第六章 祝勝会は炭酸飲料の味
6-1.
コンビニのレジ前は人の列が切れず、電子音やレンジのチンが途切れなく響いていた。照明は明るくて、棚には新商品が並んでいて、日常の延長みたいに安心できる。こういう場所なら、誰がいても自然だし、私がここにいることも不思議じゃない。
それに比べて廃コンビニは、何もなかった。埃っぽい床と空っぽのケースだけ。けれど、だからこそ落ち着けた。秘密を隠すにはちょうどよくて、誰にも邪魔されない秘密基地だった。活気と静けさ、正反対なのに、どちらも私には必要だった。
「夏限定ソーダあるじゃん」
ドーナッツが棚を見て目を輝かせる。
「だめ。これから漫画喫茶行くんでしょ」
呆れて返すと、彼は不満そうに口をつぐんだ。
順番が来て、払込票を差し出す。事業用の電気代。中学生が払うなんて絶対に怪しい。でも店員は何も言わず、バーコードを読み取ってレジを打つ。やっぱり魔法が効いている。
塾でもそうだった。生徒証を出しただけで職員は疑いもせずにパソコンを叩き、夏期講習を解約して現金を渡してきた。小遣いの何倍もの額があっけなく手に入った。
胸にちくりと罪悪感が走る。けれど、あれは私の成績のために親が払ったお金だ。なら、私がちゃんと点数を取り続ければいい。裏切りじゃない。そう繰り返せば少し楽になる。
外へ出ると、蒸し暑い空気が体にまとわりついた。街路樹の影さえ熱を抱え込んでいる。
「で、次は?」ドーナッツが気軽に聞く。
「漫画喫茶。自由に探せるパソコンがある。子供用の制限もない」
多分そのはず。
そう口にした途端、耳の奥が熱くなる。
これは祝勝会じゃない。調査だ。調査の続きだ。
6-2.
初めての漫画喫茶。
自動ドアじゃなかった。ガラスのドアを押したら、やたら冷房が効いていて、空気が油っぽい匂いと湿気でどろっとしていた。これが漫画喫茶か、と思った瞬間に少し後悔した。
カウンターの奥にいた店員は、首まで肉に埋まってるみたいな人で、こっちを見たと思ったらすぐ下を向いた。新入りかどうかなんて、見なくても態度でわかるらしい。
会員登録はどうするんだろう、と一瞬迷って学生証を出したら、それだけで通った。 ペンで何か書かされると思ったのに。細かい規約とかもあるのかと身構えていたのに。
その全部を飛ばされて、会員カードをぽんと出される。雑な感じに見せかけて、こちらの方が雑にされている気分になる。
ドーナッツが「パソコン画面大きい部屋ありますか」と聞いた。 店員は顔も上げずに番号を告げる。正面から客に関わる気ゼロ。それがかっこいいと思ってるみたいに。
廊下に並ぶ番号札を追って歩く。床のカーペットはじとっとして、色は元々何色だったのかはっきりしない。
番号のドアを開けて入った瞬間、想像していたのと違う。ソファがひとつ置かれただけの小部屋で、その奥に大きめのモニターが鎮座していた。つまりペアシート。
なるほど、パソコンの画面が大きいという条件を出せば自動的にここに案内される仕組みらしい。親切というよりは、子ども相手に手間を減らすためのマニュアルっぽい誘導。
「ここ、狭い」 ドーナッツが言う。
「わかってる」
いちいち同意を求めないでほしい。肩が触れる距離しかなくて、こっちも言葉が少し尖る。
二人で荷物を置いて腰を下ろしたら、予想通り片方に寄らなきゃ座れない幅だった。肘掛けの高さも中途半端で、どちらが肘を置くかで無言の押し合いになる。
「詰めて」
「もうこれ以上無理」
「お前ちょっと広がってる」
「そっちこそ」
どっちも譲らないまま、ひじの位置をちまちま変える。
壁は薄いのに、外の音がほとんど入ってこない。だから自分たちのやり取りがやけに響く。
「うるさい、静かにしてって言われるよ」
「言ったのお前じゃん」
「こっちは仕方なく言ったんだし」
口喧嘩みたいなやり取りをしても、声量を上げられないから余計に苛立つ。
店員が来て注意する気配はない。別に見張られているわけでもないのに、こっちだけが妙に萎縮している。 ふと黙った途端、冷房の風とパソコンのファンの音が一気に耳に入り込んで、沈黙の方がよほど気まずい。
「飲み放題だってさ」 ドーナッツはすでにテンションが上がっていて、廊下を小走り気味にドリンクバーへ向かう。ここを遊園地か何かと勘違いしている。
遊びに来たんじゃない、と心の中で突っ込む。けれど確かに飲まないのも損な気がするのも確かだ。
「何飲む?」
何が置いてあるかもまだ見てないのに、そう聞ける自信はどこから来るんだろう。バカなの。
「オレンジジュース」
言ってから、なんか負けた気分になる。冷蔵ケースの横の機械から、黄色い液体がコップに注がれる音がする。炭酸がシュワシュワ泡立っているのは、ドーナッツが選んだジンジャエールだ。あいつは絶対甘い炭酸が好きだろうと思っていたら、その通りだった。
席に戻ると、オレンジジュースのコップの横に紙のお手拭きが置かれていた。ドーナッツが黙って持ってきたらしい。意外と気が利くじゃん、と心の中で小さく訂正する。
コップをテーブルに置いたら、水滴の輪がすぐできた。紙のお手拭きで拭いて、ついでにキーボードも軽くなぞる。指先がべたつく感じが嫌で、手を止めるたびにまた拭きたくなる。
電源を入れるとファンが唸った。画面に映った自分の顔が青白い。落ち着け、と口の中だけで言う。
横ではストローが鳴る。ジンジャエールを勢いよく吸う音。少しして炭酸が喉の奥で弾ける音。続けて、古い単行本の紙がめくれる乾いた音。音の種類が増えるたびに、心拍数も一段ずつ増える。最初は気にならないふりをしていたけれど、三つ目の音でふりがばれる。
ドーナッツは机に漫画を広げて肘で押さえ、片手でストローをくわえている。飽きる気配がない。ページの隅に影が触れた。エルフレンドが机の下から伸びて、角をちょんと押す。次のページをめくらせているみたいで、二人だけで遊んでいる。
本人は気づかない。都合のいいときだけ鈍感で、器用に楽しそうだ。こっちは起動音と更新の表示を待っている。何も始まっていないのに、始めるのはいつも私の方だ。
ブラウザが開いた。広告が一瞬で並ぶ。閉じる小さなバツ印がなかなか押せない。マウスの感度が合っていない。カーソルが泳ぐ。そのたびにストローがまた鳴る。
検索窓に最初の文字を打とうとして、タイプミス。削除。もう一度。背中の汗が冷房で冷える。
漫画のコマから血しぶきみたいな黒が視界の端に入り込む。指が止まる。何を読んでいるのか聞いたら負けだと思って、聞かない。ここは遊びに来たわけじゃない。けれどジュースは飲む。損はしたくないから。そういう計算だけは早い自分が、少し嫌だ。
エルフレンドがテーブルの下からドーナッツの袖口をつつく。袖がすっとずれて、肘がこちらに近づく。肩が触れない距離を保つために、自分がわずかに引く。椅子がきしむ。私だけが気を遣って配置を直している。そう思った瞬間、イライラがもう 一段上がる。
検索窓がようやく空いた。指を置く。ここで手を止めたら意味がない。
オレンジジュースを一口だけ飲んで、酸っぱさで舌を叩いてから、文字を打ち始めた。
検索してもろくな情報が出ないで、椅子に沈み込んだ瞬間だった。
「じゃあ俺の出番だな」
横からマウスをつかまれた。いきなり立候補。今まで漫画に夢中だったやつが急に張り切るから、反射的に目を丸くする。
「なに急に」
ドヤ顔でキーボードを叩く姿は、テスト前だけやたらやる気を見せる同級生みたいで信用ならない。画面が切り替わって、カラフルなアイコンと「ご質問をどうぞ」とか出てくる。AIチャット。まさかそれに頼るとは思わなかった。
「エルフの死体処理、現実的な方法」
堂々と入力する。打ち込む単語のセンスがゼロで、こっちが恥ずかしい。
数秒後、返ってきた長文。
「現実にはエルフは存在しません。したがって現実的な回答はできません。仮に存在するとすれば、法的に人間か動物かによって対応が変わります。また故郷での習慣を確認する必要があります。一般的にファンタジー世界では……」
そこまで読んで、腹の底から笑いが湧いた。
「ファンタジー世界ではって。作文かよ」
ドーナッツも肩を震わせながら「役立たねえ」と笑っている。
急に張り切ったわりに、返ってきたのはこのザマ。笑い終わったら、何をやってるんだろうという空虚さだけが残った。
机の下から黒い影がぬっと伸びてきて、エルフレンドが蛇顔を出した。
「なに、してる」
舌足らずな声。いつもと同じ、遊び半分みたいな調子に聞こえた。ドーナッツが漫画をめくりながら、軽く笑って言う。
「お前のご主人様の死体を処分だよ」
悪ふざけにしては空気が冷たくなった。けれど本人は全然深刻そうじゃない。
蛇の黒い目が順番にこちらを見た。目が細かく揺れて、確認するように。
「しんだ。ほんと」
何を今さら、と思った。死んでるから処分しなきゃいけない。それが最初からの話だったはずだ。蘇生とか生き返るとか、そういう言葉は一度も考えたことがなかった。
脳裏に浮かぶ。あのエルフの横たわった姿。細い首、整った耳のかたち、白くなった指先。皮膚の色は土気色で、目を閉じても顔立ちの整い方がかえって際立っていた。まるで人形みたいで、息の気配はどこにもなかった。冷たさの手触りがまだ指に残っている気さえする。
間違いなく死んでいる。そこに疑いの余地はない。
「しんだら、いっしょにできない」
幼い言葉でそう言って、しばらく動かなかった。
こっちはただ頷くだけだ。言っていることは当たり前。死んだら一緒にいられないなんて、誰でもわかる。
「つぎ。つぎ、さがす」 その声は、単なる続きの会話に聞こえた。次の方法を探す、という意味だと受け取ってしまう。
机の上には検索結果のページが開いたまま。死体処理の方法はどれも使えないと並べている。だから次を探す。そういうことだと理解して、何の違和感も覚えなかった。
6-3.
ドーナッツが立ち上がった。
「ドリンクおかわり」そう言って私の横を抜ける。狭い部屋だから、必ず触れる。 肩が軽く当たった。わざとじゃない。けど私は反射で声を出していた。
「触るな」尖った声。自分でもびっくりするくらいの強さ。
「わるいわるい」
あいつはそう言って、気にしたふうもなくドアを閉めた。ドアノブの音が乾いて響く。風が揺れる。冷房の冷気が動いて、部屋が広くなった気がした。
胸の奥に小さな泡が残る。むかつく。デリカシーがない。人をイラつかせるのが特技みたいなやつだ。出ていってくれて助かる。けどイライラは残る。
机の下から気配が動いた。影。尾がすべる。椅子の脚に巻きつくような音がした。
「つぎ。つぎ、さがす」
幼い声。私は頷いたけれど、指は止まったまま。キーボードの上で固まっている。画面の白が目を刺す。検索窓には「死体 処理」「肉 溶かす」と残っている。目でなぞるだけで吐き気がこみあげる。指先が汗で滑る。
なんで私がこんな単語を調べてるの。情けなくなって、違う言葉が口から出た。
「エルフって、死んだら葬式するの」
唐突すぎる。自分でも変な質問だと思った。逃げてると分かってる。けど止まらない。
机の下から小さな頭がのぞいた。黒い瞳がぱちぱち瞬く。首をかしげる。
「そうしき?」
「そう。みんなで祈ったり、歌ったり、墓を作ったり、燃やしたり」
「なに?」通じていない。ぽっかりと穴が開いたみたいな返事。
「じゃあ宗教とか。国とか。死んだらどうするって決まりあるでしょ」
「しゅうきょう?」首をかしげたまま。意味を持たない瞳。ただ私を映しているだけ。その空っぽさが逆に胸を圧してくる。
文化も儀式も、あの奇麗なエルフには残っていない。
「しんだら、いっしょにできない」
幼い声でそう言って、影は机の下に沈んだ。尾がしゅるりと消える。膝に冷たい風が触れた。
いっしょにできない。その短い返事がやけに重かった。残された私たちが勝手に決めるしかない。
パソコンの画面を見返す。火葬。土葬。スクロールすれば条例違反。通報。発覚。酸。アルカリ。劇物。注意。削除済み。
リンクを開いても、途中で動画は止まる。モザイク。警告。役に立たない。
骨はどうする。時間はどのくらい。薬品の量は。どこにも答えはない。わからない。わからない。送るほど、無理の二文字ばかりが浮かぶ。
背中がじわじわ冷えていく。
さっきまで「魔法があるから大丈夫」と根拠もなく思い込んでいた。根拠のない支えが、急に崩れていく。机の下がまた動いた。影がふくらむ。スカートの裾に冷たい感触。鱗。
反射で膝を閉じる。息が止まる。
黒光りする頭が這い出す。赤い瞳が瞬く。
「まほうつかい、なれ」
心臓が跳ねる。耳の奥で一拍。痛いくらいの音。
「は? いきなり何それ」意味がわからない。けど冗談じゃない。幼い声なのに拒めない圧。
「したい。はやく、なくす」
「なくすって何を」
「それ、できない」
短い言葉。糸がちぎれたみたいに繋がらない。死体? 電気代? それとも私? わからない。わからないのに、脈だけが速い。
影が尾を伸ばす。羽がふるふる震える。
「なれ。まほう」
繰り返される。息が浅い。手が汗でぬるい。
次の瞬間、指先に鋭い痛み。牙。突き刺さる。
「ちょ、なにすんの」
声が裏返る。影は止まらない。牙が離れると赤い跡。血がにじむ。小さな点。
机の上のペンケースを開ける。絆創膏。底に入れていたやつ。シールみたいに剥がして、指に貼る。白い布が指先を隠す。たったそれだけなのに、何かを封じ込めた気がした。
痛みは残る。絆創膏の下で、じんじんと。生きている証拠みたいに。
怖がるより先に、私は思った。さみしいから噛んだんだ。驚いて、怖くて。だから私に触れた。そう思えば納得できる。
パソコンに戻る。検索窓に「魔法」「呪文」。出てくるのはファンタジーゲームの攻略。厨二病まとめ。怪しいサイトのラテン語。くだらない。くだらないけど、他に何もない。何ページめくっても、現実に繋がる言葉は一つもない。
机の下は静かだ。絆創膏の下で赤い跡がじんじんする。指先だけが本当の印みたいに残っている。
私はマウスを握り直した。
葬式も文化もない。ただ処理しかない。
けど、この痛みだけは、どうしてもごまかせなかった。
6-4.
そのとき、ドアがガチャッと開いた。
視線が跳ねる。
ドーナッツが戻ってきた。コップを片手に持ち、黒い液体を揺らしている。氷が鳴って、炭酸の泡がぱちぱち弾けていた。
「ただいま。なんか話してた?」
何気ない声。
とっさに口をついて出た。
「こいつ、私に魔法使いになれって」
言ってしまった瞬間、背筋が冷えた。さっきまで半信半疑だった単語が、一気に現 実の重さを帯びる。言葉にしてしまうと、戻せない。
「いいじゃん、なっちゃえよ」
ドーナッツが笑って答える。まるで新しいゲームを勧めるみたいに軽い調子で。
「軽く言わないで」
「真面目すぎ」
「ふざけてる方が変でしょ」
言い合いになる。狭いソファ。肩が触れる距離。反論するたびに、体温が気になって仕方ない。
「大人ぶってコーヒーなんか飲んで。偉そうに」
「違うって。コーヒーとコーラ混ぜたやつ」
得意げな顔。コップを差し出す。
「美味しくなかったら、なんでも言うこと聞いてやる」
挑発的な声。にやにやして、こちらが断れないのをわかってる顔。逃げたら負け。そう思った。
ストローを口にあてた。
まず、炭酸が舌を刺した。細かい泡が一斉に弾けて、鼻に抜ける。次にコーヒーの香り。焦げた豆の苦さが喉の奥に残る前に、コーラの甘さが追いかけてきた。
混ざってるのに混ざってない。苦さと甘さが交互に広がって、思ったより癖になる。
鼻の奥に、香ばしさと人工的な甘い匂いが入り混じる。不自然なのに、妙に相性が悪くない。舌が混乱してるのに、もう一口ほしくなる感じ。
ストローを離すと、胸の奥に熱が残った。炭酸のせい。そう決めつける。
「まずくはない。でも、美味しいかどうかはわからない」
正直な感想を口にすると、ドーナッツがにやっと笑う。
「だろ」勝ち誇った顔。何に勝ったのかもわかってないくせに。
コップを返す。
でも、苦さと甘さがまだ口の奥に張りついて離れない。香りまで残ってる。
気にしなければいいのに、考えれば考えるほど気になる。嫌いじゃないかもしれない。
ドーナッツが当然のように、同じストローを咥えた。氷が鳴って、黒い液体が減っていく。
その瞬間、心臓が跳ねた。
間接。間接キス。頭の中で警報みたいに繰り返す。よりによってこいつと。よりによってこの距離で。よりによって同じストロー。胸の奥がじりじり熱い。
最低。ほんと最低。
話をそらすように言葉が出てくる。
「その味、どうやって決めたの」
語尾が強くなる。
「やっぱ美味しかったんじゃねえの。ちゃんと味見して、ベストな配合にしたんだぜ」
あっけらかん。つまり最初から自分が口をつけたやつを渡したってことじゃん。
「最低」
小声で吐き捨てる。最低。そう言うしかない。
胸の奥の熱は炭酸のせい。そう思い込まなきゃ、どうにかなりそうだった。
ソファの布がじんわり温かくて、汗の匂いまで染み込んでいた。ドーナッツの隣に押し込められて座っているだけで、まとわりつく熱気が肌に貼りつく。
それなのに、私の心臓はさっきから変なリズムで跳ねていた。
原因はわかっている。あのストローだ。
さっき私が口をつけたばかりのストローに、何のためらいもなくドーナッツが唇を寄せて、氷の鳴る音とともに液体を吸い上げた。
当たり前みたいな顔で。まるで何も起きていないみたいに。
馬鹿じゃないの。よりによってこの距離で。同じストロー。
あーあーあー。頭の中で警報みたいに鳴り響く。
顔が熱い。絶対に炭酸のせい。そう決めつけなきゃどうにかなりそうだった。
気づけば口が勝手に動いていた。
「魔法で、記憶とか消せない?」
横にいるドーナッツが、眉をひそめてこちらを見た。
「なんで」
図星を突かれたみたいで胸がざわつく。言えない。あのストローのことなんて。
「別に。ちょっと思っただけ」
睨むみたいに返した。言い訳みたいな言葉。
机の下で、鞄の影がもぞりと動いた。
「たぶん」
幼い声。短いのに、胸の奥を刺すほど重かった。返事に息が詰まる。できるのか。本当に。
そう考えた瞬間、コップが傾いた。氷が跳ね、黒い液体が縁を越えて揺れた。
やばい。こぼれる。
パソコンが隣にある。壊れたら弁償なんて絶対無理。その瞬間、液体だけが宙で止まった。炭酸の泡が弾ける寸前で固まり、透明な球のまま空中に散らばっている。
氷は光を拾って、宝石のように輝いたまま宙に浮かんでいる。
世界全体が止まったわけじゃない。ドーナッツの目は動いているし、外のざわめきも続いている。止まったのは液体だけだった。
「何、これ」
私とドーナッツが同時に声を出した。
耳の奥で心臓の音が響いた。指先が勝手に震える。
「したいように、つよつよにおもう」
机の下から幼い声が響いた。
意味はわからない。でも直感で理解した。念じろ、と。
喉が乾いて声が出ない。頭の中で言葉を刻む。戻れ、と。
宙に散った雫が細い糸を引いてつながる。磁石に吸い寄せられるみたいに、ひとつに集まっていく。氷も、コマ送りの映像みたいに向きを変え、雫と一緒に吸い寄せられる。
黒い筋がなめらかにまとまり、コップの口へすべり込んだ。最後の一滴まできちんと収まり、音もなく「トン」と机の上に置かれる。
コップが机の上に音もなく落ち着いたあと、空気だけが少し遅れて追いついてきたみたいだった。ペアシートの仕切りの上、薄い照明がじわじわ明るさを増す。隣のブースからはキーボードのやわい連打。天井の送風口が低くうなる。ここはいつもこういう音で満ちている。さっきまで気づきもしなかったのに、今はどれもやけに鮮明だ。
横を見ると、ドーナッツはコップを握ったまま口が半開きだった。声にならない「すげぇ」の形。頬の筋肉がゆるんで、目の奥だけが子どもみたいに光っている。何もしてこない。ただ浸っている。余韻に酔っている。あっさりしているくせに、こういう時だけ素直なのが腹立たしい。けど、悪くない。少なくとも今は。
背中がじっとりしていた。汗でシャツが張りつく。案外うまくいった。自分で思って、胸の内側がふっと軽くなる。思った瞬間、頭がくらっとした。酸欠みたいに視界が白む。でも、初めてでここまでできたんだから上出来だ。集中しすぎたせい。心臓がばくばくするのもそのせい。興奮だって理由がつけば怖くない。顔の熱さだってそう。魔法を使ったから。
別に、さっきのストローを気にしてるわけじゃない。舌に残った甘さと焦げの苦みは、ただの混合飲料のせい。そういうことにしておけばいい。
机の木目の上にはさっきの輪染みが残っている。濡れてはいないのに、そこだけ色が濃い。幻肢みたいな輪郭。指先でなぞると温度は普通。記憶だけが濡れている。視界の端には、宙で止まっていた雫がまだ暗がりの粒になって残っている感じがする。残像は好きじゃない。けど、嫌いとも言い切れない。上手にやれた証拠だと思えば、悪くない。
鞄の影が机の下でもぞりと動く。黒い眼がぱちっと光ったのが見えた気がして、すぐ逸らした。いちいち見返して礼を言うのも違う。私がやった。最後は私がまとめた。そういうことにしておきたい。エルフレンドは補助。私は本体。順番は大事。
ドーナッツはまだコップを持ったまま動かない。氷が静かに鳴る。吸わないから溶ける。コップの外側に水滴が生まれて、ストローの影が机に細く落ちる。その影が、私の喉にだけ届く。さっきの唇の形をまた思い出しそうになる。違う。思い出してなんかいない。炭酸の残り香がまだ胸を焦がしているだけ。本当に。
私は膝をそろえ直して、呼吸を意識してみる。吸う、吐く。薄い空気が喉の奥で引っかかる。酸素が足りない感じがする。けど、嫌いじゃない。体育のあとに味わった、あの変な快感に似ている。苦しいのにちょっと浮く。落ちそうなのに足は床を 掴んでいる。落ちていない間は勝ち、そういう理屈。
ドーナッツがやっと口を閉じた。肩が一度上がって、ゆっくり下りる。たぶん深呼吸。私の真似をしたのかもしれない。無言のままなのが、今は助かる。大丈夫かなんて言われたら、そこで私の負けが確定するところだった。
ペアシートの肘掛けには、さっき私が置いたノート。罫線の上に乱暴な矢印。圧縮機、冷媒、熱交換。図書館の記憶が重なって、さっきの液体の動きと同じ矢印で頭の中が満たされる。集まれと命じたら集まった。戻れと言ったら戻った。言葉の順番に世界が寄る感じ。これはたぶん、私の得意分野だ。式と手順と、穴の埋め方。誰より上手に並べ替えられる自信がある。さっきので確信した。だから顔が熱い。だから背中が濡れる。成功に反応しているだけ。別に、ただそれだけ。
布の匂いが立ち上がる。消臭剤と古い煙草の層の上に、コーヒーとコーラの匂いが薄く乗っている。鼻の奥がむずむずして、くしゃみが出そうになる。出なかった。代わりに胸の中で笑いが泡みたいに弾けた。こんな匂いの中で魔法だなんて、似合ってない。けど、私には似合う。そう思えば似合う。勝手に決めるのは得意だ。
ドーナッツがやっと短く息を吐いた。肩がほどける。コップを持ち直す。氷だけが音を立て、液体は動かない。さっきみたいに暴れない。従順。飲むのかと思ったけど、飲まない。彼はただ眺めている。自分で起こした奇跡みたいに大事にしている。違う、それは私の奇跡。彼が見ているのは、私が戻した液体。私の矢印。そこだけは声に出さないけど、はっきりわかる。
背中の汗が冷えていく。エアコンの風が背骨をなぞる。ぞわっとする。鳥肌が立つ。寒いのか暑いのか、体が判断を放棄している。いや、違う。腹の奥がじくじく重い。下に引っ張られる感覚。生理かもしれない。最悪。こんなときに。準備もないのに。
腰が落ち着かない。座っているだけで脚の付け根がむずむずする。太ももに変な力が入る。下着まで少し湿っている気がして、気づいた瞬間ますます気になる。誰も見てないのに、衣擦れの音や椅子の軋む音まで耳に突き刺さる。自意識だけが肥大して、勝手に恥ずかしがっている。
こういう時の私の癖は知っている。顔を洗いたくなる。冷たい水で、ごしごしやりたくなる。熱も、においも、頭に残った映像も、まとめて洗い流したくなる。もちろん流れない。わかってる。それでもやる。やった方がまだ整った顔を作れる。作れる顔は武器だ。明日のためにも。
「私、トイレ」
声が短くなった。わざとそうした。ドーナッツはいつもの調子で頷いた。簡単に。気にしていない。そういうところが無責任だと思う。こっちが必死で我慢してるのに。あいつがのんきだから、こっちまで変に浮いて見える。全部、あいつのせい。
立ち上がる。太ももの裏地がぺたりと貼りつく。湿りを確かめるみたいな感触。小さな音がやけに大きく響いて、恥ずかしさが一気に膨らむ。誰も聞いてないのに。裾をつまんで引き下ろす。布がふわりと浮いて、ほんの一瞬だけ呼吸が軽くなる。
通路に出る。エアコンの風がまた腰を直撃する。ぞくりと冷たさが走る。歩くたび、脚の動きがぎこちなくなる。意識すればするほど不自然になっていく。全部、ドーナッツが隣にいたせい。そうじゃなければ、こんな気分にならなかった。
6-5.
個室トイレのドアを押したら、中から「どぞー」と声が返ってきた。力の抜けた、間延びした調子。バイトの人特有の気のない声。
すれ違った瞬間、鼻の奥をつく強い甘さ。香水。砂糖を煮詰めたみたいなにおい。思わずむせそうになって、息を飲む。女はモップを片手に、そのまま私と入れ替わった。
狭いトイレ。家のトイレと同じくらい。いや、コンビニの方がもう少し明るいかもしれない。ここは照明がじりじりして、壁紙の色も少し湿って見える。息苦しさがあった。腰を下ろす。
下腹の重さ。最初は生理だと思った。でも違った。違ったとわかったのに、安心のはずなのに、心臓はまだどくどく速い。脈打つたび、耳の奥まで熱い。
さっきの女の顔が残っている。茶色が強すぎる髪。根元は黒で、染め直しを怠けたみたいなまだら色。銀色のピアスがいくつも並び、安っぽい光を散らしていた。
声もそう。のびた調子。抜けきった間。でもどこか攻撃的に聞こえる。柔らかいふりをした鋭さ。
偶然? そんな偶然ある? 都合がよすぎる。
特徴が重なりすぎる。
ゲーム機を奪った、あのバイクの女。そう考える方が自然だった。
でもここは店内。カメラがある。レジもある。人通りだってある。強引なことはしないはず。そう思わなきゃ出られない。思わなきゃ怖くて出られない。
同一人物って、まだ決まったわけじゃない。そう言い聞かせる。
蛇口をひねって冷たい水を顔にかける。頬を伝って首筋に落ちていく感触。鏡に映った顔は青白かった。思っていたよりも疲れて見えた。大丈夫。まだバレてない。まだ間に合う。そう信じるしかない。
通路に戻る。レジには太った男の店員が座っていた。無表情。首の後ろに汗をためて、スマホをいじっている。だるそうで、やる気がない。その無関心さに少しほっとする。
個室に戻ると、ドーナッツが動画を見ていた。暗い画面の中で黒い光がちらちら動く。
「いや、まって。これ」
影のような形が一瞬映っては消えた。胸の奥が冷たくなる。エルフレンド。逆光で潰れていても、あの輪郭を見間違えるはずがない。
ドーナッツは口元をゆるめて笑った。
「マジで誰かに撮られてんだなぁ」
肩を揺らして、楽しそうに。
可笑しい? どこが。ぜんぜん可笑しくない。笑う場面じゃない。
横顔を睨みつける。声を出したら喉まで熱くなりそうで、言葉にならない。
コイツは気づいていない。危険にも。映っているものの意味にも。危機感という言葉からいちばん遠い顔をして、ただ面白がっている。
胃の奥が焼けるみたいに熱くなった。掌にじっとり汗がにじむ。
「帰る」
吐き捨てるように言って、鞄をつかんだ。肩に掛けてドアを開ける。通路の奥には相変わらず太った男の店員。無表情で、汗を垂らしながらスマホをいじっている。会計は何事もなく済んだ。目も合わせず、機械的にレシートを渡す。その無関心さに救われる。
ドーナッツも慌てて荷物を抱えてついてくる。ぼこぼこに膨らんだバックの中には、エルフレンド。生きてるんだから、もう少し丁寧に扱ってほしい。
外に出る。真夏の熱気がまとわりついた。むっとする空気。息が詰まる。肩も脚も鉛をくくりつけられたみたいに重い。呼吸も遅くなる。
全部、ドーナッツのせい。そう心の中で繰り返す。繰り返さないと気が済まない。
追いついたドーナッツは涼しい顔で前を見ていた。さっきまでヘラヘラ笑っていたのに、今は何もなかったみたいな顔。
イラつく。あんたのせいで疲れた。余計なことばかりする。空気も読めずに笑う。勝手に得意顔する。体がだるいのも、頭が重いのも、全部そっちのせい。
隣にいるのが暑苦しい。けど、いないとそれはそれで不安になる。要するに最悪。
家に帰って布団に倒れ込む。体が重いのは夏バテのせいか。あるいは、あの炭酸まじりの変な飲み物のせいか。考えたくないから、そういうことにしておいた。
6-6.
鞄を放り投げて、ベッドに突っ込む。枕に顔を押しつけて、むふむふと吠える。布が口に張りついて、こもった声が自分の耳にだけ響く。息苦しいのに、やらないと落ち着かない。
足先を動かす。片方の爪先でもう片方のかかとを踏み、ぐいっと引き下ろす。布が擦れて、ぺたりと湿った音を立てて外れる。もう片方も同じように、じりじりと押し出す。ぱたり。二本の靴下が床に転がる。そこだけ小さく音が跳ね、部屋の空気に溶けていく。
部屋は静かすぎる。ぬいぐるみもポスターもない。机も本棚も整っていて、乱雑なものがひとつもない。整理された四角い空間の中で、私の呼吸や服の擦れる音ばかりが大きく聞こえる。静けさを餌に、頭の中が急に騒ぎ出す。
エルフの死体の処理。まだ調べきれてない。どうするのか。いや、どうにかするのは私。ドーナッツは早く立たず。そうに決まってる。
ゲーム機を奪った女。もうあそこに行かなけれ会わない。
エルフレンドが撮られた動画。あれだって、保護が甘いから。結局、全部ドーナッツのせい。
呼吸が速くなる。あの時のことを思い出す。宙に浮いたコップ。滴が止まった瞬間。喉が詰まって、息ができなかった。心臓が跳ねて、頭が真っ白になった。
したいように、つよつよにおもう。
あのとき机の下から聞こえた、幼い響き。あれがきっかけになったのは間違いない。
なら、同じようにやればいい。強く思えば。止まれ、じゃなくても。欲しいと思えば。
視線を靴下に投げる。
ふっと空気が揺れた。風なんてないのに。
布が擦れる音もなく、床から切り離される。二本の靴下が軽く浮いた。揺れながらこっちに寄ってくる。指先に触れた瞬間、鳥肌が立つ。冷たいわけじゃない。音がなかったからだ。普通なら擦れるはずの布の音が、どこにもなかった。
「やっぱり魔法」
つぶやいたら、笑いそうになる。よりによって靴下。世界を救うでもなく、敵を倒すでもなく、足の汗を吸ったやつが飛んでくる。
すごいのかしょぼいのか、判断がつかない。
二本をくしゃっと丸めて椅子に置く。
「あとで、水責めの刑」
罪状はドーナッツ罪。指先の絆創膏に気づきもしなかった罪。
私の小さな傷なんて、あいつにとってはどうでもいいんだろう。隣にいても、気づかない。見ようとしない。
その無神経さごと、靴下に背負わせる。
靴下はただの替え玉。関係ないのに、罰をかぶらされる。でもそれでいい。私にとっては、ちょうどいい。
ベッドにばたりと大の字になる。
腕も脚も広げて、シーツに押しつける。
だらしない格好。けれど、体が沈んでいく感覚に少し笑えてくる。
疲れた。体も頭も。
これもぜんぶドーナッツのせい。
あいつのせいで魔法に巻き込まれて、あいつのせいで靴下まで罪をかぶる。
「これじゃ正義の魔法少女じゃなくて、悪い魔女だ」
天井を見たまま、変な笑いが小さくこぼれた。
その笑いの余韻の中で、ふと指先に目がいった。白い絆創膏が、まだ残っている。角は少しめくれて、薄汚れてきている。けれど剥がす気にはならなかった。
布の下にある赤い点。もうふさがっているはずの小さな傷。
けれど私にとっては、それが証拠だ。魔法の印。ドーナッツ罪の刻印。
罪をかぶったのは靴下。けれど本当の証拠はここに貼りついたままだった。
私ひとりの秘密みたいに。
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