第01話:英雄の選別、罪人の選択
荘厳、という言葉を具現化したかのような玉座の間だった。
磨き上げられた大理石の床は、天井から吊るされた巨大なシャンデリアの光を反射して星空のように煌めき、壁という壁には建国の英雄譚を描いたであろう巨大なタペストリーが掲げられている。
その魔法陣の中心に立っていたのは、桃田郎治ただ一人ではなかった。
昨日まで、当たり前のように教室の席を並べていた、三十数名のクラスメイトたち。その全員が、高校の制服姿のまま、目の前で繰り広げられる非現実的な光景に呆然としていた。
「おい、桃田……これ、マジかよ……?」
「夢……じゃないのか……?」
クラスメイトたちの不安げな囁きが、広大な玉座の間に虚しく響く。
その奥、一段と高くなった場所に鎮座する玉座には、威厳に満ちた初老の男――バルキーナ王国の国王が座していた。
「おお、来たか……! アストラル世界より、我らが新たな力となる若人たちが!」
王の歓喜に満ちた声が、静まり返った玉座の間に響き渡る。
その声に呼応するように、周囲を固める騎士たちが一斉に剣の柄を打ち鳴らし、歓迎の意を示した。
(アストラル世界……勇者……)
ついさっきまで、彼は放課後の教室のざわめきの中にいたはずだった。
両親は物心つく前におらず、唯一の肉親だった祖父母も中学の時に亡くなった。
親戚の家では、いないものとして扱われる。
学校でも、級友たちの楽しげな輪の中にいても、心から信頼できる仲間はいない。それが、桃田郎治の日常だった。
その孤独な日常が、クラスメイトたちと共に、唐突に終わりを告げたのだ。
「勇者様がた。突然このような形でお呼び立てしたご無礼、どうかお許しください」
王の隣に控えていた、絹のドレスをまとった美しい王女が、スカートの裾を優雅につまんで一礼する。
透き通るような声と、不安と期待が入り混じった瞳。その真摯な眼差しが、桃田たちの心を射抜いた。
「この世界、エーテル界を……どうか、お救いください」
必要とされている。
クラスメイトたちの間から、戸惑いと、そして抑えきれない高揚感が入り混じったどよめきが上がる。
現実世界で感じていた孤独感が、まるで雪解け水のように急速に満ちされていく。
桃田の全身を、経験したことのない高揚感が駆け巡った。
王が立ち上がり、傍らの侍従が捧げ持つ豪奢な剣を手に取る。
「若人たちよ、空を見よ。あれに見えるは、天空魔城スカルエデン。あそこには、我らの倒すべき敵がおる。異形の者どもを従えた、かの者は、魔王バロックである」
王の言葉に従い振り返ると、窓の外、遥か上空に禍々しい城が浮かんでいるのが見えた。
「汝らに大いなる祝福を! さあ、我らが勇者たちよ!」
万雷の喝采が、玉座の間を揺るがした。
ここが……ここが、俺たちの本当の居場所なんだ!
桃田郎治だけでなく、クラスメイトの誰もが、人生最高の瞬間を味わっていた。
――だが、その熱狂は、あまりにも唐突に、冷水を浴びせられたかのように終わりを告げた。
玉座の間の巨大な扉が開き、現れたのは、儀仗の騎士たちとは明らかに異質の、冷徹な目をした兵士たちの一団だった。彼らは、水晶のような無機質な装置が乗せられた台車を押しながら、桃田たちの前に整然と並ぶ。
先ほどまでの温和な表情を保ったまま、しかしその瞳の奥に冷たい光を宿して、国王が告げた。
「若人たちよ、案ずることはない。汝らの魂の輝きには個体差がある。それぞれの輝きに最も適した形で力を授けるため、これより『適性診断』を執り行う」
「て、適性診断……?」
クラスメイトの一人が、安堵と不安が入り混じった声で呟く。
兵士たちは、その問いに答えることなく、しかし先ほどまでとは違う、どこか事務的な丁寧さで生徒たちを一列に並ばせた。そして、先頭の生徒の前に、あの水晶の装置をかざす。
ピ、と電子音のような音が響き、水晶が淡い光を放つ。
兵士の一人が、感情のこもらない声で告げた。
「エーテルレベル1。――勇者様は、特別な訓練施設へとご案内いたします。こちらへ」
「え、あ、はい!」
レベル1と判定された生徒は、何が起きるのかも分からぬまま、しかし「特別」という言葉にわずかな希望を抱いて、兵士に促されるまま別の扉の奥へと歩いていった。
「次。――レベル2。同様に、訓練施設へ」
「俺、レベル2だって!」
クラスメイトたちは、恐怖よりもむしろ、自分のレベルがいくつなのかという好奇心にざわめき始めていた。桃田も、その光景を見て内心で安堵する。(なんだ、殺されるわけじゃないのか……)
桃田の親友である健司が、彼の前に立った。
「なあ桃田、俺、レベルいくつかな……?」
震える健司の前に、無慈悲に水晶が突きつけられる。
「――レベル1。訓練施設へ」
「そっか、1か……。じゃあ桃田、また後でな!」
健司は、これから何が起きるのかも知らず、少し寂しそうに、しかし笑顔で桃田に手を振ると、兵士と共に扉の向こうへと消えていった。
そして、ついに桃田の番が来た。
怒りも、恐怖も、もうない。ただ、友人たちと引き離される、漠然とした寂しさだけがあった。
水晶が、彼の魂を覗き込むように、これまでで最も強い光を放った。
「――……レベル3。勇者様は、訓練の必要はございません。このままお待ちください」
兵士の声に、初めて畏敬の念が混じった。周囲の兵士たちが、明らかに違う目で桃田を見る。
だが、その言葉は、彼にとって、何よりも残酷な宣告だった。
彼は、生き残ったのではない。彼は、友人たちの輪から「仲間外れ」にされたのだ。
診断は終わった。
「レベル3」と判定されたのは、桃田ただ一人だった。
がらんとした玉座の間に取り残された彼の目の前で、友人たちが「特別訓練」という名の希望を胸に向かっていった重い扉が、地響きのような音を立てて、完全に閉ざされた。
完全な静寂。
その中で、桃田は自分が「英雄」になったのではなく、たった一人で、この残酷な世界に「一人ぼっち」になったのだと、魂で理解した。
◇
『99.999%』。
神の託宣にも等しいその数字が、浦島祐(うらしまゆう)の脳裏で明滅していた。
AIによる証拠鑑定が導き出した、彼の人生を終わらせるには十分すぎる『有罪確定率』。
コンクリートの壁に囲まれた独房の冷気が、思考を麻痺させていく――。
罪状、連続殺人。身に覚えはない。だが、決定打となったのは、最後の被害者である善良な元小学校教師、相原太郎を殺害する祐自身の犯行映像だった。
遺体なき殺人という矛盾さえ、「自身のスマホに残された映像」という絶対的な事実の前では黙殺され、他のあらゆる電子的証拠も彼を犯人だと指し示していた。
鉛のように重い時間が過ぎていく。恐怖と絶望が喉元までせり上がってくるが、奥歯を噛しめて耐える。兄と弟に心配をかけたくない。その一心だけで、祐は心の平静を装っていた。
最後の希望は、死刑執行命令書に署名しないと公言している法務大臣の存在。だが、それもいつ覆るか分からない砂上の楼閣に過ぎなかった。
その頃、祐との面会を終えたばかりの兄、浦島慶(うらしま けい)は、人気のない廊下で壁に手をつき、荒い息を吐いていた。
アクリル板越しに見た弟の、無理やり作った笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。どれほどの恐怖を押し殺して、あの笑顔を作ったのか。
「くそっ……!」
弟一人救えない無力さに、爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。世界を変える頭脳も技術も、分厚いアクリル板一枚の前では無力だった。
その時だった。ポケットのスマートフォンが鋭く振動した。ディスプレイに表示された『柳』の名に、慶の表情がさらに険しくなる。
慶が所属する宇宙開発事業団の最高責任者であり、彼の理論を国家プロジェクトにまで引き上げた男だ。嫌な予感が胸をよぎる。
「……もしもし」
『慶君か。最悪の知らせだ』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、感情の温度を一切感じさせない、柳の冷静な声だった。
「……何があったんですか」
全身から血の気が引いていくのを感じながら、慶はかろうじて声を絞り出す。
『法務大臣が署名した。明日の夕刻に執行されることが確定した』
その言葉は、最後の望みを打ち砕く無慈悲な鉄槌だった。
あの大臣でも、世論と法律の前では無力だったのか。法の下では、もはや如何なる手段も残されていない。慶の全身から、力が抜けていく。
(くそっ……想定していたより執行が早すぎる! 何か、何か手はないのか……!)
慶は、絶望に支配されそうになる思考を無理やり叩き起こした。法治国家である以上、法の下で弟を救う方法を探すしかない。
無罪を証明する新しい証拠。AI鑑定を無効化する証拠能力の脆弱性。あるいは、法律そのものを一時的に凍結させるための、圧倒的な世論を味方につけるための策。
だが、どれもこれも時間が足りなすぎる。明日の夕刻までに、奇跡は起こせない。
絶望的な状況を打破する、たった一つの可能性を求めて、慶は思考の海に深く潜っていた。
受話器の向こうで、柳の声が続く。
『君が今、頭の中で考えていることは分かる。だが、法の下ではもう何もできない』
柳はそこで言葉を区切ると、氷のように冷たい声で続けた。
『我々に残された手は、例の超法規的措置だ。政府との交渉は済んでいる。だが、一つだけ懸念がある……。この措置の実行には、計画の根幹技術を開発した君自身の承認、つまり共犯者としての署名が必要になる。君は、法を重んじる研究者だ。非人道的な不法行為に耐えられるのか、という点だな』
その言葉は、慶の心臓を直接抉るような響きを持っていた。法の下では如何なる手段も残されていない、と突きつけられた直後に、法をその手で犯せと迫られているのだ。
慶は一瞬、息を詰めた。脳裏に、祐の虚勢を張った笑顔が浮かぶ。
「……構いません」
慶の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「祐が助かるなら、俺は悪魔にでも、この身を売り渡す。……俺は、進んで法を犯します」
『……分かった。こちらも準備がある。研究所で合流し、詳細を詰めよう』
通話が切れると同時に、慶は走り出していた。行き先は、東京拘置所の地下深くに存在する、宇宙開発事業団の秘密研究施設。自らが設計した、地獄への入口だ。
研究室の中央に鎮座するカプセル状の転生装置が、無機質な照明を浴びて鈍い光を放っている。柳が差し出した一枚の書類。それは、弟の命を救うための、悪魔との契約書だった。
ペンを握る手が、微かに震える。一度サインすれば、もう後戻りはできない。弟を人道にもとる実験の被験体にし、自らはその共犯者となるのだ。
(すまない、祐……俊……)
心の中で家族に詫びながら、慶は迷いを振り払うように一気に自身の名を書き記した。
深夜、独房の冷たい床の上で膝を抱えていた祐は、複数の足音で顔を上げた。自分の独房の前で止まったそれに、ついにその時が来たのかと身を固くする。
重い音を立てて開いた扉の向こうに、数人の看守が立っていた。
「浦島祐。移送する」
予想外の言葉だったが、抵抗する気力はなかった。ふらつく足で立ち上がり、看守たちに促されるまま薄暗い廊下を進む。突き当たりに現れたのは、場違いなほど近代的な金属製の扉。その先のエレベーターは、表示もなく地下深くへと下降していった。
やがて、長い沈黙の後にエレベーターが止まる。
目の前の扉が静かにスライドして開いた瞬間、祐は息を呑んだ。
薬品とオゾンの匂いが混じり合う、真っ白な空間。中央には、SF映画に出てくるような巨大なカプセル状の装置が静かに佇んでいた。そのコンソールでは、大きなメガネをずり上げながら、一人の研究員が神経質そうに数値を監視している。
そして――その装置の前に立つ数人の姿の中に、見知った顔を認めて、祐の心臓が凍り付いた。
白い研究者のコートを羽織った、兄、慶だった。
その目に映ったのは、分厚いアクリル板越しに見たどんな苦悩とも違う、見たこともない絶望に染まった兄の顔だった。
「祐!」
慶が、血走った目で駆け寄ってくる。彼の隣には初老の男と、心配そうな表情を浮かべた見知らぬ女性研究員の姿もあった。
「祐君、大丈夫…?」
その女性が、祐の腕を支えるようにそっと手を添える。
コンソールから、メガネの研究員が報告する。
「鬼瓦です。柳さん、対象者の魂をエーテル化する準備、完了しました」
「慶兄……? どうして……ここは……?」
「祐、もう時間がない。よく聞いてくれ」
慶は祐の両肩を掴むと、切羽つまった声で語り始めた。
「死刑を回避する、たった一つの方法がある。それは……『異世界』に行くことだ…」
「は……? 異世界……?」
突拍子もない言葉に、祐は思考が追いつかない。まるで小説かアニメのような単語が、兄の口から飛び出した。
「ふざけてるのかよ、慶兄! もう、いいんだ……」
「ふざけてなどいない!」
慶の怒声が響いた。その必死の形相に、祐は言葉を失う。
隣に立つ初老の男が一歩前に出た。
「初めまして、浦島祐君。私がこの計画の責任者、柳だ。我々は防衛装備庁と共同で、転生装置を極秘裏に開発した。今回の措置は、死刑執行のかわりとなる事実上の刑罰、我々はこれを『超法規的措置、異世界転生の刑』と呼称している。君はその最初の被験体になる」
柳の口調は淡々として、有無を言わせぬ響きがあった。
死刑とは別の形で、この世界から存在を抹消される。祐の脳裏に、その事実だけが突き刺さった。
「この刑には成功の保証はない。一度君の体をエーテル化して転送先で再構成するのだが、人体での成功事例がないのだ。転送先の状態についても我々には情報がない。だが、これを受け入れれば、君の死刑執行は停止される」
「……」
祐はただ、呆然と立ち尽くす。
どちらを選んでも待っているのは、人としての死だ。絶望の色が、再び祐の心を塗りつぶしていく。
慶はそこで一瞬、言葉を詰まらせた。そして、祐の目を見て、最後の切り札を切った。
「俊も……俊も、後から向かうと言ってくれている」
「え……?」
俊。一番下の弟。その名前が出た瞬間、祐の心臓が大きく跳ねた。
「俊が……どういうことだよ!」
「あの子は、お前を助けるためだって、自ら志願したんだ! いつも泣き虫でお前の後ろについて回っていたあの子が、『今度は自分が兄さんを助ける番だ』って言って聞かないんだ! だから、頼む、祐! 俺も必ず、お前の冤罪を証明する証拠を見つけるから!」
兄の悲痛な叫びが、祐の魂を揺さぶった。俊が、俺のために。逮捕される前の日、くだらないことで言い争ったままだったじゃないか。そんな後悔が今更のように胸を刺す。あの優しくて、少し気弱な弟が、俺のために命をかけると言ってくれた。
恐怖は消えない。
だが、それを上回る熱が、体の芯から湧き上がってきた。
俊の覚悟と兄の奔走。二つの事実が凍てついた心臓を無理やり溶かし、激しい脈動を刻み始める。闇を焼き払うほどの熱が、全身を駆け巡った。
弟に会わなければ。兄の想いに応えなければ。
「……分かった。行くよ、慶兄」
「いいか、祐。お前の仕事はただ一つ、『生きること』だ。どんな姿になっても、どんな理不尽な目にあっても、心を折らずに生き続けろ。それがお前の戦いだ。真実を暴き、お前を呼び戻すのは、俺の戦いだ。いいな、これは俺たち兄弟の『約束』だ」
「心配すんなよ、慶兄。俊のことは俺が必ず守る。それに、俺たちの物語はまだ始まったばっかりだろ? 次に会う時は、兄貴が作ったおとぎ話みたいな、すげぇ冒険譚を聞かせてやるよ」
「時間だ」
柳の冷たい一言が響く。
彼は祐を転生装置へと促した。その目が、未知のデータに遭遇する直前の科学者のように、一瞬だけ鋭く輝いたのを、慶は見逃さなかった。
「祐!」
カプセルのハッチが閉まる直前、慶が叫んだ。祐は振り返り、力強く親指を立てて見せる。兄の顔が、涙と安心でぐしゃぐしゃになっているのが見えた。
ハッチが完全に閉まり、世界から音が消える。
次の瞬間、全身を包み込むような浮遊感と共に、祐の意識はまばゆい光の中へと飲み込まれていった。
(待ってろよ、俊……待ってろ、慶兄……!)
たとえこの身がどうなろうと、俺は必ず生き抜いて、お前たちの元へ帰る。
そして、俺たちの物語の続きを――。
それが、ゴブリンとして理不尽な世界に生れ落ちる前の、浦島祐の最後の誓いだった。
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