第六話:禍々しきトッピング
祖母の衝撃的な告白と、あまりにも無神経な一言。その二つがルーナの頭の中で渦を巻き、思考を麻痺させていた。
フィナのそばにいろ、と老婆は言った。故郷に帰れる、と。それは、この悪夢のような状況における、唯一の蜘蛛の糸かもしれない。だが、その糸をたどるには、目の前の無垢なる怪物を手なずけ、外の世界へと導かねばならない。あまりにも現実離れした、途方もない取引。そもそも、この老婆の言葉を信じていいという保証はどこにあるのだろうか。
張り詰めた沈黙が、重く部屋にのしかかる。ルーナが返すべき言葉を見つけられずにいると、その空気を断ち切るように、台所の方からふわりと香ばしい……いや、何かが燃え尽きる寸前のような、明確に焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「おっと、いけない!」
今まで荘厳な雰囲気すらまとっていた祖母は、途端にただのそそっかしい老婆に戻ると、慌てて暖炉の方へと小走りで向かっていった。重苦しい対話の終わりを告げるその匂いが、今のルーナにとっては皮肉にも天の助けのように感じられた。
入れ替わるように、フィナが「おばあちゃーん、全部できたよー!」と上機嫌な声を上げながら、リビングにやってきた。その両腕には、山のように盛られた、つやつるとした裸のどんぐりを抱えている。先ほどまでの、世界の真理に触れるような会話など、まるで存在しなかったかのような、あまりにも平和な日常の光景だった。
フィナは、呆然と立ち尽くすルーナの前を通り過ぎる時、不思議そうにその顔を覗き込んだ。
「ルーナ!見て見て!全部剥いたよ!爪がちょっと痛いけど、ルーナと一緒にパイを食べるためなら平気!」
その言葉が、ぐさりとルーナの胸に突き刺さる。この少女は、自分のために、友達のために、健気に労働をしていたのだ。その純粋さが、あまりにも眩しくて、そしてあまりにも恐ろしい。ルーナは今、自分がどんな顔をしているのか、自分でも分からなかった。
この少女は、自分の人生を懸けた取引の対象。自分の故郷への唯一の切符。そして、自分をこの地獄に突き落とした、無邪気な誘拐犯。
「ルーナ? どうかしたの?」
フィナはこてんと首を傾げ、悪意なく微笑んだ。そして、空いている方の手で、再びルーナの手を掴んだ。
「ね、一緒にパイ作ろうよ!」
断りたい。けれど、断れない。これが、あの老婆の言う「フィナのそばにいてやる」ことの、第一歩だというのだろうか。ルーナに、拒否権はなかった。
連れていかれた台所は、ルーナが知るそれとは似ても似つかない場所だった。暖炉の前に置かれた、無数の傷がついた分厚い木の板が調理台で、その上には黒ずんだ塩の塊や乾燥させた薬草らしきものが入った壺と、年季の入った釜が置いてあるだけだ。暖炉の脇には、先ほど祖母が慌てて取り出したのであろう、黒い炭の塊と化した円盤が転がっていた。あれが、パイ生地のなれの果てらしい。
「さっきのパイは焦げちゃったから、新しい生地にしようかね」
祖母が差し出した、いびつな円形のパイ生地。ルーナは、故郷の家の、清潔で広々とした台所を思い出していた。東方から取り寄せた様々な香辛料が並び、白銀の調理器具が壁にかけられていた、あの場所を。
「どんぐりは、どうするの? 石で砕いて、粉にして生地に練り込むとか…?」
ルーナは、常識的な調理法を提案してみた。しかし、フィナは心底不思議そうに目を丸くした。
「えー? なんで? このままの方が、ころころしてて美味しいのに!」
食文化の断絶。ルーナは、もはや驚きを通り越して、一種の諦観を覚えていた。
「じゃあ、このどんぐりを、ここに並べていこう!」
フィナに教えられるまま、ルーナはパイ生地の上に、生のどんぐりを一つ、また一つと並べていく。フィナは「こっちは大きいから真ん中!」「あ、この双子ちゃんは隣同士にしてあげようね!」などと、一つ一つのどんぐりに物語を与えながら、実に楽しそうに作業を進めている。その無邪気な横顔を見ていると、ルーナもいつしか、目の前の奇妙な作業に没頭していた。
味付けと称してフィナが上から振りかけたのは、乾燥させた、辛い味がするらしい山菜と、甘い香りを漂わせる木の実の粉末。ルーナは、それが毒草ではないかと内心ひやひやしたが、フィナがあまりにも美味しそうにつまみ食いをするので、おそらく大丈夫なのだろうと判断した。その見た目は、お世辞にも美味しそうとは言えず、むしろ禍々しい何かの儀式の供物のようだった。
やがて、生地の上がどんぐりと山菜で埋め尽くされると、焦げた生地を片付け終えた祖母が、小さな壺を手に取って戻ってきた。
「よし、じゃあ、仕上げのトッピングだよ」
祖母はそう言うと、黒ずんだ壺の中からどろりとした、炭のように黒い液体を木のスプーンで掬い上げた。甘いような、それでいて薬草のような、形容しがたい匂いがふわりと漂う。
「そ、それは何ですか…?」
ルーナが思わず尋ねると、祖母は「ふふ、美味しくなるおまじないさ」と微笑むだけだった。
祖母は、禍々しいパイの上に、その黒い液体を幾何学模様を描くように、ゆっくりと垂らしていく。その模様は、ルーナが知らない古代の文字か、あるいは何かの魔法陣のようにも見えた。
そして、祖母は不気味な模様が描かれたパイを、再び暖炉の炎の中へと、静かに差し込んだ。
じゅう、という音と共に、先ほどとはまた違う、奇妙に甘く、香ばしい匂いが立ち上り始める。
(これを、本当に食べるのか…)
フィナは「わーい!もうすぐ焼ける!」と手を叩いて喜んでいるが、ルーナは新たな絶望に静かに包まれていた。
パイが暖炉の中で焼ける、ぱちぱちという音だけが響く。奇妙に甘い香りが部屋に満ちる中、祖母は静かにフィナに向き直った。その顔から、先ほどの老婆としての顔は消え、厳格な教師のような雰囲気をまとっていた。
「フィナ」
祖母は、孫娘の目をまっすぐに見つめた。
「あんたがさっき使った力…『召喚の魔法』について、話しておくよ」
祖母は、ルーナにした説明よりも遥かに簡略的で、しかし核心を突く言葉で語り始めた。それは、この家に伝わる力の本当の意味。願いは、時に誰かの人生を無理やり捻じ曲げてしまうということ。そして、あんたがここに呼んだルーナという存在は、おもちゃの人形ではなく、血の通った人間なのだと。
フィナは最初、きょとんとしていたが、祖母の真剣な言葉に、次第にその表情から無邪気さが消えていく。
ルーナは、その光景を固唾をのんで見つめていた。老婆の、なんと巧みな話術だろう。単純なフィナの世界でも理解できるよう、言葉を選び、諭すように真実を伝える。その高い説明力に、ルーナは思わず羨望の念を抱いた。
「いいかい、フィナ。友達にはね、友達の家があって、友達の家族がいるんだよ。ルーナにも、帰りを待っている人がいるんだ」
その最後の言葉に、フィナはむっと顔を膨れさせた。しかし、祖母の厳しい視線に何かを悟ったのか、不承不承といった様子で、こくりと頷いた。ルーナを、彼女の家に「送り返す」ということを、しぶしぶ承認したのだ。
祖母は、その様子を見届けると、ルーナの方へ向き直り、その皺だらけの目元をほんの少しだけ緩ませた。そして、ちょうど良い頃合いだと判断したのか、分厚い布で手を覆い、暖炉の中からこんがりと焼けたパイを取り出した。
黒いトッピングは、熱で溶けて艶やかな飴色のソースのように、どんぐりの上に絡みついている。焦げた部分はなく、完璧な焼き加減。そのあまりに美味しそうな見た目に、ルーナの脳は、これが生のどんぐりと山菜で作られた物体であることを忘れ、思わず喉を鳴らしそうになった。
「わーい!焼けた、焼けた!」
フィナはすっかり機嫌を直し、大きなナイフを手に取ると、慣れた手つきでパイを切り分け始めた。一切れは祖母へ。もう一切れは、ルーナへ。そして残りの、最も大きな一切れを、自分の皿へと乗せた。その配分は、祖母が二割、自分が六割、そしてルーナが二割という、あまりにも潔い自己中心的な比率だった。
フィナは、湯気の立つパイを鷲掴みにすると、大きな口で頬張り、「んー、おいしい!」と幸せそうに微笑む。ルーナも、恐る恐る、その一切れを手掴みで口に運んだ。
舌がパイに触れた瞬間、未知の味が口の中に広がった。甘く、香ばしく、そしてほんのりスパイシー。黒いトッピングのソースが、どんぐりの素朴な風味と絶妙に絡み合い、意外なほどに、美味しい。まるで、どこか別の宇宙の料理を食べているかのような、初めての感覚だった。
だが、その感動は長くは続かなかった。
二口、三口と食べ進めるうちに、巧みな調味料の味付けでは隠しきれない、地獄のオーケストラが口の中で始まったのだ。アク抜きという概念が存在しない、どんぐりの舌に残る渋み。時折ガリッと歯に当たる、取り残された硬い殻。そして、いくつかの木の実から放たれる、明らかに腐敗した酸味。それらが渾然一体となり、ルーナの胃をじわじわと蝕んでいく。
なんとか自分の分を完食した頃には、ルーナは吐き気をこらえるのに必死だった。
味に点数を付けるならば、調味料は100点、素材はマイナス100点。
そして、総評0点だろうか。
ふと、顔を上げると、目の前でフィナが、人生で最高の馳走を食べているかのように、心の底から美味しそうに微笑んでいた。その一点の曇りもない幸福な顔を見ていると、ルーナの胸のむかつきが、不思議と少しだけ和らいだ気がした。
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