2【絶望】
会場に足を踏み入れた瞬間、黎真は息を呑んだ。
広いホールの壁一面に、自分の作品が飾られている。
柔らかな照明が、筆の線をひときわ際立たせていた。
「……ここまで来たか」
観客のざわめきの中、作品の前で立ち止まる人々の視線が突き刺さる。
驚き、感嘆、そして議論。
小声が耳に届いた。
「これ、本当に学生の作品か?」
「いや……プロでもここまで描けるかどうか」
黎真は静かに笑った。
緊張はあったが、それ以上に胸の奥で熱いものが膨らんでいた。
――今、この瞬間だけは、自分が芸術の中心に立っている。
展覧会は大盛況で幕を閉じた。
――
―
◆
美大を卒業した黎真は、特待生としての肩書きも、恩師からの推薦も手にした。
だが、その後の道は意外にも平凡で
――いや、平凡以上に空白だった。
色々なオファーがありながらも、彼はすべてを断った。
中には、かの有名な巨匠からの誘いもあった――と噂されるほどだ。
だが黎真は、何を思ったのか、ごく普通に就職してしまう。
当初は「働きながら制作を続けるつもり」だった。
だが「芸術で食う」という現実の厳しさは想像以上に重くのしかかった。
受けるのは小さなデザイン依頼や動画編集、知人からのイラスト下請け。
報酬は安く、理不尽な修正要求も多かった。
「これで……食っていけるのか?
そもそも何で俺こんな事してんだ?」
そう自問する日が増えていった。
◆
やがて生活は「だらけた日常」へと変わる。
朝は遅く起き、パソコンに向かう。
YouTuberの動画編集を請け負いながら、
アリエクスプレスやメルカリで中古の機材を漁る。
机の上にはカメラ、マイク、ガジェット、サバイバルナイフ
――必要なのかどうかも分からない品々が山積みになった。
「……これも、きっといつか役に立つ」
そう言い訳をしながら、買い物かごに商品を追加する。
物欲だけは衰えることがなかった。
◆
ある日のこと。
届いた段ボールの中に、ひときわ異質なものがあった。
サバイバルキット。
火打石、折りたたみ式ナイフ、浄水器、ロープ。
アウトドアどころか外にすら出ない黎真には、まるで縁のない道具たち。
「……なんで俺、これ買ったんだっけ?」
苦笑しつつ手に取った瞬間、頭の奥にざわめきが走った。
「……もしかして……」
玄関の扉に手をかけると、金属の冷たさが掌に伝わる。
幸い仕事の依頼は全て完了しており、暫くは依頼は来ない時期であった。
「……行くか」
小さく呟き、黎真はゆっくりとドアを開けた。
外の空気はいつもと変わらないはずなのに、やけに鋭く肺に刺さった。
久しぶりに浴びる朝の風。
右足を踏み出すと、ジャリッと砂利が鳴る。
その音だけで「もう戻れない」と胸の奥がざわついた。
肩にかけたのは、ネット通販で買い漁ったサバイバルバッグ。
高級品のはずだが、慣れていない体にはずっしりと重い。
「こんなのが役に立つとはな……」
買った当時は浪費だと笑っていた道具たちが、今や唯一の命綱だった。
歩き始めると、景色が妙に鮮明に映る。
庭先の花。
干された洗濯物。
道路脇の雑草の青さ。
「そうだオレはこのサバイバルキットを有効活用して見せるぞ!
思い立ったが吉日、その日以降はすべて凶日って言うしな!」
と、言い 突然家を飛び出したのだ。
――どれも昨日までなら見過ごしていた。
気がついたら、黎真は東京の片隅で夜空を見上げていた。
高層ビルの光は星の代わりに瞬き、
アスファルトの照り返しは夏の夜でもじっとりと重い。
財布には千円札一枚と小銭が少し。スマホのバッテリーは残り二割。
ホームレス一歩手前のフリーター
――それが今の自分だった。
もう全てが凶日であった。
東京は冷たい。もう帰りたい。
残高は、あと数千円しかなかった。
ネカフェの受付で千円札が吸い込まれる音が、処刑の鐘みたいに重く響く。
「……これで最後かもしれない」
胸の奥で小さく呟く。
コンビニに寄る金も惜しい。
自販機の前に立っても、ボタンを押す勇気が出ない。
百円玉を落としたら、それで終わりだからだ。
空腹はもう腹の虫どころの話じゃない。
内臓が自分を食い始めたみたいに胃が焼け、頭はガンガンして視界は揺れる。
「倒れるな」と自分に言い聞かせるが、足は勝手にふらついた。
歩道の真ん中で膝をついた瞬間、通りすがりのサラリーマンが舌打ちする。
「邪魔だよ」
それだけ吐き捨てて通り過ぎた。誰も手を貸さない。誰も声をかけない。
――東京は、冷たい。
俺は路地裏に逃げ込み、壁にもたれて座り込んだ。
汗でシャツが肌に張りつき、呼吸は荒い。
――このまま死ぬのか?
死んだところで、誰にも気づかれないだろう。
親に連絡? できるはずがない。こんなみっともない姿を見せられるものか。
意固地になっていた。
いま引き返せば元の暮らしに戻れる――その安心感にすがるかどうか、迷っていた。
ポケットからスマホを取り出す。残りバッテリーは2%。
SNSを開いても通知はゼロ。
「俺って……ここまで誰からも必要とされてないのか」
胸が締め付けられる。涙が出そうになった――だが、出なかった。
俺は昔から泣けない人間だった。
感情が込み上げて涙腺に熱が集まっても、結局一滴もこぼれない。
心の奥に張りついていた氷が、ようやくいま、音を立ててひび割れ始めていた。
――死にたくない。
けれど、生きる意味も見つからない。
両方の思いが胸の奥でぶつかり合い、脳が焼けるように痛む。
頭を掻きむしり、コンクリートに爪を立てる。
「なんでだよ……なんで俺だけ……」
その瞬間、腹の虫が激しく鳴った。
あまりに切実で、現実に引き戻される。
◆
ふと、背負ってきたサバイバルバッグの存在を思い出した。
――そうだ、これがあるじゃないか。
アリエクで買ったナイフ。
クラファンで手に入れた火打ち石。
暇つぶしで読んだ「食べられる野草の本」。
全部、馬鹿みたいに揃えてきた道具たち。
「そうだ……この時のためにサバイバルセットを持ってきたんじゃないか。
俺は何をやってたんだ、この大都会で何を期待してたんだか」
自分に言い聞かせるように呟き、足は自然と河川敷へ向かっていた。
「そうだ、河川敷だ。あそここそがサバイバルだろ!」
社会のシステムに守られてきた俺が、初めてその外に一歩踏み出そうとしていた。
だがそれはあまりに無計画で、あまりに適当だった。
生きるか死ぬか――名もなき天才は、ここで静かに朽ち果てるのか。
◆
河川敷には思いのほか多くの野草が生えていた。時期も良かった。
参考書を片手に食えるかどうかを調べながら摘み取っていく。
スマホのカメラで照合しては、「これもいける」「これも大丈夫」と確認する。
この適当さである。
さらに魚も取ろうと考えた。
漁業権のことが頭をよぎったが、
調べれば「この辺は自由に取っていい」と分かり胸を撫で下ろす。
「よし、なら魚も食えるな」
夢中で野草を積み上げ、罠を組み、釣り仕掛けを整える。
久々に“何かに没頭している感覚”を取り戻していた。
だが、問題はそこじゃなかった。
――俺の体だ。
体重百キロオーバーの鈍った肉体は、わずかな労働で悲鳴を上げる。
汗は滝のように流れ、足は震えた。
それでも「もう少し、もう少し」と手を止められなかった。
そして――
グギュルルルルルッ!!
腹が内側から爆発するみたいに鳴り、視界が真っ白になった。
――そりゃそうだ。体重百キロの消費カロリーを、舐めていた。
◆
気づけば地面に倒れ込んでいた。
額から汗が滴り、口はカラカラに乾いている。
目の前には摘んだ野草の山。仕掛けた罠も完成している。
けれど、手を伸ばす力すら出ない。
荒い息を吐きながら、俺は呟いた。
「……笑えるな。死ぬ準備は万端なのに、生きる準備が足りねえ」
空は茜色に染まり、川面に映る太陽が揺れていた。
その美しささえ、遠く、霞んで見えた。
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