第八章 夏休み、ゴロゴロしながら考える

8-1.

 部屋は静かだ。机も本棚も整っている。余計なものは置いてない。ぬいぐるみも、カラフルなクッションも、ポスターも。四角い箱みたいな空間。

 終業式の日のことを思い出す。廊下で笑い合っていた女子たち。髪を巻いたり、リップを塗ったり。あれが普通。中学生ってそういうもの。でも私は違う。違ってもいい。そう思う。むしろ、こうじゃなきゃ落ち着かない。

 身体は重い。夏バテにしては早い。外に出てないのに、もうバテてるみたい。昨日のせいだとすぐわかる。

 ベッドに沈む。天井をにらむ。汗が首筋をつたって枕にしみる。シーツは湿って重い。寝返りを打つたびに嫌な音がする。体はだるいのに、頭だけが目を覚ましている。考えが勝手に走る。止められない。

 最初に浮かぶのは冷凍庫。霜の匂い。金属の匂い。吐いた息が白くなる。ガラスの向こうに女の子。眠るみたいに横たわっている。髪は銀に近い。根元まで同じ色。生まれつき。そういうのはずるい。まつげが長くて、閉じた目に濃い影が落ちる。

肌は薄いガラスみたい。青い血管が潜んでいそうで、でも曇らない。爪は短く整って、表面が光る。誰かの手が入ったみたいに、全部が行き届いている。体は細い。胸は小さい。けれど形は綺麗。氷の下でも分かった。気づけば比べていた。髪も肌もまつげも完敗。でも胸の大きさだけは同じくらい。そこだけ引き分け。くだらない。でも安堵した。負けっぱなしで終わらない場所がひとつあるだけで、呼吸が少し戻った。

 だから私は、あれをエルフだと思った。人間にこんな子はいない。だからエルフ。そう思えば納得できる。

 待って。それってドーナッツが言ったからじゃないの。あいつが口にしたせいで、私はすぐ信じた。違う。ない。絶対ない。私はあいつに影響される人間じゃない。特別とか言われても違う。秘密があるからそばにいるだけ。恋なんかじゃない。

でも、一瞬よぎったこと自体が腹立たしい。否定が言い訳に聞こえるのも腹立たしい。枕に顔を押しつける。湿った布の匂いが鼻に刺さる。

スマホが震えた。画面に玉野。ドーナッツから。「エルフレンド行方不明、あいつ最近、一人で歩くこと多いんだ」反射で開いた。

 既読がついた。返す言葉が見つからない。とりあえずイイねを押した。押した瞬間、自分に腹が立った。なんで合わせるの。なんでイイねなんて。私の思考を邪魔したのはメッセージだ。メッセージに反応したのは私だ。両方むかつく。

 また目を離したら、動画にとられるかもしれない。いや、捕まるかも。あんな珍しい生き物、物好きが放っておくはずない。UMAだの、ペットだの、売れるだの。勝手なことを言って、群がってくるに決まってる。

 エルフレンドは見つかったら終わりだ。うちの冷凍庫ごと、秘密もろとも持っていかれる。そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 冷凍庫を思い出す。霜の匂い。金属の匂い。ガラスの向こうに横たわる、あの綺麗な死体。

 髪は銀に近く、根元まで透き通っていた。一本一本が光を弾いて、氷に沈むたびきらめいた。長いまつげが閉じた目に影を落とし、肌は青白くて、ガラス細工みたいだった。氷に守られているのに、壊れやすそうで、触れたら指の跡が残りそうだった。

 その光景を思い浮かべるだけで胸が詰まる。もし、あれが誰かに見つかったら。もし、冷凍庫を開けられたら。全部ばれる。私とドーナッツが何をしているかも。

心臓がきゅっと痛んだ。針で刺されたみたいに、一瞬だけ呼吸が止まった。


8-2.

 昼間なのに体は重い。ベッドに沈んで天井をにらむ。汗が首筋をつたって枕にしみる。寝返りを打つたびに湿った音がして不快だった。眠れないから最近の出来事を順番に思い出す。

 最初に浮かぶのは夏期講習の返金。

生徒証を差し出して、キャンセルをお願いしますと言った。普通なら理由を聞かれる。体調はどうだとか、親の承諾はあるのかとか。そういう確認をされるのが当たり前だと思っていた。けれど職員は端末に視線を落とし、一度だけキーを叩いて、すぐに封筒を取り出した。中身の重さが手のひらに移る。疑う素振りもなく、ただ現金が渡された。あまりにあっさりしていて現実感がなかった。私は立ったまま、これは魔法が効いたのだと悟った。あのときはっきりと。

 次に思い出すのは櫛のこと。

 夏休み前の浮ついた教室。ある子が祖母からもらった櫛を机に出した。赤黒い漆の光。すぐに先生の手が伸びて没収された。普通ならそのまま。返却は夏休みが終わってから。けれど私は立ち上がって声を出した。大事なものだから返してあげてと。胸の奥で強く思った。返せ、と。すると先生の眉がほどけ、手が緩み、櫛は机に戻った。女子が泣き笑いの顔でこちらを見た。ありがとうと名前を呼ばれた。胸が熱くなった。魔法を使ったと自覚した。

 ここまでは確実だ。私は魔法を使った。

 けれどそれ以外の出来事はどうだろう。

 図書室を出た夕方。下校の時間帯で廊下は薄暗かった。理科の先生とばったり会った。思わず口にした質問は、中学生が言えば怪しまれても仕方のない内容だった。薬品の反応や量の話。普段の先生なら眉をひそめて、深入りするなと言われて終わりだったはずだ。けれどその日は違った。先生は立ち止まって、私のノートを取り上げ、計算を並べて下線まで引いて返してくれた。声は柔らかく、目も優しかった。普段なら絶対にない反応。あれも魔法が働いていたのではないかと思えてくる。

 鞄にあの生き物を潜ませて登校した日も同じだ。私はできる限り注意した。足音を忍ばせ、振り返る回数も増やした。けれどドーナッツがそんなに気を配れるとは思えない。なのに誰にも気づかれなかった。隣の子が消しゴムを落として机の下をのぞいたのに、奥にいるはずの気配は見えなかった。黒目がすべるように通り過ぎて、何もないという顔で首を上げた。あれも偶然ではなく魔法の顔をしていたのかもしれない。

 一方で、失敗した日もある。

 中古ショップにゲーム機を持ち込んだ。黄色い蛍光灯の下、私は勇気を出してカウンターに立った。けれど店員はちらりと見ただけで「値段つきませんね」と言った。それで終わり。外に出ると夏の熱気と排気ガス。バイクの音が背中に近づいた。肩を掴まれて、次の瞬間、腕の中が空っぽになった。ゲーム機は奪われ、残ったのは重さの抜けた感触だけ。あの場にはエルフレンドはいなかった。

 返金と櫛は魔法。自分で使ったと分かっている。

 図書室の先生や鞄の中の出来事は偶然に見えるけれど、不自然さが残る。逆にゲーム機を失ったのは魔法が働かなかったから。線を引けばそう見える。

 運が良かったとき、実は魔法が働いていたのではないか。

 そう考えると、すべての出来事の形が変わって見えてくる。

 汗で湿った枕に顔を押しつけながら思う。

 もしゲーム機が今も手元にあったら。こうしてベッドに沈み込んでいるとき、ただ電源を入れて画面を見ていれば気が紛れたのに。操作音に耳を塞いで、余計な思考を閉じ込められたのに。

 取り上げられたせいで、考えることばかり残っている。こういうときにこそ、あればよかったのに。


8-3.

 体は重い。鉛をくくりつけられたみたいに動かない。熱があるのかもしれないのに、冷房の風が体の上だけを滑っていく。脳だけは冴えている気がする。けれど本当は鈍っているのかもしれない。考えがまとまらない。

 順番に並べているつもりでも、途中で抜けたり逆になったりする。胸の奥で小さな空洞が鳴る。息を吸うと擦れる。吐くと痛む。寝返りのたび、湿ったシーツが音を立てる。昼間なのに夜みたいな部屋。白い天井だけが平らで、ほかはすべて傾いて見える。

 病院のことを思い出す。待合の椅子の軋み。白い壁と棚。消毒液の匂い。紙のベッドの薄さ。

 先生は聴診器を胸に当てて、画面の数値を示した。異常は見当たりません。倦怠感と体温の変動ですね。夏バテ。過労やストレスの可能性が高いです。

言葉はやさしかった。声も落ち着いていた。私はうなずけた。けれど胸の奥は軽くならなかった。帰り道の熱気。薬局の袋が指に食い込み、首筋を汗が伝った。信号の電子音が頭に刺さる。私は普通の病人で、普通の診断を受けて、普通の薬を持ち帰った。そう思おうとした。

 でも違う。

 本当に夏バテなら、寝れば軽くなるはずだ。横になっても治らないのはなぜか。

思い出す。あの時も、この時も。魔法を使ったあと、必ず体は重くなっていた。胸の奥が空洞になる感覚。砂袋を縛りつけられたみたいな怠さ。

 代償。そういう言葉が頭に浮かぶ。

魔法は体力か、生命力みたいなものを少しずつ削って動いている。そう考えれば、この倦怠感にも説明がつく。

 そうすれば、ドーナッツの無気力も説明できる。

最初に会ったときから、あいつは怠け者みたいに見えた。覇気がなくて、声も間延びして、歩幅も小さい。単に性格だと思っていた。

 でももしあれが、魔法の代償だったとしたら?

 あいつが先に魔法を使っていて、私が会う頃にはもう削られていたとしたら?

 いや、違うかもしれない。性格がルーズなだけかもしれない。

けど、教室に時々いなかったのは省エネモードだったのかもしれない。丸投げしてくるアイツと邪魔になるくらいウザいアイツ。同じだと思う。思いたい。

偶然? それにしては一致が多い。

 じゃあ、私が魔法を使えるようになったのはいつからだろう。

 家で靴下を浮かせた。コップの水滴を止めた。あれはなぜ急にできた?

 思い返すと、漫画喫茶の机の下で、指先を噛まれたあの瞬間がある。

 あれが合図? 小さな契約?

 でも、あれだけで説明できるだろうか。

 噛まれただけで急に魔法が使えるようになるなんて、あまりにも単純すぎる。

 なら、ドーナッツも同じことをされていたのかもしれない。

 森で? あるいは廃コンビニで?

 だから最初から、私の前に現れたときにはもう消耗していた?

 けれど、あいつが自分の意思で魔法を使っているところなんて一度も見ていない。

 もしそうなら、あの無気力さは魔法を乱発したせいではない。

 ただ、体力を削られていたからこその症状だったのかもしれない。

 ドーナッツは魔法の使い手ではなく、触媒。

 自分で術を起こすのではなく、ただ魔力の要素として削られている。生贄、燃料、電池。呼び方はいくらでもある。

 私が動かすたびに、アイツの中身も一緒に削られていたとしたら。

 確証はない。ただの状況証拠。けれど偶然にしては揃いすぎる。ひとつ否定すれば、別の可能性が顔を出す。

 問いは減らず、増えていく。

 魔法の代償は体力なのか、生命力なのか、それとももっと別のものなのか。私が払っているのは本当に私の分だけなのか。ドーナッツは。エルフレンドは。どこまで巻き込まれているのか。

 疑問符だけが積み上がっていく。

 積み木を崩そうとしても、指先が震えて、逆に高く積み上がってしまう。


8-4.

 体は重い。鉛をくくりつけられたみたいに動かない。汗が首筋を伝って枕にしみる。寝返りを打つたび、湿ったシーツが嫌な音を立てる。眠りたいのに眠れない。頭だけが勝手に目を覚ましている。考えが止まらない。

 横に投げ出した手を伸ばして、スマホをつかむ。画面を開く。既読をつけたままのドーナッツのメッセージが、スクロールの途中に残っている。

 「エルフレンド行方不明、あいつ最近、一人で歩くこと多いんだ」軽い調子の文面。

 けれど私には重い。既読をつけた瞬間の胸のざわめきが戻る。反射でイイねを押してしまったのも、思い出すたび腹が立つ。消そうか迷ってやめる。消したところで何が変わる。消さなかったところで何が残る。答えはなく、思考だけが回り続ける。

なぜ私は、あのエルフの死体を前にして叫ばなかったのだろう。

 なぜ空飛ぶ蛇を見ても逃げ出さなかったのだろう。

違和感を覚えながら、結局は受け入れてしまった。理科好きの私が、学術的な好奇心すら抱かなかった。全部おかしい。

 あの夜。冷凍庫の取っ手に手をかけた。金属が冷たくて、皮膚が吸い付いた。蓋を開けた瞬間、冷気が顔を打った。霜の匂い。金属の匂い。吐いた息が白く散った。

 その奥に眠るような少女。銀色の髪。閉じた瞼に落ちる影。氷の下の肌はガラスのように透き通っていた。

 普通なら悲鳴を上げる。逃げる。けれど私は立っていた。黙って見ていた。胸の奥は不自然に静かだった。恐怖が切れていた。誰かにスイッチを切られたみたいに。

 あれが始まりだったのだ。不安が形を持ち、恐怖の確信に変わった。

 それでも気になってしまう。あの生き物を追っているのは誰なのか。

 私はスマホで検索をかける。動画は四本。同じ投稿主。画面は揺れ続ける。足音が荒く響く。走りながら、あるいはバイクに乗りながら撮っている。影がちらつく。尾が途切れる。翼が一瞬映る。見覚えのある輪郭。心臓が縮む。

 声も入っている。興奮した甲高い声。意味を結ばない早口。笑い声に変わる瞬間。熱に浮かされた響き。

 場所は近所。角の自販機。塀の色。電線の影。見慣れたものが次々に画面をかすめる。背中に汗がにじむ。

 投稿主がふざけ半分でやっているのだとしても、このまま巻き込まれたらどうなる。魔法に触れたらただでは済まない。犠牲になる。そんな心配がよぎる。

 けれどそれより怖いのは、コイツに見つかったら終わりだという確信だった。笑い声の向こうにいる顔の見えない誰か。自分の生活圏をうろつきながら、エルフレンドを追っている。私の秘密ごと。冷凍庫ごと。全部。

 情報が多すぎる。頭がくらくらする。理解しようとすればするほど混乱が増える。画面を閉じても残像は消えない。

 横に投げ出した手をもう一度伸ばし、スマホを握る。スクロールの途中に残る既読済みの文字列。

 私はどこまで私なんだろう。どこからが魔法なんだろう。

この疑いは私のものだろうか。それとも、ここまでたどり着けと置かれた結論なのだろうか。

 天井の色は白のまま。私の中だけが色を変える。目を閉じる。次の鼓動を数える。どくん。ここだけは、まだ私だと信じたい。

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