ミナトの余白時間
御初ちゃん
第1話 きっかけは煙の匂い
俺は
フリーランスのWebデザイナーだ。
昨日、半年がかりの大きな案件が終わった。
画面の向こうのクライアントに最終データを送る。
エンターキーを押す指が少しだけ震えた。
すぐに返信が来た。
「特に問題ありません。ありがとうございました」
その一文を確認して、俺はPCの電源を落とした。
ふう、と息が漏れる。
部屋はしんと静まり返っている。
机の上には空になったコーヒーカップが一つ。
窓の外はもう暗い。
達成感はある。
でもそれと同じくらい、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚。
この感覚には覚えがある。
大きな仕事が終わるたびにやってくるやつだ。
しばらくはアラームをかけずに眠れる。
好きな時間に起きればいい。
それは最高のはずなのに。
なぜか手持ち無沙汰で落ち着かない。
冷蔵庫を開けた。
中には卵と牛乳、それにビールが一本。
食材はほとんどない。
この数週間、まともな料理をしていなかった。
仕方なく最後のビールを取り出す。
プルタブを開ける乾いた音が部屋に響いた。
冷たい液体が喉を滑り落ちていく。
少しだけ、生き返る心地がした。
ソファに深く沈み込む。
スマートフォンを手に取った。
特に目的はない。
指先で画面をなぞるだけ。
流れていくタイムライン。
友人の結婚報告。
同僚の海外旅行の写真。
どれも俺の日常とは遠い世界の出来事に見えた。
何気なく開いた通販サイト。
アウトドアグッズの特集ページが目に入った。
テント、寝袋、ランタン。
煌々と輝くキャンプ場の写真。
大勢で笑い合う男女の姿。
俺には縁のない世界だ。
ページを閉じようとした、その時。
一つの商品が視界の隅に引っかかった。
「初心者でも簡単!ダンボール燻製器セット」
小さな写真には、段ボール箱から白い煙が立ち上る様子が写っていた。
添えられたコピー。
『おうちで手軽に本格スモーク』
燻製。
そういえば居酒屋で食べたことがある。
スモーキーな香りが鼻に抜けるチーズ。
旨味が凝縮されたベーコン。
あれは確かに美味かった。
自分で作れるのか。
しかもこんな段ボール箱で。
俺は無意識に商品ページをタップしていた。
燻製器の組み立て方。
必要な道具。
おすすめの食材。
チーズ、ソーセージ、ナッツ、ゆで卵。
ただ食材を網にのせて、煙でいぶすだけ。
それだけでいいらしい。
火をつけて、あとは待つ。
その「待つ」という時間。
それが今の俺には妙に魅力的に思えた。
必要なのは、時間だけだ。
そして今の俺には、それがあり余るほどある。
値段は三千円ほど。
失敗しても痛くはない金額だ。
俺は気づけば「カートに入れる」ボタンを押していた。
燻製用のウッドチップ。
サクラとヒッコリー。
どっちがいいか分からない。
とりあえず両方カートに入れた。
翌日。
昼過ぎにインターホンが鳴った。
届いたのは昨日注文した段ボール箱。
思ったより大きい。
カッターでテープを切って開封する。
中から出てきたのは、折りたたまれた段ボールの板。
金網が二枚。
アルミの皿。
それから、サクラとヒッコリーのウッドチップが入ったビニール袋。
サクラの袋を手に取って鼻を近づける。
甘くて、どこか懐かしい木の香りがした。
説明書は一枚の紙だった。
簡潔なイラストで組み立て方が描かれている。
まず本体の段ボールを箱型に組み立てる。
簡単だ。小学生の工作みたいだ。
次に、串を刺すための穴を開ける。
側面に印刷された印に、付属の金属串を突き刺す。
ぶすり、と乾いた音がする。
この串に食材を乗せた網を引っ掛けるらしい。
なるほど、よくできている。
三十分もかからずに、俺の目の前に立派な燻製器が完成した。
高さは一メートルほど。
ただの段ボール箱なのに、秘密基地みたいで少しワクワクする。
次は食材の買い出しだ。
財布とスマホだけ持ってアパートを出た。
七月の空は青々としていた。
日差しはまだ少し強い。
近所のスーパーマーケットへ向かう。
カートを押しながら、燻製にするものを探して歩いた。
まずはチーズ。
プロセスチーズがいいらしい。
雪の印の6Pチーズをカゴに入れた。
次は肉。
精肉コーナーをうろつく。
ベーコンのブロック。
厚切りのやつがいいな。
鶏のささみも美味そうだ。
塩胡椒をすり込んでおくだけでいいらしい。
それもカゴへ。
それからミックスナッツ。
殻付きのピーナッツ。
魚肉ソーセージ。
ゆで卵は家で作ろう。
カートの中が燻製候補の食材でいっぱいになっていく。
レジへ向かう足取りは、少しだけ軽かった。
家に帰り、すぐに準備を始めた。
まずはゆで卵作り。
鍋に水と卵を入れて火にかける。
沸騰してから八分。
固茹でにする。
その間に、鶏のささみに塩胡椒を丁寧にすり込んだ。
キッチンペーパーで余分な水分を拭き取る。
こういう下準備は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
無心になれる。
茹で上がった卵は冷水で冷やして殻を剥く。
つるりとした白身が現れた。
すべての食材をバットに並べる。
6Pチーズはアルミホイルを剥くだけ。
ベーコンはそのまま。
ささみ、ゆで卵、ナッツ。
これらを燻製器の網に一つずつ丁寧に並べていく。
食材と食材の間に、煙が通る隙間をちゃんと作る。
よし、完璧だ。
ベランダに燻製器を設置する。
ウッドチップはサクラを選んだ。
アルミ皿に一掴みほどのチップを入れる。
ガストーチで火をつけた。
すぐに火はつかない。
じりじりと燻るような感じだ。
やがてチップの先が赤くなり、白い煙が立ち上り始めた。
香ばしい匂い。
木の燃える匂いだ。
いい匂いだ。
煙が安定してきたのを確認して、アルミ皿を燻製器の底に置く。
食材を乗せた網を、串に引っ掛けて吊るす。
そっと段ボールの蓋を閉じた。
箱の隙間から、白い煙がゆらゆらと漏れ出てくる。
これで、あとは待つだけ。
説明書によれば、一時間から二時間。
アバウトだな。
でも、それでいい。
俺は部屋に戻って椅子をベランダに出した。
そこに座って、煙の出てくる段ボール箱をただ眺める。
隣には淹れたてのコーヒー。
遠くで電車の走る音が聞こえる。
子供の声。
車のクラクション。
普段は気にも留めない生活音が、やけにクリアに聞こえた。
空が少しずつオレンジ色に染まっていく。
綺麗だ。
この景色をカメラにうまく映せるだろうか。
いや、今はいいか。
ただ、この時間を味わおう。
一時間半が経った。
そろそろいい頃合いだろうか。
燻製器の蓋を開ける。
ぶわっと、凝縮された煙が溢れ出した。
むせる。
でも、たまらなくいい香りだ。
網の上の食材たち。
見事な飴色に染まっていた。
チーズは少し溶けて、表面に艶が出ている。
ベーコンは脂が滴り落ちそうだ。
ささみも、ゆで卵も、ナッツも。
全部、燻される前とは全く違う顔つきをしていた。
美味そうだ。
皿に移して、部屋に運ぶ。
まだ温かい。
まずはチーズから。
一切れ、口に放り込む。
途端に、サクラの香りが鼻腔を駆け抜けた。
濃厚なチーズの味と、スモーキーな香り。
これは、美味い。
店で食べるやつより、ずっと美味い。
次はベーコン。
ナイフで薄く切る。
口に入れる。
凝縮された肉の旨味。
脂の甘み。
燻製の香りがそれらを何倍にも引き立てている。
これは、ビールが必要だ。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
グラスに注ぐ。
黄金色の液体と白い泡。
燻製ベーコンを一口。
そしてビールを流し込む。
最高だ。
最高としか言いようがない。
一人で、声に出してしまいそうになった。
鶏のささみも、ゆで卵も、ナッツも。
全部、信じられないくらい美味しくなっていた。
夢中で食べて、飲んだ。
気づけば窓の外は完全に夜になっていた。
腹は満たされている。
心も、だ。
ぽっかりと空いていた穴が、温かい煙で満たされたような気分だ。
自分で計画して、準備して、実行する。
そして、その結果を一人でじっくりと味わう。
この一連の時間。
それは、誰にも邪魔されない、俺だけの時間だ。
悪くない。
いや、すごくいい。
ふと思った。
この過程を、記録してみたらどうだろうか。
スマホで撮るだけでもいい。
道具を選ぶところから、買い出しと準備、そして燻製が完成するまで。
それを動画にしてみたら。
誰かに見せるためじゃない。
あくまで、自分のための記録として。
次にやるときの参考にもなる。
そう思うと、なんだかまた新しい楽しみができた気がした。
俺はテーブルの上に残った最後の燻製チーズを口に放り込んだ。
次の休みは、何をしようか。
何を燻そうか。
ああ、あの美味そうな燻製たちを一枚、写真にでも撮っておけばよかった。
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