2【絶望】

会場に足を踏み入れた瞬間、黎真は息を呑んだ。

広いホールの壁一面に、自分の作品が飾られている。

柔らかな照明が、筆の線をひときわ際立たせていた。


「……ここまで来たか」


観客のざわめきの中、作品の前で立ち止まる人々の視線が突き刺さる。

驚き、感嘆、そして議論。

小声が耳に届いた。

「これ、本当に学生の作品か?」

「いや……プロでもここまで描けるかどうか」


黎真は静かに笑った。

緊張はあったが、それ以上に胸の奥で熱いものが膨らんでいた。

――今、この瞬間だけは、自分が芸術の中心に立っている。

展覧会は大盛況で幕を閉じた。


――




美大を卒業した黎真は、特待生としての肩書きも、恩師からの推薦も手にした。



だが、その後の道は意外にも平凡で


――いや、平凡以上に空白だった。


色々なオファーがありながらも、彼はすべてを断った。

中には、かの有名な巨匠からの誘いもあった――と噂されるほどだ。


だが黎真は、何を思ったのか、ごく普通に就職してしまう。

当初は「働きながら制作を続けるつもり」だった。


だが「芸術で食う」という現実の厳しさは想像以上に重くのしかかった。

受けるのは小さなデザイン依頼や動画編集、知人からのイラスト下請け。

報酬は安く、理不尽な修正要求も多かった。


「これで……食っていけるのか?

 そもそも何で俺こんな事してんだ?」


そう自問する日が増えていった。



やがて生活は「だらけた日常」へと変わる。

朝は遅く起き、パソコンに向かう。

YouTuberの動画編集を請け負いながら、

アリエクスプレスやメルカリで中古の機材を漁る。

机の上にはカメラ、マイク、ガジェット、サバイバルナイフ

――必要なのかどうかも分からない品々が山積みになった。


「……これも、きっといつか役に立つ」


そう言い訳をしながら、買い物かごに商品を追加する。

物欲だけは衰えることがなかった。



ある日のこと。

届いた段ボールの中に、ひときわ異質なものがあった。

サバイバルキット。


火打石、折りたたみ式ナイフ、浄水器、ロープ。

アウトドアどころか外にすら出ない黎真には、まるで縁のない道具たち。


「……なんで俺、これ買ったんだっけ?」


苦笑しつつ手に取った瞬間、頭の奥にざわめきが走った。


「……もしかして……」


玄関の扉に手をかけると、金属の冷たさが掌に伝わる。


幸い仕事の依頼は全て完了しており、暫くは依頼は来ない時期であった。


「……行くか」


小さく呟き、黎真はゆっくりとドアを開けた。


外の空気はいつもと変わらないはずなのに、やけに鋭く肺に刺さった。

久しぶりに浴びる朝の風。

右足を踏み出すと、ジャリッと砂利が鳴る。

その音だけで「もう戻れない」と胸の奥がざわついた。


肩にかけたのは、ネット通販で買い漁ったサバイバルバッグ。

高級品のはずだが、慣れていない体にはずっしりと重い。

「こんなのが役に立つとはな……」

買った当時は浪費だと笑っていた道具たちが、今や唯一の命綱だった。


歩き始めると、景色が妙に鮮明に映る。

庭先の花。

干された洗濯物。

道路脇の雑草の青さ。

「そうだオレはこのサバイバルキットを有効活用して見せるぞ!

 思い立ったが吉日、その日以降はすべて凶日って言うしな!」


と、言い 突然家を飛び出したのだ。



――どれも昨日までなら見過ごしていた。



気がついたら、黎真は東京の片隅で夜空を見上げていた。


高層ビルの光は星の代わりに瞬き、

アスファルトの照り返しは夏の夜でもじっとりと重い。


財布には千円札一枚と小銭が少し。スマホのバッテリーは残り二割。

ホームレス一歩手前のフリーター

――それが今の自分だった。

もう全てが凶日であった。


東京は冷たい。もう帰りたい。



 残高は、あと数千円しかなかった。

ネカフェの受付で千円札が吸い込まれる音が、処刑の鐘みたいに重く響く。

「……これで最後かもしれない」

胸の奥で小さく呟く。


コンビニに寄る金も惜しい。

自販機の前に立っても、ボタンを押す勇気が出ない。

百円玉を落としたら、それで終わりだからだ。


空腹はもう腹の虫どころの話じゃない。

内臓が自分を食い始めたみたいに胃が焼け、頭はガンガンして視界は揺れる。

「倒れるな」と自分に言い聞かせるが、足は勝手にふらついた。


歩道の真ん中で膝をついた瞬間、通りすがりのサラリーマンが舌打ちする。

「邪魔だよ」

それだけ吐き捨てて通り過ぎた。誰も手を貸さない。誰も声をかけない。

――東京は、冷たい。


俺は路地裏に逃げ込み、壁にもたれて座り込んだ。

汗でシャツが肌に張りつき、呼吸は荒い。

――このまま死ぬのか?


死んだところで、誰にも気づかれないだろう。

親に連絡? できるはずがない。こんなみっともない姿を見せられるものか。


意固地になっていた。

いま引き返せば元の暮らしに戻れる――その安心感にすがるかどうか、迷っていた。


ポケットからスマホを取り出す。残りバッテリーは2%。


SNSを開いても通知はゼロ。

「俺って……ここまで誰からも必要とされてないのか」

胸が締め付けられる。涙が出そうになった――だが、出なかった。


俺は昔から泣けない人間だった。

感情が込み上げて涙腺に熱が集まっても、結局一滴もこぼれない。

心の奥に張りついていた氷が、ようやくいま、音を立ててひび割れ始めていた。


――死にたくない。

けれど、生きる意味も見つからない。


両方の思いが胸の奥でぶつかり合い、脳が焼けるように痛む。

頭を掻きむしり、コンクリートに爪を立てる。

「なんでだよ……なんで俺だけ……」


その瞬間、腹の虫が激しく鳴った。

あまりに切実で、現実に引き戻される。



ふと、背負ってきたサバイバルバッグの存在を思い出した。

――そうだ、これがあるじゃないか。


アリエクで買ったナイフ。

クラファンで手に入れた火打ち石。

暇つぶしで読んだ「食べられる野草の本」。

全部、馬鹿みたいに揃えてきた道具たち。


「そうだ……この時のためにサバイバルセットを持ってきたんじゃないか。

 俺は何をやってたんだ、この大都会で何を期待してたんだか」


自分に言い聞かせるように呟き、足は自然と河川敷へ向かっていた。


「そうだ、河川敷だ。あそここそがサバイバルだろ!」


社会のシステムに守られてきた俺が、初めてその外に一歩踏み出そうとしていた。

だがそれはあまりに無計画で、あまりに適当だった。


生きるか死ぬか――名もなき天才は、ここで静かに朽ち果てるのか。



河川敷には思いのほか多くの野草が生えていた。時期も良かった。

参考書を片手に食えるかどうかを調べながら摘み取っていく。

スマホのカメラで照合しては、「これもいける」「これも大丈夫」と確認する。


この適当さである。


さらに魚も取ろうと考えた。

漁業権のことが頭をよぎったが、

調べれば「この辺は自由に取っていい」と分かり胸を撫で下ろす。

「よし、なら魚も食えるな」


夢中で野草を積み上げ、罠を組み、釣り仕掛けを整える。

久々に“何かに没頭している感覚”を取り戻していた。


だが、問題はそこじゃなかった。


――俺の体だ。


体重百キロオーバーの鈍った肉体は、わずかな労働で悲鳴を上げる。

汗は滝のように流れ、足は震えた。

それでも「もう少し、もう少し」と手を止められなかった。


そして――


グギュルルルルルッ!!


腹が内側から爆発するみたいに鳴り、視界が真っ白になった。

――そりゃそうだ。体重百キロの消費カロリーを、舐めていた。



気づけば地面に倒れ込んでいた。

額から汗が滴り、口はカラカラに乾いている。

目の前には摘んだ野草の山。仕掛けた罠も完成している。

けれど、手を伸ばす力すら出ない。


荒い息を吐きながら、俺は呟いた。


「……笑えるな。死ぬ準備は万端なのに、生きる準備が足りねえ」


空は茜色に染まり、川面に映る太陽が揺れていた。

その美しささえ、遠く、霞んで見えた。

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