第十二話:生存のための迂回

 夜明け前の、最も深く冷え込む時間。

 ルーナは、肌を刺すような寒さで目を覚ました。

 だが、凍えてはいなかった。辛うじて、生きていた。


 昨夜、ルーナは半ばパニックになりながらも、生き残るための一手を打っていた。鞄から二人分の麻の着替えを取り出し、それを大きく広げ、空になった麻の鞄そのものと組み合わせる。そうして出来上がった即席の寝袋は、粗末で、気休めにしかならないような代物だった。

 そして、その中にフィナを無理やり引きずり込み、小さな体をぎゅっと抱きしめる。人肌の温もりだけが、この極限状況で唯一頼れる熱源だった。


 もはや、恥ずかしさなど気にしてはいられない。

 これは、生き残るための、最も合理的な選択だ。


 最初は、フィナも珍しく恥ずかしそうに身をよじっていた。自分以外の誰かと、こんなにも密着して眠るのは初めてだったのだろう。だが、彼女はルーナが感じているような、死への恐怖には全く気づいていなかった。やがて、人の温もりが心地よくなったのか、すぐに破滅的な寝息を立て始めた。


 朝日が、東の空を白々と染め始める。その僅かな光が、夜の闇の終わりと、自分たちが生き延びたことを告げていた。

 二人は、こわばった体をゆっくりとほぐしながら、即席の寝袋から這い出した。薄い朝靄が立ち込める山肌は、まるで冬のように冷え切っている。


「…フィナ」

 ルーナは、決意を固めて、隣に立つ少女の名を呼んだ。


「私たち、ここから引き返しましょう」


「えー? なんで? ガイズは、こっちだよ?」

 フィナは、心底不思議そうに聞き返した。


 ルーナは、自分の白くなった息を指差して見せた。

「見て。息が白いわ。昨夜は、もっともっと寒かったでしょう?このまま山を登り続けたら、私たちは夜の間に凍えてしまうかもしれない」


「ふーん。でも、あたしは平気だよ?」

「私は平気じゃないの!」


 思わず声を荒らげたルーナは、はっと口をつぐんだ。違う、感情的になってはだめだ。この子には、論理と、そして彼女が理解できる言葉で説得しなければ。


「それに、お水もないわ。このままでは、飲む水がなくなってしまう。一度、あの川まで下りる必要があるの。お願い、フィナ。あなたの言う通り、ガイズはあっちかもしれない。でも、このままじゃ、ガイズに着く前に、私たちが動けなくなってしまうのよ」


 ルーナの必死の訴えに、フィナは黙って、彼女の顔をじっと見つめていた。その青白い顔、隈のできた目元、わずかに震える唇。フィナは「凍えて死ぬ」という概念は理解できない。けれど、「ルーナが、とても辛そうで、全然楽しそうじゃない」ということは、理解できた。


「…そっかー」

 しばらく考え込んだ後、フィナはぽんと手を叩いた。

「じゃあ、一回川まで戻って、遠回りしてガイズに行こう! うん、そうしよ!」


「え…?」

 そのあまりに軽い承諾に、ルーナは拍子抜けした。


「だって、遠回りしたら、もっとたくさん冒険できるもんね! 遊ぶ時間が増えるってことでしょう? やったあ!」


 フィナは、ルーナの生存を賭けた必死の交渉を、ただの「遊びの延長」として快諾してくれたのだ。

 そのあまりの認識のズレに、ルーナはもはや眩暈を通り越して、ある種の感心すら覚えていた。

 何はともあれ、交渉は成立した。ルーナは、心の底から安堵のため息をつき、今来たばかりの険しい道を、二人でゆっくりと下り始めた。


 下りは、登りとはまた違った過酷さがあった。


 ルーナは、寝不足と空腹で足元がおぼつかず、何度も木の幹に手をつきながら、フラフラと慎重に坂を下っていく。


 一方のフィナは、そんなルーナを全く意に介さず、鼻歌まじりに、ランランと駆け下りていた。まるで重力などないかのように、岩から岩へと軽やかに飛び移り、時折面白い形をした葉っぱを見つけては、ルーナの元までわざわざ戻ってきて見せびらかす。その無限の体力に、ルーナは嫉妬と呆れを感じずにはいられなかった。


 しばらく歩き続けると、さすがに二人とも空腹を覚えてきた。ルーナは、自分の知識を頼りに、食べられそうな木の実がなっている木を見つけ出した。


(この形、この色…故郷の植物図鑑で見たことがあるわ。確か、毒はなかったはず…)


 ルーナは、枝から実を一つだけもぎ取ると、まずその匂いを嗅ぎ、肌に実のかけらを乗せる。次にほんの少しだけ舌先で舐めて、痺れがないことを確認する。そして、ようやく意を決して、おそるおそる一口だけ齧った。酸味と、わずかな甘みが口に広がる。食べられる。そう確信してから、ようやく本格的にその実を食べ始めた。


 その、あまりにも慎重なルーナの様子を、フィナは不思議そうに眺めていたが、やがて興味を失ったように、近くの朽ちかけた倒木へと歩み寄った。そして、何のためらいもなく、その湿った樹皮をぺりっと一枚剥がした。


「あ、いた!これ、美味しいやつだ!」

 樹皮の下には、白くて太った、カブトムシの幼虫のような虫がうごめいていた。フィナはそれを素早い動きでむんずと掴むと、木屑を軽く払うことすらせず、生のまま、ぱくりと口に放り込んだ。


 ぷちゅ、という。

 生々しい音が、静かな森に響いた。


 ルーナは、持っていた木の実を危うく取り落としそうになった。もう、絶叫する気力も残っていない。ただ、深い、深いため息をつくことしかできなかった。

 フィナは、口をもぐもぐさせながら「ルーナも食べる?」と、次の幼虫を差し出してくる。ルーナは、顔面蒼白で、力なく首を横に振った。


 そんな対照的な道中を経て、ついに二人の耳に、大きくなった川のせせらぎが届いた。

 

 二人はどちらからともなく駆け出す。


 一人は、ようやく見つけた生命線へと向かう、生存本能に突き動かされて。

 

 一人は、新しい遊び場を見つけた子供のように、ただ純粋な喜びに満たされて。



 川辺にたどり着いたフィナは、歓声を上げて水の中に飛び込み、顔を洗い、長い髪を水に浸して、心底気持ちよさそうにしている。そして、両手で川の水を掬うと、まるで極上の蜜を味わうかのように、ごくごくと浴びるように飲み始めた。


 その光景を、川で立ち尽くすルーナは呆然と見つめていた。

 彼女の脳裏に、故郷の学校で教えられた公衆衛生学の授業が、警鐘のように鳴り響いていたからだ。

『自然界の水には、目に見えない無数の魔物が潜んでいます。必ず一度煮沸消毒してから飲みなさい。それを怠れば、激しい腹痛や病に襲われ、時には死に至ることもあります』


 あの時の、厳格な教師の顔までありありと思い出せる。

 ルーナは、隣で幸せそうに水を飲むフィナを、羨ましいような、そして信じられないものを見るような目で見つめた。


(なんて無防備なの…!でも、この子はずっとこうして生きてきたのよね…?)


 心の中で、二つの声が激しくせめぎ合う。

 火を起こすか、腹を壊すか。


 理性の声が囁く。

『ここで腹を下したら、終わりよ。薬も、助けてくれる人もいない。危険すぎるわ』


 だが、渇ききった本能が叫んでいた。

『でも、ここは山の上流。汚染されている可能性は低い。大丈夫かもしれないじゃない』


『もし、大丈夫じゃなかったら?』

『もう、喉が限界なのよ…!』


 ごくり、と。ルーナは、渇いた喉を鳴らした。冷たく澄んだ水の流れが、悪魔のように彼女を誘惑する。


 その、最後の理性の砦を打ち砕いたのは、やはりフィナの無邪気な一言だった。


「ルーナ、飲まないの? 喉、乾いてるんじゃない?」


 水しぶきを浴びてきらきらと輝くフィナが、不思議そうにこちらを見ている。

 その瞬間、ルーナの中で何かが決壊した。

 もう、どうでもいい。衛生学も、故郷の常識も。今、この瞬間の、焼けるような渇きに比べれば、未来の腹痛など些細なことに思えた。


 ルーナは、震える手で川の水を掬った。氷のように冷たい水が、手のひらを満たす。彼女は、意を決して、その水を一気に口の中へと流し込んだ。


 その瞬間、衝撃が全身を駆け巡った。


(…おいしい…)


 故郷のバイトでは、水は全て浄化され、魔導管を通って供給される、無味無臭の液体だった。それが当たり前で、水に味があるなどと考えたこともなかった。


 だが、今、ルーナが飲んでいる水は、違った。

 ほのかに甘く、石と土の匂いがして、命そのものが体に染み渡っていくような、力強い味がした。


 ルーナは、夢中で、がぶがぶと水を飲み続けた。

 生まれて初めて、ただの水が、これほどまでに美味しいと感じた。

 それは、彼女が「上級市民」としてのプライドを捨て、この世界の自然を、初めて体で受け入れた瞬間でもあった。

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