終わりだ、指どころじゃ済まねえ、鮫島さんに殺される・・・冗談じゃねえ、殺されてたまるかよ・・・俺はこのまま逃げる。組には戻らない。お前たちも好きにしな」
暴力団からキッパリと足を洗い、山形県酒谷市にある実家の高田鮮魚店を継いで、これからは地道に生きていこうと高田は心に決めた。
ふたりの若いチンピラは互いに顔を合わせると、前田に背中を向けて何も言わずに駆け出した。前田は手に持ったスマートフォンを地面に叩きつけて壊してから、ふたりの後を追うように走り出した。
江渡神組の組事務所のソファーに座った鮫島は、イライラと貧乏ゆすりをしながら壁に掛かった時計に何度も目をやり、片手に持ったスマートフォンの着信を待っていた。前田から事前に連絡のあったリムジンバスの到着時間はとっくに過ぎているが、鮫島の持っているスマートフォンはうんともすんとも鳴らない。
鮫島は頭の天辺から抜けてくるような甲高い声で事務所の中にいる電話番の若い男を怒鳴りつけた。
「おい神崎、前田から何の連絡もこないじゃねえか、どうなってるんだ! そもそも、このスマホは使えるんだろうな、料金はちゃんと払ってるのか」
神崎と呼ばれた若い男は首をすくめてぺこりと頭を下げると、ソファーに座っている鮫島の前に立った。
「鮫島さん、オレに怒鳴られても困りますよ、連絡してこないのは前田なんですから。前田の野郎は時間にルーズだから、いつもこうなんですよ。待ち合わせにも時間どおりにきたためしがない。どうせ羽田空港でボヤッとしているんじゃないですかね。鮫島さん、こっちから前田のスマホに架けてみればどうです」
鮫島の般若の様な顔が朱に染まる。
「お前に言われなくても分かってるよそんなことは! 何回架けても繋がらないんだ、お客様の都合で電話に出ることができませんだと、舐めやがって」
鮫島に蹴飛ばされそうになった神崎が慌てて鮫島の前から飛び退くのと同時に、鮫島の持ったスマートフォンの着信音が鳴った。
「おう、鮫島だ。遅いぞバカヤロウ!・・・ん? お前、斎藤か、前田はどうしたんだ・・・いない? いないってどういうことだよ。それよりも孝輔は押さえたのか。・・・知らないってお前、バカか!・・・なに? 第一ターミナルに向かったやつらは誰もいないのか。・・・逃げた? 空港に残っているのはお前と高橋だけ?・・・よし、とにかくお前らだけでも早く戻ってこい。言っておくが、逃げたら殺すぞ」
鮫島はスマートフォンを切ると、ソファーの背もたれに身体を預けて天井を見上げた。先程まで真っ赤な顔をして怒り狂っていた鮫島が、今は青白い顔をしてボンヤリとした目で天井の蛍光灯を見つめている。怒り狂った鮫島より、こちらの顔をした鮫島の方が恐ろしい。
神崎が恐る恐る鮫島に声を掛けた。
「鮫島さん、孝輔に逃げられたんですか」
「おそらくな。それで失敗した前田と若いのふたりが逃げたみたいだ。残ったのは斎藤と高橋だけだ」
しばらく上を向いてぼんやりと考えごとをしていた鮫島は、「仕方ねえ」と呟いてからゆっくりとソファーから立ち上がった。
「神崎、車を出せ、極村組の組事務所だ。とにかく極村組長に詫びを入れて、それからその先のことは考えよう」
鮫島は組事務所のドアに向かいながら左手の掌を広げて小指を擦った。ここに戻ってきたときにはこの小指はないかも知れないと思うと、無性に小指が可愛くなった。鮫島は耳の奥で小指がサヨナラと言った声が響いたような気がした。
関東弘心会極村組の組長極村泰道は、紺色の着物に黒の羽織袴という姿で広い応接室に入ってきた。泰道はソファーにゆったりと腰を下ろし、立ったまま出迎えた鮫島を見ると、小さく頷いてから「座れ」と言った。長方形をした大理石の大きなテーブルを挟んで泰道の向かいの席に鮫島が座ると、泰道の左右の席に極村組の代貸の鬼頭と組長のボディーガードの大石が座った。
極村泰道はオールバックの白髪頭に細い目と大きな鷲鼻が特徴的で、左のこめかみから頬を抜けて顎まである長い刀傷が見るものを威圧する。泰道は、関東弘心会の中でも一番の武闘派で『皆殺しの泰道』という異名を持ち、狡知で残忍な性格で誰からも恐れられていた。
泰道の針のように鈍く光る細い目で見つめられた鮫島は緊張で身体が硬直し、背中を冷や汗がタラリと流れた。挨拶をしようと口を開いた鮫島の声はかすれて少し震えている。
「ご、極村組長に置かれてはお変わりなく、こ、心よりお慶びを申し上げます」
泰道の横で鬼頭が鼻で笑った。鬼頭は三つ揃いのスーツをきっちりと着こなしている。スッキリとした目元に高い鼻梁を持つ端正な顔立ちは、黙っていれば二枚目の映画俳優のように見える。鬼頭の張りのあるバリトンの声が響く。
「フン、鮫島、柄にもねえこと言うんじゃねえよ。それよりも、いきなり訪ねてきていったい何の用だ。うちのオヤジはお忙しいんだ」
鮫島がはっと頭を下げると、泰道が鬼頭に向かって「いいよ」と軽く手を上げた。鮫島の耳に泰道の声が届いた。腹の底に響くような低いしゃがれ声だ。
「鮫島、お前んところのオヤジはどうした、まだ入院してんのか」
「はい、肝臓をやられてまして、まだ暫くかかりそうです」
「若い頃はもう少しシャンとしてたんだが、年齢には勝てんな。暫くじゃなくてこのまま永遠に入院じゃねえかな」
泰道は東中野署の山岸刑事と同じようなことを言うとヒッヒッと小さく笑った。
「ところで鮫島、この前預けたブツはどうした。ありゃ会長から儂が預かっているブツなんで気になってんだ。うちの事務所にガサが入るという情報がなきゃここに置いといたんだが仕方ねえ。大丈夫なんだろうな」
「あうう・・・」
鮫島は呻き声を漏らしながら棒を飲んだように背筋をピンと伸ばした。ゴクリと生唾を飲み込んでから、鮫島はいきなり椅子から滑り落ちるように床に膝を突き、そのまま土下座をした。
「極村組長、申し訳ありません! 実は、あの後すぐに、うちの組事務所にも事前情報なしに警察のガサが入ったもんですから」
「なに! 警察に押収されたのか」
泰道が思わず腰を浮かせた。その気配を感じた鮫島は土下座の姿勢のまま顔を上げることもできない。鮫島は床を見つめたまま返事をした。
「いや、それが、警察に押収される前に、組に出入りしている若いもんがブツを持って事務所の外に出ていまして・・・」
泰道はフウと息を吐くと、ソファーにドサリと背中を預けた。
「なんだよ、驚かすなよ鮫島。それじゃあ良かったじゃねえか」
「ところが、ブツを持って出た若いもんの行方が分からなくなっちまいまして。今、必死で居場所を探しています」
「そいつにブツを持ち逃げされたってことか」
泰道の声が低くなった。鮫島がハッと身を硬くした。
「いや、まだはっきりと持ち逃げしたとまでは・・・とにかく、うちの組で責任もって取り戻します。それまでなにとぞ時間の猶予をお願いします」
鮫島は床に額をこすりつけた。誰も声を上げない。シーンとした静寂が十秒ほど続いた。コチコチという時計の秒針が刻む音を聞きながら、このままズドンと撃たれて終わりかなと鮫島が思ったとき、泰道が口を開いた。
「よし、分かった。鮫島、一週間やろう。その若いもんを捕まえてブツを取り戻して儂の目の前に持ってこい。それと、その逃げた若いもんの顔と名前を鬼頭に伝えておけ。うちの組でも手を回してみる」
鮫島は床に額を擦りつけたまま声を上げた。
「ありがとうございます! 必ずやつをとっ捕まえてブツを取り戻しますんで・・・ところで極村組長、今回の不手際のお詫びは・・・あのう、俺の指でも・・・」
鮫島がすくい上げるようにして泰道の様子を窺った。鮫島の背中を汗が一筋流れ落ちた。さよならと言った小指の声が鮫島の脳裏に蘇る。
「バカヤロウ、鮫島。お前のそんなでかい指貰っても仕方ねえよ。置く場所もねえや、大事に取っときな」
鮫島は一瞬パッと顔を上げて極村泰道を見ると、もう一度頭を下げた。泰道は鮫島の這いつくばった姿に「それじゃ」と声を掛けてから応接室を出て行った。
極村組の組長室のマホガニー製の大きな机の前で、革の椅子に腰掛けた泰道が葉巻を吸っていると、鬼頭が部屋に入ってきた。部屋の中の応接セットに座って爪を磨いていたボディーガードの大石がチラリと横目で鬼頭を見た。
鬼頭は机の前に立つと、大きなガラスの灰皿を泰道の前に置きながら言った。
「鮫島は帰りました。オヤジに礼を言ってましたよ、指が繋がったって」
泰道はフウと紫煙を吐き出した。
「フン、繋がったのは指じゃなくて首だろうが、まあいい。それよりも鬼頭、その逃げた若いもんは鮫島よりもうちが先に捕まえて、ブツを取り上げるんだぞ。儂が鮫島に預けたブツの中身が小麦粉だってバレたら大変なことになる。
会長から預かっていたヘロインを関西の神宮会に横流ししたことが会長の耳に入りでもしたら、こっちの首が危ない。捕まえた若いもんは鮫島に見つからんように始末しちまえ。そうなりゃあ鮫島はブツを返せない。これで最初の筋書きどおり、会長にはブツは江渡神組が失くしたって説明できる」
「江渡神組の事務所をチンピラに襲わせて、オヤジが鮫島に預けたブツを奪う手間が省けましたね。でも、さすがに江渡神組の組事務所に警察のガサが入ったと聞いたときには肝を冷やしましたぜ」
「ガサをかけたのは東中野署の山岸だろう。誰かが山岸にタレコミやがったか」
泰道は眉間にしわを寄せて腕を組んだ。
「オヤジ、関東白井会の崎田組の女組長ご存じですか。あの女組長が江渡神組のシマを狙っているってもっぱらの噂です」
「なるほど、山岸は関東白井会の吉川組の組長とはツーカーの仲だ。あの女組長は吉川組長とつるんでいるから、そっちからの情報か。よし、とにかく逃げた若いもんを捕まえてブツを回収する、捕まえた若いもんは始末して、ブツを失くした責任は江渡神組に負わせる・・・ついでに江渡神組のシマは儂が貰おう、崎田組なんかに渡してたまるか。鬼頭、抜かるなよ」
鬼頭は俳優の様に整った顔の片頬を歪めた。準備は万端だと言いたいのだろう。
「任せてください。逃げた若いもんの名前は浅井孝輔だそうです。写真は鮫島がすぐにこっちに送ってきます。警視庁にうちの息のかかったのが何人もいますんで、そいつら使って浅井の後を追わせます、警察にかかりゃどこに逃げたってすぐ見つかりますよ」
鬼頭の説明を聞いた泰道は満足気にニヤリと笑い、歪めた唇から葉巻の煙をゆっくりと吹き出した。
根津欽三が意識を取り戻して目を開けたのは病院のベッドの上だった。時間は深夜に近いのだろう、病室内は真っ暗で入口のドアの下のすきまから廊下の光が漏れている。カスミが掛かったようにボンヤリとした薄暗闇の病室内を、両目の眼球だけ動かして人がいないことを確認しながら、根津はそろそろと両手を動かしてみた。左手前腕には点滴用のカテーテルが刺さり、そこから延びる輸液ラインが首都高速の葛西ジャンクションのように渦を巻きながら、ベッドの横のスタンドにぶら下がっている輸液バッグに繋がっている。右手で頭に手をやると、頭部はインド人のターバンのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。身体を起こそうと身じろぎすると右胸に激痛が走り、根津は思わず呻き声を漏らした。右胸の肋骨が何本か骨折しているのだろう。
右胸の激痛に耐えながら、根津は事故の状況を思い出した。目の前に突然現れた動物病院の看板の、三匹の子猫の写真を見て思わず急ハンドルを切ったため、コントロールを失ったベンツが道路脇の宅配業者の手荷物集配店舗に突っ込んだのだ。ベンツの運転席で意識を失った根津は救急病院に運び込まれたらしい。
根津はゆっくりとベッドの上に身体を起こすと、フウッと大きく息を吐いてから、右手で左手前腕の点滴用のカテーテルを引き抜き、頭の包帯をむしり取った。とにかく、ここから逃げなくてはならない。
根津欽三は金で殺人を請け負う殺し屋だ。関東白井会崎田組幹部の島内からの依頼で、平井三丁目のマンションに住む山川洋二を絞殺した際に、不覚にも殺人の現場と自分の顔を老女に見られてしまった。このままあの老女を放置しておくわけにはいかない。自分のことを警察に喋られる前に口を塞がなければならないのだ。
これまで二度にわたって根津が老女の殺害に失敗しているのは、いずれも猫のせいだった。根津は小学生の頃に野良猫を虐待していて反対に手を噛まれ、その傷が化膿して死にかけたことがあった。それ以来、猫の姿を見ると根津は身体が動かなくなってしまう。決して、顔がネズミに似ているからではない・・・はずだ。
根津は病衣姿でベッドから降りると、裸足のままで入口のドアの前に立った。廊下に人の気配がないことを確認すると、根津はスルリと廊下に滑り出て隣の病室に入った。十分後、洋服に着替えた根津は、時折右胸を押さえながらゆっくりとした足取りで廊下を進み、青い非常灯の周囲に広がるボンヤリとした光の塊を避けるようにして、階段の闇に融けて消えた。
孝輔と恵子は、新宿発青森駅前行きの高速夜行バスねぶた号に乗っていた。午後九時に新宿バスターミナルを出発したねぶた号は、翌朝午前八時三十分に青森駅前に到着する。定員四十人のバスに二十人ほどが乗車しており、孝輔と恵子の座席の近くに乗客の姿はない。
今出川自動車教習所の路上教習車で青梅街道を新宿方面に向かい、新宿駅西口手前の交差点で信号待ちをしているときに、孝輔と恵子は路上教習車から降りた。運転席でハンドルを握ったまま、降車する孝輔と恵子を呆然とした顔で見ている坂口に向かって「合格です」と孝輔が告げると、坂口はニッコリと笑って「はい」と頷いた。丁度青信号に変わった交差点を、坂口の運転する路上教習車は猛スピードで直進した。孝輔は路上教習車を見送りながら「グッドラック」と呟いた。
孝輔と恵子が新宿駅西口に向かって歩き始めたときに、背後でドカンという何かがぶつかったような音がしたのは気のせいだろう。
ねぶた号のリクライニングシートに孝輔と恵子は並んで座り、窓側の席の恵子はタオルケットを身体に掛けてすやすやと寝ている。孝輔は恵子の寝顔を見ながらこれからどうなるんだろうと考えていた。外は真っ暗で車窓から外の景色は何も見えない。車内の読書灯の小さな光を反射する車窓は液晶テレビの画面のようで、そこに映る孝輔の疲れた顔はホラー映画で真っ先に殺される冴えない三流役者にどこか似ている。頭の天辺から抜けてくるような甲高い鮫島の怒鳴り声が聞こえたような気がして、孝輔は思わず周囲を見回した。気のせいだと分かると孝輔はやれやれと首を振り、読書灯を消すとタオルケットを頭から被った。なるようになるさと孝輔は思った。
(第二話おわり)
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