第六話 重装の試練<グラビトンボア>
森の奥深くで疾風兎レピッドハウンドを葬り去ってから三日が過ぎた。正嗣は岩場に腰を下ろし、無表情で自分の手を見つめていた。レピッドハウンドから得た俊敏性は確かに身についている。しかし、その力を得る過程で何かが変わったような気もしていた。
ただ、それが何なのかは分からない。
正嗣は立ち上がった。休息はもう十分だった。次の守護者の在り処を探さなければならない。
南東へ向かう道のりは険しく、普通の人間なら半日はかかる距離だった。しかし正嗣の足取りは一定のリズムを刻み、一度も立ち止まることなく目的地へと向かった。疾風兎から得た俊敏性が、彼の動きを人間の限界を超えたものに変えていた。
岩だらけの斜面を登り、深い渓谷を跳び越え、密生した茂みを掻き分けて進む。ミストラルから得た隠密能力により、足音は完全に消されていた。野生動物たちは正嗣の存在に気づくことなく、平然と活動を続けている。
峡谷に到達したのは夕刻だった。切り立った岩壁に囲まれた窪地は、まるで巨人が地面を握り潰したかのような形をしていた。谷底には大小の岩が転がり、ところどころに奇妙な穴が空いていた。しかし、ただの穴ではない。その縁は溶けたように歪んでおり、まるで強大な力で地面が抉り取られたかのような痕跡を残していた。
正嗣は岩壁の縁から谷底を見下ろした。スパイラヴォームから得た空間把握の能力を使い、周囲の地形を詳細に分析する。穴の配置、岩の位置、風の流れ、そして地中に潜む異質な存在の気配——全てが頭の中で立体的な地図として組み上がっていく。
異常な重力場が谷底を覆っていた。まるで重力そのものが歪められているかのように、小石が宙に浮かんでは落ち、また浮かび上がる。自然現象ではない。強大な魔力的事象が空間を支配していた。
ここに守護者がいる。そんな確信があった。それも、これまでとは格が違う存在が。
正嗣は崖から飛び降りた。しかし、空間認識能力で計算した着地点に降り立った瞬間、異変が起こった。重力が突然三倍になったのだ。
正嗣の体が地面に叩きつけられそうになる。しかし、ヴァルグレイヴから得た重力操作能力で即座に対処した。自分の周囲の重力を操作し、異常な重力場を相殺する。
「重力操作能力を持つ魔物がいる」
正嗣は淡々と状況を分析した。これまでの守護者とは明らかに次元が違う。
瞬間、大地が震えた。
地中から響く重い唸り声。しかし、それは単純な獣の声ではなかった。空間そのものを震わせる、魔力に満ちた咆哮だった。正嗣の足元の岩が微かに揺れ、周囲の重力場がさらに乱れる。
正嗣は剣を抜いた。刀身が夕日を反射してオレンジ色に輝く。表情は平坦で、特別な緊張も興奮も見せなかったが、握る手の力は自然と強くなっていた。
突然、正嗣の立っていた場所から二十メートル離れた地面が爆発した。しかし、普通の爆発ではない。地面が内側から膨張するように弾け、巨大な穴が現れた。土煙の中から、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。
重装猪グラビトンボア。
全身を漆黒の外殻に覆われた猪型の魔物だった。体長は四メートルを超え、背中に生えた棘は槍の穂先のように鋭く光っていた。しかし、最も異様だったのは、その存在そのものが周囲の空間を歪めていることだった。魔物の周囲では重力が乱れ、空気が揺らめき、現実そのものが不安定になっている。
小さな赤い目が正嗣を捉えた時、正嗣は背筋に冷たいものを感じた。これまでの守護者が持っていた殺意とは質が違う。これは純粋な破壊への意志だった。あらゆるものを無に還そうとする、原始的で圧倒的な力。
正嗣は魔物を見つめた。特に驚きはしなかったが、これまでとは明らかに格が違うことを理解していた。
グラビトンボアは唸り声ひとつ上げることなく、再び地中に潜った。しかし、その潜行は普通のものではなかった。地面に触れた瞬間、土と岩が液体のように溶け、魔物の巨体を飲み込んでいく。まるで空間そのものを操作して地中に溶け込んでいるかのようだった。
地面の下を移動する際も、その軌跡は一定ではなかった。重力を操作して三次元的に移動し、時には天井に向かって移動し、時には横方向に滑るように進む。正嗣の空間把握能力を持ってしても、完全に追跡するのは困難だった。
地面の振動を感じ取りながら、正嗣は次の攻撃位置を予測しようとした。しかし、移動パターンには法則性がない。重力操作によって、常識的な物理法則を無視した動きを見せていた。
軌跡が正嗣の真下で止まった。
次の瞬間、正嗣の予想をはるかに上回る規模で大地が割れた。
グラビトンボアが地中から突き上げるように現れたのだが、その際に発生したのは単純な土砂の噴出ではなかった。重力波が四方に拡散し、周囲の岩を粉々に砕きながら、空間そのものを歪めて正嗣に襲いかかった。
正嗣は疾風兎から得た俊敏性を最大限に活用して横へ飛び退こうとしたが、重力波の影響で空中での軌道が予想外に曲がった。辛うじて直撃は免れたものの、衝撃波が正嗣の左肩を掠める。
服が裂け、皮膚に浅い傷ができた。しかし、問題は傷そのものではなく、衝撃波に含まれていた異質な力だった。傷の周囲から、魔力が正嗣の体内に侵入しようとしているのが分かる。
「魔力的攻撃を含んでいる」
正嗣は淡々と状況を分析した。この魔物の攻撃は単純な物理的破壊だけではない。魔力そのものを武器として使用していた。
魔物の巨体が空を切って着地する。その瞬間、周囲の重力場が激しく乱れた。正嗣の足元の岩が宙に浮かび、空中で粉々に砕ける。重力そのものが武器として機能していた。
正嗣は着地と同時に反撃に転じた。剣が外殻を狙って一閃する。
キン、と金属音が響いた。
しかし、刀身は外殻に触れた瞬間、奇妙な抵抗を感じた。単純に硬いのではない。外殻の表面に魔力的な防御場が展開されており、物理攻撃そのものを減衰させていた。刀身は確かに外殻に当たったが、まるで水中で振るったかのように威力が削がれていた。
「物理攻撃に対する魔力的防御を持っている」
正嗣の分析は正確だった。グラビトンボアの外殻は単なる装甲ではなく、魔力で強化された絶対防御の盾だった。
グラビトンボアは再び地中に潜った。今度はさらに深く、そして移動パターンも複雑だった。螺旋を描くように地下を移動し、時には重力を操作して垂直に移動し、予測を完全に無効化していた。
しかし正嗣の空間把握能力は、魔物の大まかな位置は追跡できていた。移動軌跡の分析から、次の攻撃はおそらく背後からくると判断する。
振り返ることなく、正嗣は前方へ跳躍した。直後、彼がいた場所の地面が内側から爆発した。しかし今度は、爆発と同時に重力の渦が発生した。空中にいた正嗣は、その重力の渦に巻き込まれそうになる。
ヴァルグレイヴから得た重力操作能力を発動。自分の周囲の重力を操作して、魔物の重力攻撃を相殺する。しかし、完全に相殺することはできなかった。グラビトンボアの重力操作は、正嗣の能力をはるかに上回る規模と精密さを持っていた。
正嗣の体が不自然な軌道を描いて吹き飛ばされる。空中で体勢を立て直そうとしたが、周囲の重力場が乱れているため、思うようにいかない。
岩壁に背中を打ちつけて着地した正嗣は、すぐに立ち上がった。表情に変化はないが、状況が予想以上に困難であることを理解していた。
「重力操作の規模が想定を上回る」
グラビトンボアが地中から姿を現した。今度は正面からの対峙だった。魔物の赤い目が正嗣を見据える。その視線には、知性があった。単純な野獣ではない。戦術を理解し、相手の能力を分析する知性を持った強敵だった。
魔物は再び地中に潜った。しかし今度は、潜り方が異なっていた。地表近くを移動しているのではなく、深層から広範囲にわたって地面を操作していた。
突然、正嗣の立っている峡谷全体が震え始めた。グラビトンボアが地下深くから峡谷の地盤そのものを操作しているのだ。重力場が大規模に乱れ、岩壁から石が剥がれ落ち始める。
正嗣は空間把握能力で周囲の状況を分析した。魔物は峡谷全体を戦場として利用しようとしている。単純な一対一の戦闘ではなく、環境そのものを武器として使う戦術だった。
地面の各所から小さな爆発が連続して発生した。しかし、これは攻撃の本体ではない。陽動だった。爆発によって舞い上がった土煙に視界を遮られた正嗣の前で、本当の攻撃が始まった。
峡谷の谷底に散らばっていた大小の岩が、一斉に宙に浮かび上がった。数十個の岩が重力操作によって空中に固定され、そして正嗣に向かって一斉に射出される。
しかし、これも通常の投石攻撃ではなかった。岩の一つ一つに重力操作が施されており、空中で軌道を変更し、正嗣の回避行動を先読みして追跡してくる。
正嗣は疾風兎の俊敏性を最大限に活用して回避行動を取った。左へ、右へ、空中へ。人間の限界を超えた動きで岩の攻撃を避けていく。しかし、岩は執拗に追跡してきた。
一個の岩が正嗣の頬を掠める。もう一個が足首に当たり、バランスを崩させる。完全な回避は不可能だった。
正嗣は重力操作を発動した。自分の周囲の岩に対して逆方向の重力を加え、軌道を逸らす。しかし、魔物の重力操作との力比べになると、正嗣の能力では太刀打ちできなかった。
数個の岩が正嗣の体に命中する。左腕に鈍い痛み。右膝に鋭い衝撃。しかし、正嗣の表情は変わらなかった。痛みを感じてはいるが、それに対する反応が薄い。
「物理攻撃と重力操作を組み合わせた戦術」
正嗣は状況を分析し続けた。しかし、分析だけでは対処できない。
岩の攻撃が終わったかと思った瞬間、グラビトンボアが地中から飛び出した。今度は正嗣の真後ろからだった。巨大な牙が正嗣の背中を狙って迫る。
振り返る時間はなかった。正嗣は咄嗟に前方に転がった。牙は空を切ったが、魔物の巨体が正嗣の上を通り過ぎる際、背中の棘が正嗣の背中を掠める。
服が裂け、皮膚に複数の浅い傷ができた。しかし、またしても傷から異質な力が侵入してくる感覚があった。魔物の攻撃には、単純な物理的ダメージ以上の何かが込められていた。
正嗣は立ち上がり、振り返った。グラビトンボアは距離を取って正嗣を見つめている。戦術を練り直しているかのようだった。
「魔力を込めた攻撃を使用している」
正嗣の分析は継続していた。この魔物の真の恐ろしさは、その巨体や装甲ではなく、あらゆる攻撃に魔力的効果を付与できることだった。
グラビトンボアが動いた。今度は地中に潜ることなく、地上での戦闘を選択したようだった。しかし、その移動方法は異常だった。地面を蹴って移動するのではなく、重力を操作して空中を滑るように移動していた。
魔物が突進してくる。巨体から生み出される突進力に加え、重力操作による加速が加わり、その威力は想像を絶するものだった。大地を踏み砕くのではなく、重力場そのものを歪めながら迫る重装の塊。
正嗣は横に飛び退こうとした。しかし、魔物の突進と同時に周囲の重力場が操作され、正嗣の回避行動が阻害された。まるで目に見えない手に掴まれたかのように、体の動きが鈍くなる。
完全な回避は不可能だった。正嗣は剣を構え、魔物の突進を受け止めることにした。
グラビトンボアの牙と正嗣の剣が激突した。
凄まじい衝撃が正嗣の全身を襲う。しかし、単純な物理的衝撃ではなかった。魔物の攻撃には空間そのものを歪める力が込められており、正嗣の剣を通じて異質な力が侵入してくる。
正嗣の体が宙に舞った。魔物の突進力と重力操作の組み合わせによって、人間離れした距離を吹き飛ばされる。
岩壁に背中を叩きつけられた正嗣は、口から血を吐いた。内臓にもダメージが及んでいる。しかし、表情はほとんど変わらなかった。
「魔力的事象を伴う物理攻撃。威力が想定を大幅に上回る」
分析は続いていた。しかし、正嗣は理解し始めていた。この魔物との戦闘は、これまでの延長線上にはない。根本的に戦術を変える必要があった。
グラビトンボアは追撃してこなかった。距離を置いて、正嗣の様子を観察している。まるで正嗣の戦闘能力を見定めているかのようだった。
正嗣は立ち上がった。体の各所に痛みがあったが、戦闘継続は可能だった。そして、これまでとは異なる戦術を模索し始めた。
重力操作、隠密・感知、空間把握、俊敏性。これらの能力を個別に使うのではなく、統合して使用する必要がある。
正嗣は隠密能力を発動した。ミストラルから得た能力により、存在感を完全に消去する。しかし、単純に姿を隠すだけではない。空間把握能力と組み合わせて、魔物の知覚から完全に消える位置を計算して移動した。
グラビトンボアが首を動かして正嗣を探し始める。重力操作能力による索敵も行っているようだったが、正嗣の位置を特定することはできていないようだった。
正嗣は慎重に移動した。魔物の死角に回り込み、最適な攻撃位置を探す。しかし、単純な物理攻撃では魔物の防御を突破できないことは既に判明していた。
異なるアプローチが必要だった。
正嗣は重力操作能力を最大限に活用することにした。ヴァルグレイヴから得た能力を、これまでとは異なる方法で使用する。
周囲に散らばっている岩の重力を操作し、魔物の周囲に重力の乱れを人工的に作り出した。グラビトンボアが重力操作を得意とするなら、その能力を逆に利用する。
魔物の周囲で小さな重力波が発生し始めた。グラビトンボアは即座にそれを感知し、自分の重力操作で相殺しようとする。しかし、正嗣の狙いはそこではなかった。
魔物が重力操作に意識を集中している隙に、正嗣は隠密状態のまま接近した。俊敏性を活かして音もなく移動し、魔物の側面に到達する。
そして、これまで試していなかった攻撃を実行した。
剣に重力操作を施したのだ。刀身の周囲に局所的な重力場を発生させ、物理的な切断力に加えて空間歪曲効果を付与する。
正嗣の剣がグラビトンボアの側面を狙って振り下ろされた。
今度は、魔物の魔力的防御が完全には機能しなかった。重力操作を施した刀身は、防御場を部分的に突破し、外殻に深い傷を刻んだ。
グラビトンボアが咆哮した。初めて、魔物が痛みを表現した瞬間だった。
しかし、反撃も激烈だった。
魔物は全身から重力波を放射した。正嗣は至近距離にいたため、その直撃を受けることになった。
正嗣の体が吹き飛ばされる。しかし、今度は単純に吹き飛ばされるだけではなかった。重力波によって空間そのものが歪められ、正嗣の感覚が混乱した。上下左右の感覚が失われ、自分がどこにいるのかも分からなくなる。
岩壁に叩きつけられた正嗣は、しばらく動けなかった。空間把握能力すら一時的に機能しなくなっていた。
「空間歪曲効果を伴う攻撃」
正嗣は状況を分析しようとしたが、思考そのものが混乱していた。魔物の攻撃は物理的ダメージだけでなく、認識能力そのものにも影響を与えていた。
しかし、時間が経つにつれて混乱は収まり、正嗣は再び立ち上がることができた。
グラビトンボアは距離を取って正嗣を見つめていた。魔物の側面には正嗣の攻撃による傷があったが、既に回復し始めているようだった。
「自己回復能力も持っている」
正嗣の分析は続いていた。この魔物は攻撃、防御、回復の全てに秀でた完璧な戦闘生物だった。
しかし、正嗣もまた学習していた。重力操作を施した攻撃が有効であることが判明した以上、その方向性で戦術を組み立てる必要があった。
正嗣は再び隠密能力を発動した。しかし今度は、単純に姿を隠すだけではなく、重力操作と組み合わせて自分の存在そのものを希薄化した。重力的な痕跡も可能な限り消去し、魔物の索敵から完全に逃れる。
グラビトンボアは正嗣の位置を見失った。あらゆる感覚を駆使して探索しているが、正嗣の存在を感知することができない。
正嗣は慎重に移動した。今度は魔物の真後ろに回り込み、最も防御の薄い部分を狙う。そして、さらに強力な重力操作を剣に施した。
刀身の周囲の重力場を極限まで圧縮し、小さな重力の刃を形成する。これは単純な物理攻撃ではない。空間そのものを切り裂く攻撃だった。
正嗣の剣がグラビトンボアの後頭部を狙って振り下ろされた。
重力の刃が魔物の外殻を貫通した。今度は魔力的防御も完全に突破され、刀身が魔物の肉体に深く食い込んだ。
グラビトンボアが再び咆哮した。しかし、今度はただの痛みの表現ではなかった。怒りが込められていた。
魔物は全身を震わせ、背中の棘を四方八方に射出した。正嗣は至近距離にいたため回避は困難だったが、俊敏性を最大限に活用して棘の隙間を縫って後方に飛び退いた。
しかし、棘の攻撃は陽動だった。本当の攻撃は、魔物が放った全方位への重力波だった。
今度の重力波は、これまでとは桁違いの威力だった。空間そのものが波打ち、現実が歪んで見える。正嗣は重力操作で対抗しようとしたが、魔物の能力の前では焼け石に水だった。
正嗣の体が峡谷の壁に叩きつけられる。しかし、単純に叩きつけられるだけではなく、重力波の影響で体が壁にめり込んだ。岩が正嗣の体を押し潰そうとする。
正嗣は重力操作を発動して自分の周囲の重力を軽減し、岩から脱出した。しかし、全身に深刻なダメージを受けていた。口から血を吐き、視界が霞む。
それでも、正嗣は立ち上がった。表情はほとんど変わらず、戦闘継続の意志を示していた。
「全力での重力操作攻撃。威力は想定の十倍以上」
分析は継続していた。しかし、正嗣は理解していた。正面からの力比べでは勝ち目がない。異なる方法が必要だった。
グラビトンボアは正嗣の耐久力に驚いているようだった。これまでの攻撃で通常の生物なら既に絶命しているはずだった。
正嗣は新しい戦術を模索した。これまでの能力を全て統合し、これまでにない方法で戦う必要があった。
重力操作、隠密・感知、空間把握、俊敏性。これらを個別に使うのではなく、完全に統合したシステムとして機能させる。
正嗣は深呼吸した。そして、これまで試したことのない技術を実行することにした。
全ての能力を同時に最大出力で発動したのだ。
重力操作で周囲の空間を歪め、隠密能力で存在を消去し、空間把握で戦場全体を掌握し、俊敏性で人間の限界を超えた速度で移動する。
正嗣の姿が消えた。完全に消去されたのではない。あまりにも高速で移動し、同時に隠密能力で存在感を消しているため、知覚することが不可能になったのだ。
グラビトンボアは困惑した。あらゆる感覚で正嗣を探そうとするが、まったく感知できない。
その間に、正嗣は魔物の周囲を高速で移動し、複数の位置から同時攻撃を仕掛ける準備を整えた。重力操作を施した剣で、魔物の急所を狙う。
最初の攻撃は左側面。重力の刃が外殻を貫通し、深い傷を刻む。
二番目の攻撃は右後脚。関節部分を狙い撃ちし、魔物の機動力を削ぐ。
三番目の攻撃は背中。棘の根元を狙い、武器としての機能を無効化する。
全ての攻撃が一瞬のうちに実行された。グラビトンボアは反撃する暇もなく、複数の重傷を負った。
しかし、魔物もただでは済まなかった。
全身から爆発的な重力波を放射したのだ。今度は方向性を持たない、完全に無差別な攻撃だった。峡谷全体が重力の嵐に包まれる。
正嗣は高速移動中だったため、この攻撃の直撃を受けることになった。重力の嵐が正嗣の全身を襲い、骨が軋むような圧迫感に包まれる。
しかし、正嗣は倒れなかった。
全ての能力を統合した状態で、重力操作を最大限に活用し、自分の周囲に防御的な重力場を展開したのだ。完全に攻撃を防ぐことはできなかったが、致命傷は避けることができた。
グラビトンボアの攻撃が収まった時、峡谷の地形は完全に変わっていた。岩壁の一部が崩落し、谷底には巨大なクレーターができていた。重力操作の威力が空間そのものを変形させたのだ。
正嗣は血を拭いながら立ち上がった。全身に深刻なダメージを負っていたが、戦闘継続は可能だった。そして、重要なことを理解していた。
「魔物の重力操作には限界がある」
これほど強力な攻撃を連続して使用すれば、魔物にも消耗が生じるはずだった。実際、グラビトンボアの動きは以前より鈍くなっている。
正嗣は最後の戦術を実行することにした。これまでの全ての経験と能力を統合し、一撃必殺を狙う。
魔物の最大の武器は重力操作だった。しかし、それは同時に弱点でもあった。重力を操作するためには、周囲の空間を正確に把握する必要がある。その認識を混乱させれば、能力の精度が大幅に低下するはずだった。
正嗣は隠密能力を発動しながら、同時に重力操作で周囲に複数の重力異常を発生させた。偽の重力源を複数作り出し、魔物の空間認識を撹乱する。
グラビトンボアは混乱した。複数の重力異常によって、空間の把握が困難になっていた。どれが本物の正嗣で、どれが偽の重力源なのか判別できない。
その隙に、正嗣は魔物の真上に移動した。重力操作で自分の体重を極限まで軽くし、音もなく空中を移動する。
そして、剣に可能な限り強力な重力操作を施した。これまでで最も圧縮された重力場を刀身に纏わせ、空間を切り裂く究極の一撃を準備する。
正嗣は魔物の頭頂部目がけて剣を振り下ろした。
重力の刃が空間を切り裂き、あらゆる防御を無効化してグラビトンボアの頭部に到達した。
刀身が魔物の頭蓋骨を貫通する。しかし、ただ貫通するだけではなかった。重力操作によって、刀身の周囲の空間そのものが魔物の脳組織を破壊していく。
グラビトンボアの体が大きく痙攣した。そして、これまで維持していた重力場が崩壊した。魔物の制御を失った重力波が周囲に散乱し、峡谷が再び震撼する。
しかし、それも一瞬のことだった。
グラビトンボアの巨体がゆっくりと崩れ落ちた。赤い目の光が失われ、重力場の歪みも消失する。戦いは終わった。
正嗣は魔物の頭から剣を引き抜いた。血を拭う動作も、これまでと同じように淡々としていた。しかし、この戦いが他の守護者戦とは全く異なる困難さだったことは理解していた。
瞬間、魔物の体から光が立ち上がった。
その光は正嗣を包み込み、体の奥深くに浸透していく。新たな力が宿る感覚。しかし、今度は単純な身体能力の向上ではなかった。
突破力。
あらゆる空間、重力場、そして魔力的事象そのものを無効化し、突破する力。それは物理法則を超越した、絶対的な貫通能力だった。
力を得る過程で、正嗣は理解した。この能力の恐ろしさを。
突破力とは、単純に障害物を破壊する力ではない。空間の歪み、時間の流れ、魔力の束縛、現実そのものの制約——あらゆるものを無視して目標に到達する能力だった。
この力を得た者は、もはや何ものにも阻まれることがない。物理的な壁も、魔力的な結界も、次元の隔たりも、全てを突破することができる。
しかし同時に、正嗣は理解していた。この力を得ることで、自分もまた何かを突破してしまったのだということを。
人間としての限界を。
正嗣は峡谷を後にし、森のさらに奥へと向かった。次の守護者を探すために。歩きながら、新しく得た力を確認していく。
突破力は確かに身についていた。試しに前方の大木に向かって軽く手をかざすと、木の幹に手が触れることなく、内部に穴が開いた。魔力的事象を無効化し、物質そのものを突破したのだ。
「強力な能力を獲得した」
正嗣の分析は相変わらず淡々としていた。しかし、内心では微かな変化を感じていた。力を得ることに対する感覚が、また少し変わった。
夜が訪れ、正嗣は適当な岩陰で休息を取った。体の傷は思いのほか深刻だったが、不思議と痛みをあまり感じなかった。痛覚そのものが変化しているのかもしれない。
眠りにつくと、いつものようにリュティアが現れた。
「グラビトンボアを倒したのね」
精霊の声は平坦だった。特別な感情は込められていない。
「突破力を司る守護者だった。あらゆる魔力的事象を無効化し、空間そのものを突破する力を持つ魔物よ」
「そうか」
正嗣の答えも簡潔だった。
「その力を継承した貴方は、もはや何ものにも阻まれることがない。物理的な障害も、魔力的な制約も、次元の壁も、全てを突破することができるようになった」
リュティアは事実を述べているだけのようだった。
「ただし」
精霊が続けた。
「その力は諸刃の剣でもある。あらゆるものを突破する力は、同時に貴方自身の制約をも突破してしまう可能性がある」
「どういう意味だ」
「人間としての限界、感情の制御、理性の束縛。それらもまた、突破されてしまうかもしれない」
正嗣は黙って聞いていた。リュティアの言葉の意味は理解できたが、それが重要なことだとは思えなかった。
「次の守護者は?」
「北の岩山地帯にいる。鉄鱗熊アイアンクロウ。耐久力と再生能力を持つ守護者よ。しかし、単純な耐久力だけではない。物理的な攻撃を完全に無効化する能力を持っている」
「理解した」
短い会話だった。リュティアは観測者として情報を提供し、正嗣はそれを受け取る。それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただし、今夜は少しだけ違いがあった。
「貴方の変化が加速している」
リュティアが最後に付け加えた。
「気をつけなさい。力を得ることばかりに集中していると、取り返しのつかないものを失うかもしれない」
しかし、正嗣はその言葉の重要性を理解しなかった。
「問題ない」
夢が終わり、正嗣は目を覚ました。
正嗣の戦闘能力は飛躍的に向上していた。重力操作、隠密・感知、空間把握、俊敏性、そして突破力。これらの能力が組み合わさった時、正嗣は人間の枠組みを完全に超越した存在になっていた。
特に突破力は、他の全ての能力を根本的に変化させた。重力操作に突破力を加えれば、あらゆる重力場を無効化できる。隠密能力に突破力を加えれば、どんな探知魔法も通用しない。空間把握に突破力を加えれば、次元の壁すら透視できる。俊敏性に突破力を加えれば、時間の流れそのものを突破して移動できる。
しかし同時に、正嗣自身も変化していることを薄々感じていた。それが何なのかは分からないが、以前とは確実に違う自分になりつつある。
ただし、それが問題だとは思わなかった。
夜明けと共に、正嗣は再び歩き始めた。次の守護者を求めて。歩きながら、鉄鱗熊アイアンクロウについて考えを巡らせる。
物理攻撃を完全に無効化する能力。しかし、正嗣には突破力がある。あらゆる防御を無効化する力と、あらゆる攻撃を無効化する力。どちらが勝るかは、実際に戦ってみなければ分からない。
森の奥から聞こえる魔物の遠吠え。それは次の標的の在り処を示す手がかりでしかなかった。
「まだ七体」
正嗣は残りの守護者の数を数えた。全て倒し終えた時、自分がどのような存在になっているのか。その時になれば分かることだろう。
今は前に進むだけだった。
感情や迷いは効率を阻害する要因でしかない。目標に向かって最短距離を進む。それが現在の正嗣にとって最も重要なことだった。
風が森を吹き抜けていく。正嗣はその音を聞きながら、黙々と歩き続けた。
次なる守護者との邂逅まで、時間はそう長くないだろう。
そしてその時、彼はまた新たな力を得ることになるのだった。
人間性という制約を、さらに一歩突破して。
朝日が正嗣の後ろ姿を照らし出していた。その影は長く、まるで人間とは異なる何かの影のように見えた。しかし、正嗣はそのことに気づくことなく、ただ前へ進み続けた。
突破力を得た正嗣は、もはや何ものにも阻まれることがない。
それは力であると同時に、呪いでもあった。
あらゆるものを突破する力は、彼自身の人間としての制約をも突破し始めていた。感情の制御、理性の束縛、良心の歯止め——それらの境界線が、徐々に曖昧になりつつあった。
しかし、正嗣はそれに気づかない。
ただ前進を続けるのみだった。
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