第3話 心無き正義の剣



魔術国家の国境付近、辺りを山に囲まれた高原地帯にある小さな町・ガリフ。

かつては魔王軍による侵攻を受け壊滅寸前にまで陥っていたこの町にも、今や平穏が訪れていた。交通が多いわけではなく、決して栄えているとは言えないが、人々はつつましくも幸福に過ごしている。さわやかな風が木々を揺らし、色とりどりの花々が咲く花壇のそばでは子供たちが遊び声をあげている。

いつも通りのおだやかな昼下がり。町の中心にある広場で、陽気な青年が声高らかに叫ぶ。

「さ、旅人さん見てくれ! こいつが我が町の一番の名所、勇者様の銅像だ!」

彼の右手が指し示す先には、派手な剣を掲げてにこやかに笑う精悍な少年をかたどった像が日光を浴びてかがやいている。

「おぉっと、皆まで言うな。たしかに、勇者様の像なんてそこら中にある。だけど、ここは一味違う。なんたってこの町には勇者様の伝説がしっかりと残っているんだから」

大げさな身振りで話しつづける町人を尻目に、ヴェントは過去の自分をかたどったとされる像を仰ぎ見て眉間にしわを寄せる。隣に立つ少女は何の感情を示すこともなく棒立ちのままだ。

「あぁ、その……。ありがとう、もう十分だ」

軽く手をあげて制止すると、勇者の伝説を朗々と語りつづけていた陽気な男は怪訝そうに口をとがらせる。

「えぇ? 何すか旦那、こっからがいいところなのに……」

「悪いね。こう見えて、勇者の伝説には詳しくてな。その話も、よぉく知っている」

不満げに口をもごもごとしている男を尻目に、元勇者が、青銅でできた嘘くさい笑顔を浮かべた勇者の像と見つめ合う。

たしかに二十年以上前のあの日、彼はここにいた。

伝説と呼ばれるような物語と事実は違うが、それでもヴェントにとっては懐かしく忘れがたい、忘れてはならない旅の記憶だった。




振り下ろした刃が風を切り、魔物の肉を斬り、命を絶つ。耳障りな断末魔とともに、先ほどまで危険な魔獣だったものはただの屍肉になり下がった。

若き勇者は血に濡れた刃を手にしたまま、周囲の気配に気を配る。魔物の気配がなくなったことを確認すると、柄を握る力をわずかに弱めた。

「ふもとの町で言われた通り、この辺はずいぶんと魔物が多いな」

右手に構えた斧を肩に担ぎ、屈強な戦士は顔にはねた返り血を指で拭う。

彼の言う通り、宿泊していた町を出発してこの街道を歩きはじめて半日しかたっていないというのに、魔物との戦闘はゆうに十回は行われていた。

「お疲れ様です、お二人とも。見事な立ち回りでした」

少し離れた場所から白い装束を着た僧侶がゆっくりと歩いてくる。戦闘後だというのに、後ろに撫でつけられた金髪は全く乱れてさえいない。

「スクルド、回復魔法は必要ですか」

「いや、大丈夫だよマイゼル殿、それよりもう少し戦闘を手伝ってくれるとありがたいんだがな」

 戦士・スクルドがため息まじりにこぼす。

「いやぁ、私は僧侶ですから、戦闘はあなたと勇者様にお任せしますよ」

僧侶マイゼルは微笑みを崩さない。戦士はそれに対し苦笑するばかりだ。

勇者は二人の会話を背に、街道を先へと歩みだそうとする。魔物の駆除は終わり、目的の町はまだ先にあった。

「アノン様、ひとりで先に行っては危険です、戻ってください」

僧侶が声だけでその歩みを制止する。勇者アノンはぴたりと足を止め、声の主のもとへ歩を進めた。

近くまで歩み寄るとマイゼルはアノンに視線を向け、静かに諭す。

「たしかに急ぐ旅ではありますが、返り血くらい拭きませんと。そんなお姿では、助けを求める民に世界を救う勇者と思ってはもらえませんよ」

その言葉の通り、一か月前に旅立った時に着せられた旅用の装束や髪の毛、そして顔面に至るまで、アノンの全身にはおびただしい量の魔物の返り血がべったりとこびりついていた。

手渡された白い布を受け取り。体についた血を拭う。すると、瞬く間に布は赤く染まっていった。

マイゼルは勇者の姿から視線を外すと、気まずそうにたたずむスクルドに向けて微笑みを見せる。

「少し休んだら出発しましょう。そろそろ見えてくるはずです。次の町、ガリフが」


陽が傾きかけたころ、三人はガレフにたどり着いた。

しかし到着した町の中に踏み入れることなく、一行は入口で立ち止まる。その理由は、目の前に広がる景色にあった。

建物の多くは何らかの損壊がみられ、街路も穴だらけ。それらを直そうと懸命に働く人々は皆、傷を負っている。

「魔物の襲撃、でしょうか」

「そうだろうな、ここいらは特に多かった。この様子では宿を借りるどころではなさそうだ」

この町に訪れた理由は、魔王軍の情報を探るべく魔術国ソシエールの中心地に向かうためだった。馬車があれば大きな街道を行くところだが、徒歩となれば各地の町で休息を取りつつ山を越えていくのが合理的であるとマイゼルが判断し、それにアノンとスクルドが従った形になる。

「ひとまず誰かに事情を聞きたいところですね」

町へ入ろうと足を踏み出すマイゼル。

そこに、小さな影が駆け寄った。迫りくる人影はマイゼルに向かい斧を振り上げる。

「山賊め! かくごぉー!」

マイゼルは振るわれた刃をかわし、斧は力なく地面にぶつかった。勇者は素早く襲撃者を組み敷く。

「うわぁ、やめろ! 何すんだよ、離せよ」

苦しげな声をあげるそれは、まだ幼い子供だった。バタバタと暴れるが、鍛え抜かれたアノンとの力の差は歴然で、全く抜け出せそうな気配はない。

「勇者様。離してあげてください」

ぱっと手を離すと、その子供は勢いよく立ち上がり、その反動でふらついたかと思うと慌てて落ちていた斧を手に取った。

「おい、お前ら! 町の皆には手出しさせないからな!」

 斧を持つ手は震えてこそいるが、その視線はまっすぐに目の前に立つアノンたちを見据えている。

「ロック! 何をしてるんだお前!」

少し離れた場所から、ボロボロの服を着た青年が駆け寄ってくる。

「兄ちゃん! こいつら町を覗いてたんだ! みんなが弱ってるところを狙ってきた山賊だよ!」

ロックと呼ばれた少年はアノン一行を指さしながら、顔に傷跡をつけた青年に必死に訴える。対する青年は、片手で頭を押さえながら呆れたようなため息を漏らした。

「ロック、よく見ろ。こんな立派な恰好の山賊がいるか?」

「でも、兄ちゃん……!」

不満を訴える弟を手で制し、青年はマイゼルたちに向き直り頭を下げた。

「申し訳ありません、旅のお方。弟が失礼しました。どうかお許しください」

「いえいえ、気にしていませんよ。山賊かもしれない相手に独りで挑むとは、あなたの弟君は実に勇気のある少年ですね」

朗らかに笑う僧侶に安堵したのか、青年は少し表情をやわらげた。

「おれはバロ、こっちは弟のロックです」

「これはこれはご丁寧に」

互いに微笑みを交わした後、バロの顔が少し曇った。

「せっかく来ていただいたんですが、今この町にはお客人をもてなすだけの余裕はなくて…」

「そのようですね。何があったか、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「でしたら、村の大人たちが集まっている集会所に来てください。そこでお話しします」


町で最も損壊の少ない建物の中で、三人は町長を含む数人の男性と対面した。

「なるほど、数日前に森の中から大量の魔物が現れ町を襲ったと……。それで町があの状況になったわけですね」

マイゼルが情報を整理すると、町長が静かになずいた。

「……その通りです。町人のほとんどが怪我を負い、亡くなった者もおります」

そう話す町長も左手に包帯を巻き、顔色も青白い痛々しい姿だった。

マイゼルが町長に歩み寄り、やさしい手つきで左手をとった。

「失礼ですが、包帯を取ってもよろしいですか」

「かまいませんが……」

包帯を解くと、傷口があらわになる。鋭いもので裂かれた切り傷の周りがただれ、見るも無残なありさまだった。

「これは、毒にやられていますね……。町に現れたのはどんな魔物ですか」

「大きなトカゲのような魔物でした、体の色は青白く、爪や牙も鋭く……」

 傍らの住人が答えると、マイゼルが小さく頷く。

「ポイズンリザードですか。それならば……」

僧侶が手をかざすと、傷口をやわらかな光が包んだ。傷はみるみるふさがり、同時に顔色も良化していく。

「おぉ……!」

「私は僧侶ですから。これくらいはできて当然です」

歓声を上げる人々に対し、涼やかに答える。町長が治ったばかりの手で彼の手を強く握った。

「なんとお礼を申してよいか……」

「いえいえ。当然のことをしたまでです」

深々と下げた頭をあげると、町長は何かに気づいたような表情に変わった。

「そういえば、まだ名前も聞いていませんでしたな。とんだ失礼をいたしまして」

 問われたマイゼルはアノンの傍らへと戻り、室内に響く凛とした声をあげた。

「私はマイゼル。見ての通り僧侶です。彼は戦士スクルド。我々は聖教国サントバルから、こちらの勇者、アノン様とともに魔王を倒すべく旅をしています」  

その言葉を聞き室内の人々がどよめく。やがて、町長がひときわ大きな声をあげた。

「なんと……! ということは、そのお方が聖教国に伝わるとされる『無垢の剣』伝説の勇者様でございますか。まだ幼い子供ではありませんか」

町長の言葉は正しかった。事実、アノンはまだ十五歳の少年である。

困惑した様子でアノンを見つめていた彼に、マイゼルは微笑んだ。

「信じられませんか」

「いえ、そのようなことは……。魔王を打倒してくださるのならば、これほどありがたいことはございません」

恐縮して頭を下げた町長は、暗い表情のままうつむいてしまう。

「しかし、せっかく来ていただいたのに、今の我々にはあなた方をおもてなしする余裕がありません。申し訳ありません」

「何をおっしゃいます。むしろ私たちの方こそ、こんな時に訪ねてしまい申し訳ない。せめて、できる限り街の復興を手伝わせていただきたいと思います」

マイゼルのその言葉に、室内がふたたびどよめいた。町長が顔を上げて僧侶をすがるような眼で見つめる。

「よろしいのですか」

「もちろんです。よろしいですね、二人とも」

 同意を求められた戦士スクルドが頷く。

室内の人々が一斉に歓喜の声をあげた。町長は涙を流しながら、マイゼルの手を握り、何度も頭を下げている。

勇者は一歩離れたところから、その様子を黙したままただ見ていた。


壊れかけた町の医院の寝台に、怪我を負った住人達が寝かされている。そのうちの一人、顔色の悪い老婆の体に、床に膝をついたマイゼルが手をかざすと、淡い光とともに老婆の血色がみるみるよくなっていく。

同時にその様子を周囲で見守っていた医師たちが驚きの声をあげる。

「これで大丈夫でしょう。しばらくはこの薬草を煎じて飲ませてください」

 マイゼルは髪に書かれた薬草のリストを医師の一人に渡す。

「ありがとうございます! これが神聖国の白魔法……。いったいどういった魔法なのでしょうか」

 神を受け取った医師がまっすぐな瞳で問いかける。マイゼルは柔和に微笑んだ。

「人の体内の魔力の流れを正し、回復力を高めるのです。神聖教の僧侶だけに伝わる秘術ですので、残念ながらお教えすることはできませんが」

「なるほど……」

「では、次の方もみましょうか」

柔和な笑顔を崩さないまま立ち上がり、マイゼルは次の患者のもとへと向かった。


町の中心にある広場では、比較的傷が浅かった男たちの手による建物の修繕作業が行われていた。

そこへ、ひとりの屈強な戦士が十本の丸太を担いで現れる。のしのしと歩きながら、スクルドは野太い声をあげる。

「バロ、こいつはここでいいのか?」

「はい、スクルドさん!」

青年がそう答えると、戦士は抱えていた丸太をどん、と地面に置いた。その姿を見た周りの男たちは目を丸くしている。

「スクルドさん、ホントにすごいですね! あの量を一人でなんて……!」

「そうか? まぁ、鍛えているからな」

「すごい……! 俺も鍛えれば、あなたみたいになれるでしょうか」

僧衣って自らを見上げるバロの頭を、ごつごつとした分厚い手が乱暴に撫でる。

「あぁ、きっとなれるさ。いっぱい食って、しっかり寝ればな。そのためにも、とっとと町を元通りにしないとな」

そう笑いかけられた青年の顔からは険しい表情が消えて、年相応の幼さが見えた。

戦士の視線の先に、崩れた建物の残骸が見えた。その中でも特に大きながれきを持ち上げようと、小さな人影がちょこちょこと動き回っている。

「よっと。……これはお前にはちと早いんじゃないか、ロック」

がれきをひょいっと持ち上げ、スクルドは少年に声をかけた。急に目の前のがれきが浮き上がり体勢を崩したロックは、しりもちをついて口をぽかんと開けている。

スクルドは彼に笑いかけると、がれきを放り投げて集積地に捨てた。

そこに、彼の兄であるバロが近づいてくる。

「おい、ロック。何でここにいるんだ? おばさんたちの手伝いをして来いって言っただろ」

兄に見つかったロックは顔に後ろめたさをにじませたが、すぐに口を尖らせた。

「だって裁縫とか洗濯なんて、みみっちくてつまんないんだもん。俺だって男だし、兄ちゃんたちと一緒に物運ぶくらいできる!」

「お前はまだ子供だ。こんなところにいたら危ない、怪我するぞ」

「もう十歳だ! 子供じゃない! 今のだってこのおっさんが持ってかなきゃ運べてたし!」

指さされた戦士は苦笑いを浮かべて頬を掻いた。

「俺もまだ二十二なんだが……」

弟が見せたその態度に、バロはついに声を荒げる。

「いい加減にしろ! そういうわがままなところが子供だって言うんだ! いいから兄ちゃんの言うことを聞け!」

兄の怒声にロックは一瞬怯んだ表情を見せたが、すぐに顔を真っ赤にして、地団駄を踏みはじめた。

「うるさいうるさい! 偉そうにするんじゃねえよ、兄ちゃんのバカ! バカバカバーカ!」

捨て台詞を吐いて走り去る。その後ろ姿に、兄は小さく溜息を吐いた。

「まったく……」

「兄ちゃんってのも、大変だな」

「すいません、お恥ずかしいところを」

スクルドが背中を軽くたたいて励ますと、バロは恥ずかしそうに薄く笑った。


ロックはただがむしゃらに走り、逃げるように路地裏に飛びこんだ。前もろくに見ずに走った結果、目の前の何かにぶちあたり、そして弾き返された。

「いてて。なんだよ! ってあれ、お前さっきの……」

地面にへたり込み見上げると、そこにいたのはアノンだった。

「お前、ここで何してんだよ」

「何も」

倒れたロックに見向きもせず、虚空を見つめたアノンは答える。ロックは自力で立ちあがり、ズボンについた砂を払った。

「何も、って……。お前の仲間はいろいろやってくれてんのに、お前は何もしなくていいのかよ」

横目でにらみつつ問うと、ようやくアノンは視線を向けた。

「何も言われていない。だから、何もしない」

「なんだそりゃ」と呆れながら、ロックの脳裏にはある考えが浮かんだ。

「なぁ、お前さ、ユウシャとかいうすごいやつってホントか?」

兄のバロがそう言っていたことを思い出し、半信半疑のまま問う。アノンが頷くと、ロックは彼の全身を見回した。

「ふーん、そうか。そうなんだ……」

顔立ちからすると兄と同じくらいであろうが、その全身には筋肉がしっかりとついている。その歳で危険な魔物がいるであろう旅路を越えてきたこと。何より、その腰に差した立派な剣が、アノンが只者でないことを幼いロックにも明確に示していた。

「……よし! なぁ、ユウシャ! やることないなら、俺がやること教えてやるよ」

そう言うと、返事も聞かずに駆けだした。

ロックは町の女性が集まり作業をしている建物に向かい、箱いっぱいの野菜を受け取りアノンのもとへ戻った。

「よし、ユウシャ! お前にこれの皮むきを命じる!」

地面に置いた箱を指さし、ロックはふんぞり返る。

「あっ、まずい! 包丁忘れた!」

頭を抱えるロックの視線がぐるぐるとめぐり、ある一点で止まった。

「なぁユウシャ、その剣でやってくれよ」

勇者の剣を指さすと、アノンは無表情のまま首を縦に振った。そして野菜を全て空中に放り投げ、目にもとまらぬ高速で鋭い斬撃を放った。

野菜はすべて、箱の中にキレイに収まった。

「おぉー! ……ってあれ?」

ロックが箱から野菜を取り出すと、それらはすべて皮どころか可食部まで大きく削られて、元の半分ほどの大きさにカットされてしまっていた。

「おいおい、これじゃあ食えるとこが全然ねえじゃん! おばちゃんたちに怒られちまうよ……!」

頭を抱えるロックを、アノンは抜き身の剣を片手に見ていた。その表情は、人形のように動かないままだ。

「んーー、じゃあ次だ!」

ロックは顔を上げ、再び駆け出した。今度は、大量の汚れた衣服を抱えて戻ってくる。

「ユウシャ、次は洗濯だ! とりあえず水でごしごしーって!」

現在ガレフの町では、街の復興作業に追われる男たちの衣服を、町の女性や子供たちが協力して洗っていた。野菜の皮むき同様、これもロックが本来担うべき仕事だ。

ロックは水がたっぷりと入った桶を引きずってきて、アノンの前に置いた。

アノンは汚れた服を水につけ、すさまじい勢いでこすりあわせる。するとその勢いに負けた生地はどんどんと破れ、瞬く間にぼろ雑巾のように成り果ててしまった。

「嘘だろ! 何やってんだお前!」

ロックが絶叫し、慌てて取りあげる。

「言われたことをしたまでだ」

「だからって、こうはならないだろ、普通! お前、何ならできるんだよ!」

淡々とした様子を崩さないアノンに言い返す。返事はなかったが、ロックはそれを気にするだけの余裕すら失っていた。

「あぁ、どうしよう……。兄ちゃんを見返してやろうと思ったのに、このままじゃあ逆に怒られちまうよ……!」

アノンに自分の苦手な仕事をさせ、その手柄だけを横取りしようというロック少年の計画は見事に水泡に帰した。アノンに恨みの視線を送るも、彼はそれを意には介さない。涼やかな無表情のまま、ただ立ち尽くしている。身に纏うのは旅人らしい軽装、そして腰には――

「いや、まてよ……。そうだ、いいこと思いついた!」

ロックの表情がパッと明るくなる。そして、アノンに向けて

「なぁ、ユウシャ。お前にとっておきの仕事を教えてやるよ」


昏い森の小径を、二人の少年が歩いていく。

先頭を歩くのは、取っ手つきの鍋を頭にかぶり、手には体格に釣り合わない大きさの斧を持ったロック。その後ろを追従するのは聖教国からやってきた勇者・アノンである。背中にはロックに渡された籠を背負っている。

「あっ、あった!」

声をあげ、ロックが駆け出す。その先にあったのは、果実のたくさん実った樹木が屹立していた。少年はその根元に立ち、喜びの声をあげる。

「よーっし、これで食料ゲットだ!」

そう言うと、ロックはするすると木を登っていき、果実を次々ともぎ取った。そして、樹下のアノンに向かってそれらを次々と投げ落としていく。

「おい、ユウシャ! しっかり受け止めろよな! 大事な食糧なんだから」

アノンはそれらすべてを、無駄をそぎ落とした最小限の動きで背中の籠に納めていった。

生っていた果実を根こそぎ採り終え、ロックは地上に降りてきた。ユウシャの背にあるかご一杯の果実を見て、満足げにうなずく。

「へへーん、豊作豊作! これは兄ちゃんびっくりするぞ……! 子ども扱いしたことも謝らせてやるぜ」

 アノンから取り上げた籠の中身を物色しながら、陽気な声をあげる。

「父ちゃんも兄ちゃんも森は危険だとか脅かしてくるけど、全然大した事ねえじゃん。これならゴエーなんかいらなかったな」

籠から果実を一つ取り出し思い切りかじりつく。果汁が森の地面を濡らし、甘いにおいが空気中に広がった。

ロックは食べかけの果実を手にしたまま木にもたれかかるように座り、新しい果実を一つ、勇者に投げ渡した。

「ちょっと休憩して町に戻ろうぜ。ユウシャも座れよ」

アノンは果実には口をつけず、その場にすとんと座りこんだ。

「そういえばさ、お前の名前聞いてなかったな。名前、なんつうの?」

「アノン」

端的に答える。聞いた本人であるロックもさほど興味はなかったようで、特に大きな反応はなく相変わらず果物をかじりながら聞いていた。

「歳は?」

「十五」

「十五? 俺と五つしか違わねえじゃん!」

先程と違い、ロックは驚きの表情とともにアノンに向き直った。

そしてふと彼の顔と己の体を見比べ、つぶやくように問いかけた。

「アノン、お前さ、遠くから旅してきてるんだろ? ……家族に会いたくなったりしないの?」

それは、ごく自然に湧いた疑問だった。自分とさほど年の離れていないアノンが親と離れて旅をしているということ自体、小さな町から一度も出ることなく生きてきた少年には理解できないことだった。

「俺には家族はいない」

返ってきたのは、温度のない声。表情も同じく、鉄のように冷たかった。

「そ、そうなのか……」

絶句しかけたロックは、そう返すことしかできない。

しばらく、静寂の時間が流れた。風がわずかに葉を揺らす音だけが聞こえる。

時間は、夕方から夜に近づきはじめていた。

「……俺たちの父ちゃんは木こりだったんだ。三年前に病気で死んじゃったんだけどさ。母ちゃんも俺を産むときに死んじゃってるから、俺の家族は兄ちゃんだけだ」

ぽつりと話し出した。話を聞いていても何も答えないだろうアノンに向けたわけではない。それは誰に聞かせるでもなく、あふれて零れ落ちた言葉でしかない。

少年は父の形見の斧を、じっと見つめていた。

「兄ちゃんは親代わりになって俺を育ててくれてる。歳なんか五つしか違わないのに。だから早く一人前になって兄ちゃんに楽させてえんだ。なのに、バロ兄ちゃんはいつまでも俺をガキ扱いして……」

少年は森にやってきた目的をだんだんと思い出した。彼の感情は、やがて当初の目的に立ち戻る。

「そうだ、兄ちゃんを見返してやるんだった! おい、アノン! 早く町に戻ろうぜ」

目的を思い出したロックはあわただしく出発の準備をはじめた。果実のたっぷり詰まった籠を背負いこもうと体をかがませる。

「おっとと……」

籠の重みで少年は体勢を崩してしまう。

瞬間、ロックの頭上に一陣の風が抜けた。その直後、背後の大樹がめきめきと音を立てて倒れる。

突然の出来事に、少年の意識は完全に停止する。何が起きたのかを理解することを放棄し、体は硬直したまま動けなくなる。

視界の端に映る、大人の身の丈ほどもある巨大な青白いトカゲ。その長い尾の一振りが大樹の幹をへし折ったと理解したのは数秒後、勇者の剣が魔物の首を断ち切った後だった。

「こ、こいつ……。これが、町を襲った……」

ガレフの町が魔物に襲われた際、ロックは兄のバロによっていち早く避難させられていた。ゆえに、その姿を見るのははじめてだった。それどころか、魔物という存在を実際に見たこと自体、彼の人生で初めてだった。

首から鮮血を噴き出しぴくぴくと体を震わせるポイズンリザードを前に、ロックの躰は竦みあがった。

一方の勇者アノンは、すでに次の行動を開始していた。大きく跳び上がると、森の木々の奥から顔をのぞかせようとした別の魔物の頭部に深々と刃を振り下ろした。

魔物が金切り声を発しながら倒れる。その奇声によって、図らずもロックの意識は現実に引き戻される。

ようやく周囲を見渡すと、ポイズンリザードの群れが周囲を取り囲んでいる。果実の甘い匂いに誘われたのか、あるいは人間の匂いが彼らを呼びこんだのか、よだれを垂らした魔物たちの眼はらんらんと輝いている。

「お、俺も戦わなきゃ……!」

慌てて斧を手に取ろうとするも、腕に力が入らない。足も震えだし、少年はただ地面にうずくまることしかできなかった。

その背に、魔物の毒牙が襲い来る。脳裏に思い出などがよぎる暇すらなく、死は一瞬で少年の体に迫った。ロックは目を閉じ、死を覚悟する。

その時、眩い光が森の闇を切り裂いた。勇者の聖剣が放つ光が、少年に迫る毒牙ごと魔物を包み、一瞬にして魔物は塵と化す。

それでもなおうずくまったままの少年の傍らに立ち、勇者は相変わらずの冷淡な声を嘆かける。

「邪魔だ。どこかに隠れていろ」

そう一言だけ言うと、一瞥することすらなく魔物との戦闘に戻っていく。

彼の言葉に従い、震える体を何とか動かして這うようにして木の陰に隠れた。心臓がつぶれそうなほど鼓動が早くなった胸を押さえながら、息をひそめる。

魔物の群れは続々とやってくる。アノンはその悉くを、ほとんど一撃で葬っていく。

一匹の魔物が口から緑がかった色の粘液を吐き出す。勇者は剣を持ったまま右手を前に突き出し、くるりと手首を一回転させ毒液を弾いた。飛び散った液体が、地面を溶かす。

そのままの勢いで剣を振るう。閃光がポイズンリザードを貫き、死骸に変える。

次々と現れる魔物たちの数を上回る勢いでアノンは彼らを斬り伏せていく。獣のように素早く動き回り、それでいて剣筋はよどみなく正確に急所を捉えていた。

「すげえ、これがユウシャ……」

その様子を陰から覗き見ていたロックが息を漏らす。積み上げられた魔物の死骸の中で勇者は息を乱すこともなく淡々と戦い続けた。

「すごい……! このままいけば……ん?」

ふと、一体の死骸がかすかに動いたように見えた。しかしもう一度見てみても、息を吹き返した様子などもなく力なく横たわったまま変わらない。

勇者の激しい戦闘によりあたりに砂塵が舞う。その砂塵が晴れた時には、その亡骸は忽然と姿を消していた。

「なんだ、今の――!?」

思わず身を乗り出してしまう。その時、強い力に引っ張られ、ロックのきゃしゃな体が宙を舞った。

強い力に引きずられ、何度も体を地面にたたきつけられる。息すらままならない苦痛の中、何とか木の根っこに縋りついて体を固定する。

右足に強い違和感を覚え視線を向けてみると、太い蔦が巻き付いていた。必死に状況を整理しようとロックは視線を巡らせる。

長い蔦の根元を目で追うと、牙の生えた口にも見える極彩色の花を咲かせた奇妙な植物だった。

そこから伸びるたくさんの蔦が、魔物たちの亡骸を掴んで花に向けてずるずると運んでいく。

ロックは知る由もなかったが、その植物もまた魔物の一種であった。クイーンプラントと呼ばれるその魔物がこの森に根差したことにより居場所を追われつつあったポイズンリザードたちが人々の暮らす町にまで出て行ってしまったことが、今回の悲劇につながってしまったのだった。

「なんだこいつ、全然離れねえっ!」

必死に身をよじるも、蔦の拘束はまるで解けそうもない。それどころか強く圧迫された右足の感覚が徐々に失われていく。

蔦に絡まれた魔物の死骸がクイーンプラントの近くにまで来ると、口のような花弁が開く。つんとした酸のような臭いがあたりに漂った。

花弁を開き、肉食獣が獲物を捕食するように魔獣を飲みこむ。すぐにはきだされたそれは、生気を吸い取られたのかしなびた干物と化していた。

自分がどうあがいても倒すことのできない魔物がいともたやすく捕食されたのを目の当たりにしたロックは蔦に足をからめとられた自分の末路を理解した。

こらえようのない恐怖の感情が、その心を支配する。同時に体の力が抜けてしまい、その手が木の根を離れた。

どこまでも現実感のある死が間近に迫り、もはや叫び声すら上げられない。息が詰まり、呼吸すらもままならない極限の中に彼はあった。

小さな体が地面を引きずられ、クイーンプラントの口がどんどんと迫る。必死に地面を掻きむしる少年の爪ははがれ、赤黒い血がとめどなくあふれる。

「誰か……! 助け……!」

その声にならない叫びは、森の闇にかき消されるほどか細い。

それでも、彼の近くには勇者がいた。弱者の声にこたえることのみを命題として形作られた、聖剣の担い手。そのためならば方法を選ばない、いや、選べない冷徹な正義が。

アノンは音もなく、まさに陣風のごとき速さでロックのもとに現れ、そして一切の躊躇なくその刃は振るわれた。

月光にきらめいた白刃は、少年を苦痛から解放する。

その膝から下の血肉もろとも。

一瞬、何も感じなかった。

直後、どちゃっと生々しい音が聞こえた。視界の端に斬り落とされた自分の脚が見えた瞬間、激しい痛みとともに叫び声が噴き出す。恐怖と混乱の入り混じった悲鳴の中、勇者は氷の表情を崩さず剣を構えた。

激しい光が刃に集まり、一閃の斬撃とともに放たれる。町を滅ぼしかけた原因でもある巨大植物が、勇者の極光によりあっけなく消し去られた。

その瞬間を、その場に居合わせていながらロックは見てはいない。

彼の身に起きた喪失は、その意識をも彼方に消し去ってしまっていた。

勇者は気絶した少年をちらりと見てから、周囲に魔物の残党がいないか注意深く警戒する。その手に握られた剣はなおも淡い光を湛えたままだ。

背後で草葉の揺れる音が聞こえ、アノンは素早く振り返る。刃を構え、すぐに切りかかれるよう腰を落とす。

茂みの奥から、小柄な人影が躍り出た。

「ロック! おいロック! どうしちまったんだよ! なんでそんなことになっちまったんだ!」

茂みの向こうから現れたバロは、アノンには目もくれず弟に駆け寄った。すがりついて大粒の涙を流しながら、何度も弟の名前を叫んでいる。

「バロさん、一人で行動してはいけませんよ」

彼の背後から、白い僧衣がゆらりと現れる。さらにその後ろに付き従うのは厳めしい面持ちのスクルド。

マイゼルは勇者と一瞬だけ視線を交わしてから、ロックのもとに向かう。

「これはいけません、早く治療を」

地面に膝をつき、険しい表情のマイゼル。その言葉にバロは激しく取り乱し、弟の小さな体を抱きかかえた。

「バロ、少し離れていろ」

スクルドがバロを引きはがす。抱えられた青年は、力なくうなだれてしまう。その視線は虚空を見つめていた。

マイゼルが切断面に手をかざす。淡い光が放たれ、少しずつ傷口が塞がれ、出血が収まっていく。マイゼルの額には玉の汗が浮かび、荒い息が口から洩れる。

やがて、切断面は皮膚で覆われ、綺麗にふさがった。

しかし、失われた少年の膝から下の血肉は蘇ることはなかった。

「これでひとまず命はつながりましたが……。私にはこれが限界です、申し訳ない」

苦悶の表情で頭を下げる僧侶に、青年は絶句する。その言葉の意味を理解した時、バロは地面に膝をつき大声で泣いた。こぼれる涙は土を濡らし、絶叫が森にこだまする。

積み重なる魔物の死骸に囲まれて、その叫びをアノンは聞いていた。その無垢の瞳は慟哭する青年の姿をただじっと見据えている。

町にバロとロックを送り届け、住人たちに事の顛末を話すと、町を襲った魔物とその発生原因が取り除かれたことを知った彼らは涙を流し喜んでいた。唯一、気絶した弟を背負い、震えた足で家へと帰っていったバロだけは、最後まで暗い表情のままだった。

時間はもう深夜に近い。町長に寝床としてあてがわれた部屋で、マイゼルは静かに語った。

「町の復興の目処もたちそうですし、これで一件落着でしょう」

そうにこやかに告げた後、鋭い視線をアノンに投げかける。

「ですが、勇者様。今日のようにひとりで勝手に動くのはおやめください。御身が魔物に負けることなどありえませんが、何があるかわからないのですから」

「わかった」

マイゼルは返事を聞くと満足げに頷き、元の柔和な表情に戻った。

「それでは、寝ましょうか。明日にはこの町を出て、次の町へ向かわなければいけません」

彼らが寝床に向かおうと動き出したその時、ソレまで険しい表情のまま黙っていたスクルドが口を開いた。

「ロックの脚、あの切り口は鋭利な刃物のようだった。魔物によるものとは考えにくい」

マイゼルが顔をしかめる。アノンは眉一つ動かさず黙っている。

「アノン、なぜロックの脚は失われた?」

ロックの脚について、アノンは彼等には何も話していなかった。理由は一つ。「聞かれなかったから」だ。そして、聞かれれば答えない理由もアノンにはなかった。

「俺が斬った」

一瞬の静寂。戦士は改めて確かめるかのようにもう一度問いかける。

「何?」

「脚は俺が斬った。魔物との戦闘の邪魔だったから」

瞬間、スクルドはアノンの胸ぐらをつかみ上げた。戦士の太い腕により壁際に勢いよく押さえつけられ、部屋中に大きな音が響く。

「お前、何を言ってるかわかってるのか!」

締め上げられてもなお、アノンの表情は変わらない。声色も同じまま、冷たい声が問う。

「なぜ怒る? 脚はなくなったが命が失われたわけじゃない。お前が怒る必要はないはずだ」

その言葉には、本心からの疑問があった。純粋に、なぜスクルドが怒りを露にしているのかが全く理解できていない様子だった。

「アノン、お前――!」

「やめなさい、スクルド」

スクルドが振り上げた拳を、マイゼルが言葉で制止した。静かではあったが、低く、重い声だった。その迫力に、思わずスクルドも動きを止める。

「しかし、マイゼル――」

「あなたは今何をしようとしたかお分かりですか、スクルド」

さらに遮ったその声はひどく機械的なものだった。

「勇者様は我が国の威信をかけて魔王討伐へと挑むお方。つまりは神聖国そのものに等しい。もし勇者様に手をあげれば、あなたは神聖国の敵です。あなたの故郷もろともにね」

冷徹な眼差しをスクルドに向ける。その言葉に偽りはないと、一瞬で理解できた。

スクルドはしぶしぶ拳を下ろし、そして「少し出てくる」と言い残して部屋を出た。

マイゼルはアノンの肩にそっと手を置き、そっとささやいた。

「大丈夫ですよ、勇者様。あなたは正しい。あなたが間違うはずはない。あなたはそのままでいいんですよ……」

何度もささやかれる言葉にも、色はなかった。


やがて、カビの匂いのするベッドに潜りながら、アノンは考えた。バロの涙の、スクルドの怒りの、ロックの叫びの理由を。

アノンは「困っている人々の願いは聞くように」と教えられてきた。

それゆえにロックに頼まれたことはすべて実行し、「食料調達のために森に行くから護衛としてかわりに魔物と戦ってほしい」という願いも聞き届けた。「魔物と戦うこと」が願いなのだから、それ以外のすべてよりも魔物との戦闘が重視されるのは正しいはずだ。

「より多くの人間が助かる道を選べ」とも教育されてきた。クイーンプラントは一度逃がしてしまうと十年以上潜伏してしまう恐れがある。ロックの治療よりも、魔物討伐を優先したことに問題はないはずだ。

ロックの足を切り落とすのが、最も早く、効率的に事態を収束する手段だった。

ならばなぜ、彼らは泣いたのか。怒ったのか。その答えを、その頃のアノンは持ち合わせてはいなかった。


翌日、町を出るアノンたちを見送るために町民たちが町の広場に集まっていた。

「この度は何とお礼を言えばよいか……」

町長が深々と頭を下げる。マイゼルはそれににこやかに応じた。

その隣で、スクルドが群集を見渡して尋ねた。

「バロたちは、来ていないのか」

「はい……。やはり足のことがショックだったようで、ロックは部屋でふさぎこんでます。バロも、一緒にいてあげたいと……」

「そうか……」

近くにいた年配の女性が答えたのを聞いて、スクルドは眉間に深いしわを作った。

「ロックも、可哀想にねぇ。勝手に森に行ったのはよくないにしろ、勇者様と魔物の戦いに巻き込まれちまうなんて……。それであの怪我、まだ子供だってのに気の毒だわ」

どうやら、彼ら兄弟はその怪我の詳細までは町民たちに語ってはいないらしい。魔物討伐に湧く人々への配慮だろう。幼い身空で殊勝なものだ、とスクルドは胸を痛めた。

「すまないな……」

 スクルドは思わず頭を下げていた。すると、住人たちは慌ててしまう。

「そんな、スクルド様謝らないでください! 我らは村を救ってもらえただけで十分なのです。あの子のことも村の大人がみんなで支えますから……!」

勇者アノンはその様子を無言で見つめている。

「では、そろそろ出発しましょう」

そうマイゼルが切り出すと、町長が少し表情を曇らせた。

「もう行かれてしまうのですか。せめて少しでもご恩返しができればと思い、皆で宴の用意をしようかとお話あっていたのですが……」

「ありがたいお話ですが……」

「必要ない。無駄だ」

町長の誘いを丁寧に断ろうとしていたマイゼルにかぶせるように、アノンが言い放った。

町人たちが呆気に取られて静まり返る中、若き勇者はひとりで歩きだしてしまう。その身にあるのは魔王討伐という使命だけ。それ以外のすべては無駄でしかない。己の信じる正しさに突き動かされ、アノンは町に背を向け旅路を急いだ。




今の自分ともかつての自分とも似ても似つかない銅像の前で、ヴェントは当時の己の有様を思い返し、苦笑した。

「旅人さん、ホントに勇者様の話聞かなくていいんですか? この町、他に名物とか何にもないんですよ?」

目の前に立つ二十歳ほどに見える男は、話を途中で遮られ不満げな表情を隠さない。

「大した名物なんかなくたって別にいいんだよ。それより、兄ちゃんのおすすめの旨いものとかないのか? 俺ぁそういうもんの方が興味あるね」

その言葉に、青年の顔がパッと明るくなった。

「それなら、いいところがありますよ! この町の新たな名物……になると言われて早十年の、隠れた名店が!」

先程までが嘘のようにはきはきと喋る青年に案内されたのはこじんまりとした店だった。築年数はそれなりに経っていそうだが小奇麗な外観に、店先には小さな花が飾られている。明るい印象の、親しみの持てる雰囲気が感じられた。

「ほう、なかなかいい店じゃないか。……この甘い匂いは、パンか?」

ヴェントが鼻をひくつかせると、傍らのルチアも周囲の匂いを嗅ぎだす。その様子を見て男はほほえましげに笑った。

「実はこの店ですねぇ……」

「あら、お帰りなさい、あなた!」

店の戸を開け、中から一人の女性が現れる。快活そうな女性は案内してきた男に笑いかけ、次いでヴェントとルチアの顔を見ると目を輝かせた。

「あら、お客さん連れてきてくれたの? やるじゃない!」

そう言うと、女性は男の背中を叩いた。バシッという音が響き、男は大きく咳きこむ。

「……とまぁ、ボクの妻の店なんです。でも、本当に味は保証しますよ!」

二人のやりとりに、ヴェントは思わず吹き出す。

「なるほど、そういうわけか」

「ささ、中へどうぞ! とびきりの逸品をごちそうしますよ!」

店内に入ると、女性は陽気に鼻歌を歌いながら厨房で料理を開始した。彼女の夫はヴェントたちを席に案内すると、紅茶を三人分運んできて、自分も同じテーブルに座った。

「さぁ、お茶をどうぞ。待ってる間、勇者様の伝説の続きを……」

「それはもういいっての」

またも制止され落ち込む男を尻目に、ヴェントは隣に座るルチアにささやいた。

「おい、飲んでいいからな」

言われた途端にカップに手を伸ばし一気に口に運ぼうとするのを、慌ててとどめた。

「馬鹿、お前そんな一気に飲んだらやけどするだろうが! ……こうやって、少しずつ飲むんだよ」

ヴェントが正しい所作を実演してみせる。すると、男は目を丸くして意外そうに言った。

「旅人さん、顔に似合わずお上品ですねぇ。まるで貴族みたい」

何とも間抜けな様子で失礼なことを言ってのける男に呆れていると、ふわっと甘い香りが鼻腔をくすぐった。

厨房から、女店主がやってくる。

「はい、お待ちどお様! うちの名物、近くの森で採れた果実のタルトよ!」

テーブルの上に置かれたのは、サクサクと香ばしそうな生地に鮮やかな果実があしらわれた、目にも美しい一品だった。

そのどこか懐かしい香りに、ヴェントは思わず微笑んだ。

「こりゃあ、たしかに美味そうだ」

一口食べてみると、果実の甘酸っぱさが口の中に広がる。今まで各地を旅して様々なものを食べてきたヴェントをもうならせるさわやかな味わいだ。

「うん、美味い」

その言葉に、作り手以上に喜んだのはその夫である。満面の笑みを浮かべ、興奮気味に声をあげる。

「そうでしょう? これは元々彼女の叔父が考案したものでしてね。叔父さんの自信作で、いつも口癖のように『いつか勇者様に食べてもらいたい』って……」

「また勇者かよ……」

すると、傍らに立つ彼の妻は申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ごめんなさいね、彼、うちの叔父と仲が良くて。昔からしょっちゅう勇者様の話を聞いているうちに本人も勇者様の伝説にはまっちゃったみたいで」

「彼女の叔父は凄いんですよ! 魔物に食べられそうになったところを、勇者様に救われたんですから! まぁ、その時脚を怪我してずいぶんと苦労もしたそうですが……」

男の言葉に、ヴェントの胸がざわめく。なるべく平静を装い、何でもないように見せながら尋ねた。

「脚を?」

「はい。それで家業の木こりを継げず、料理をはじめたんです。彼女は二代目ですね」

ざわめきは徐々に大きくなる。唾をごくりと飲み、重ねて尋ねた。フォークを動かす手は完全に止まっていた。

「脚の怪我ってのはどういうもんだったんだ」

「実はですね、そのぉ……」

男は言いにくそうにもじもじしてから、妻に目をやった。彼女は静かにうなずく。

「魔物に掴まれた脚を、勇者様に魔物ごと斬られちゃったそうなんです。これ、絶対他の人には内緒ですよ」

大げさな身振りをしながら話す男は、言葉に反してどこかうれしそうな表情に見えた。元来おしゃべりな性質のようだし、本当は話したくて仕方がなかったのだろう。

ヴェントは、己の内を掻きむしるような感覚の正体に思い至った。

それは、不安だった。そしてその不安はたった今確信へと変わった。

彼らの言う叔父とは、かつて勇者アノンが出会い、そしてその脚を斬り落とした少年、ロックだったのだ。彼は脚を失い、家の仕事すら継ぐことが叶わなくなった。それによってどんな苦労に見舞われてきたのか、かつての自分では見当すらつかなかったことが、今になってよくわかる。わかってしまう。

「そりゃ、きっと勇者を憎んだことだろうな」

口の中が乾き、か細い声を絞り出すのが精いっぱいだった。静寂にかき消されそうな声にこたえたのは、ロックの姪である女店主である。

「……最初はいろいろ思うところがあったんでしょうけどね。最終的にはそんなに恨んでいるわけでもなかったんですよ」

その場の全員が静かに語る声に耳を傾ける。卓上の紅茶もすでに湯気を放つことさえなかった。

「ある時、旅の人に教えてもらったんですって。叔父が出くわした魔物っていうのがね、獲物を麻痺させる毒を持っていて、その毒が全身に回ったら一生寝たきりになるかもしれなかったらしいの。勇者様はそれを知っていて、仕方なく脚を斬ったんじゃないかって」

たしかにクイーンプラントは麻痺性の毒を有している。それは、勇者アノンも知っていた。だがしかし、彼女の話には一点、決定的に間違っている部分があった。

『仕方なく』などではなかったのだ。当時の自分は、当然の摂理として、あの斬撃を放っていた。そこには葛藤もためらいもなく、何よりロックへの気遣いなどは微塵もなかった。彼がその後どうなるかなど考えもせず、ただ『勇者』に与えられた務めを果たすため。あの刃は、ただそのためだけに振るわれたのだ。

「叔父は、ずっと後悔していたんです。脚を失ったショックのせいもあって勇者様にお礼どころか、お別れさえ言えなかったって。だからせめて次に来てくれた時にはおいしいものを食べてもらいたくて、勇者様との思い出の果実を使ったタルトを作ったんです」

それを聞いた瞬間、先ほど感じた懐かしさの正体に気づいた。それはあの日、森の夕闇の中で嗅いだあの果実と同じ甘い匂い。

そしてあの時、勇者は果実を口にはしなかった。そう命じられなかったからだ。

「こんな味だったんだな……」

呟きは、誰にも聞こえないほど小さなものだった。

ヴェントはタルトをひとかけ口に運ぶと、ゆっくりと味わいながら咀嚼していく。

「叔父さんは、今どうしているんだ?」

最後の一口を残した段階で、ヴェントは女主人の眼をまっすぐに見ながら問いかけた。その答えをほぼ確信しておきながら、それを顔に出さないように努めつつ、声色にも細心の注意を払った。

「……叔父は、二年前に流行り病で亡くなりました」

困ったように薄く笑う彼女の声はか細かった。

それを聞いて、ヴェントは最後の一口を口に運ぶ。

確信が現実に変わった。ただそれだけのことだ。ロックは、もうここにはいなかった。

もとより、彼がここにいたとしても交わす言葉などは無い。自分がアノンであると明かすことなどできるわけもないし、そのつもりもない。

そもそも、彼が抱いていた後悔などという感情は本来必要のないものだ。勇者はロックを救ってなどいないし、別れの言葉がなかったことに何かを感じるような機微は、勇者には備わっていなかったのだから。

「……美味かった」

最後の一口を飲みこんで、静かにそうつぶやいた。それを聞いて、若い夫婦は嬉しそうに笑っている。

「いつか、勇者にも食べてもらえるといいな」

無意味だと分かっていても、口にせずにはいられなかった。

気休めを言っても、ここにいない彼に報いることなどできようもない。それどころか、今もなお彼らを偽り続けている自分には、気休めを言う資格すらないことくらい、ヴェントにはわかっていた。

それでも、言わずにはいられなかったのだ。公開を抱えながら生き続ける苦しさを、ヴェントはよく知っているのだから。

「ええ、いつか食べてもらいます。今よりもっと美味しくして」

笑う彼女の目元は、バロやロックによく似て見えた。

「さて、それじゃあお茶のおかわりでも……おや?」

男が立ち上がろうとして、ルチアの目の前に置かれた皿に目をやった。一切手を付けることなく出された時と全く同じ状態のままで置かれているのを見て作った女主人は顔を曇らせる。

「あら、もしかして苦手だった? ごめんなさい、すぐ下げるわね」

「いやいやいや、待ってくれ。こいつはちょっと緊張しいなだけなんだ。ほら、ルチア。食べてみろっって。うんまいぞ?」

ヴェントが慌てて声を発すると、少女は即座に手を伸ばした。小さな口いっぱいにほおばると、素早く手を動かしどんどんと食べ進めていく。

「まぁ、すごい勢い」

「お嬢ちゃんも気に入ってくれたみたいだね」

表情を和らげる夫婦の姿に、ヴェントも胸をなでおろす。

早々に食べ終えたルチアとともに食後のお茶を飲み終え、ヴェントは席を立った。

「随分長居して悪かったな。ごちそうさま」

金貨を一枚手渡すと、男は慌てて首を振る。

「こ、こんなにはもらえませんよぉ!」

「いいから貰っとけって。子供が生まれたら、なあにかと入用になるんだから」

その言葉に、目を丸くしたのは妻の方だった。

「気づいてらしたの」

「まぁな。旦那の分の紅茶もあったのに、あんたは一口も飲んでなかったし。そうじゃないかなと思っただけさ」

ヴェントの言葉に、男はほう、と息を吐いて感心した様子を見せる。

「なるほどぉ」

「というわけで、祝いも兼ねてだ、な?」

「そういうことなら、ありがたく頂戴いたします」

男が大げさなくらい深々と頭を下げる。女主人も、苦笑しながら軽く頭を下げる。

「そんじゃあ、そろそろ行くぞ、ルチア」

声をかけるとルチアは立ち上がる。しかし、ヴェントが出口に向かっても動こうとせず、その場に立ったままだった。

「おい何してんだ、行くぞ」

再度声をかけても、彼女は動こうとしない。その眼は厨房の方をじっと見つめており、表情が変わらないせいでその行動の意味はさっぱり分からない。

「もしかして、もうちょっと食べたいの?」

女主人がそう問いかけると、少女はわずかに首を動かしてそちらに視線を向けた。

「まだあるから持ってくるわね!」

慌てて厨房に戻っていった彼女を、ルチアは黙って見つめ続けた。

「マジで食べたりなかったのか?」

ヴェントの問いに少女は答えなかった。

やがて店主が持ってきたおかわりの皿に、ルチアは黙ったまま視線をじっと向けつづける。答える言葉の代わりには十分すぎるものだった。

「……わかったよ。食べていいぞ」

その瞬間、暗殺者の腕は音もなく、目にも止まらぬ速さで皿に伸びていった。


結局、ルチアは追加で三切れのタルトを平らげた。

追加の代金は固辞されてしまったため、ヴェントたちはそのまま店を後にした。

かつて泊まったあばら家とは比べられないほど整備された宿屋の客室の窓から穏やかな夕焼けの町を見下ろしていたヴェントは、ベッドに腰かけるルチアに視線を向ける。

あの時、ルチアははじめてヴェントの言葉を無視した。本人に自覚は無かろうが、それは意志の発露に他ならない。

彼女には、何かをしたいという欲求が残されているのかもしれない。

暗殺組織の手足であり殺しの道具でしかないと本人さえ思っているはずだが、決してそれだけではない部分がルチアにはまだ残っている。

『勇者』とは違うのかもしれない。

いつぞや誰かに『人間見習い』と呼ばれた心無き人形とは。

ただの旅人は再び窓の外を見やる。

小さな兄弟が手をつないで家路を急いでいた。にやけ面の勇者像を横切り、駆けていく。ヴェントは彼らの姿とともに、舌に残るさわやかな甘さを、脳裏に刻んだ。

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