精神科ミステリー『クボタユリナ』
波多野ほこり@ミステリー
第1話
2025/08/05 14:56
「お電話代わりました。こちら精神科受付です」
『あの……予約を取りたいんですが……」
「かしこまりました。初診でいらっしゃいますか?」
『いえ、でも、久しぶりなんです』
「それでは、お名前をよろしいですか?」
『クボタ、ユリナです。診察券番号は2、0、3の5、5、7、9』
「お調べいたします。…………申し訳ありません。当院のデータベースに情報がないようです。初診での扱いになりますが、ご予約なさいますか?」
『……あ、いえ、結構です………………』
ガチャリ。これで何度目だろう。
週に一、二回のペースでかかってくるイタズラ電話。クボタ・ユリナ。診察券番号は2035579。生年月日を尋ねられると1997年12月15日と答える。何度もかかってくるから、覚えてしまった。
うちは総合病院の精神科だ。内科・外科などの入った第一棟とは別の棟に入っている精神科外来は、どこか隔離施設の様相を呈している。いや、実際にはたぶん隔離が目的で別棟として独立しているのだろう。
時計を見る。午後三時前。この時間はだいたい、受付は私一人になる。午前中はもう一人、私と同じパートの職員さんがいるけれど彼女は午前のみのシフトで働いている。お子さんがまだ小さいらしい。
いつもなら、奥の事務室で課長が入院患者の情報と小難しい顔で向き合っているけど、今日は会議で出払っているので正真正銘、私一人だ。
今日のこの時間は、特別暇だった。午後は主に入院患者の面会や入院費の支払いなど対応するのが通例だが、今日はどちらの来訪もなく、午前中に残した仕事をダラダラと片付けていた。
「あああ〜、あついなあ〜」
来た。ウィン、という音とともにしわがれた声と踵を擦るような足音が聞こえる。入院患者の岩清水義郎さんだ。毎日、病棟から中庭を通ってここまでやってくる。
「おねえさん、水をくれませんか」
「はいはい。お水ね」
事務所の冷蔵庫へ向かい、岩清水さん専用のペットボトル水を取り出す。本来、いち受付事務員がこんなことをする義理はないのだけど、この人は水を出すまで帰ってくれない。
病棟に相談して購入してもらったものをこちらで預かり、提供する決まりになっている。
「ああ、悪いねえ」
これまた岩清水さん専用のコップに冷水を注ぐ。カウンターを迂回して岩清水さんにコップを手渡しに行く。———精神科の受付にはこちらとあちらを隔てるアクリル板があるので、カウンターから直接手渡すことが出来ないのだ。
キャップ帽を脱いで禿頭を軽く下げ、会釈をする。悪い人ではないんだろう。
「ウチの孫がねえ、弁護士を目指しててねえ」
嘘である。病棟の看護師が言うにはこの人には孫どころか、子供もいないらしい。
「法学部の勉強が難しいんだってね。毎晩泣きながら電話をかけてくるんだよ」
この人は携帯電話すら持っていない。入院するときにそういったものは取り上げられるからだ。
彼の身の上話には、大きく分けて三パターンの話が存在する。『孫』パターン、『息子』パターン、そして『独身』パターン。もちろん独身が正しいのだが、架空の孫と息子はいったい何が由来の妄想なのだろうか。
うんうん、とPCで入力作業を進めながら適当に返事をする。岩清水さんは自分がしゃべりたいだけなので、楽だ。それらしく相槌さえうっておけばよい。
「お水、ありがとうねえ。助かったよ」
しゃべりながら、飲み込みきれなかった水が口の端から垂れている。
「岩清水さん。水、こぼれてる。ティッシュどうぞ」
「え、ああぁ、すまないね」
ヘルパーさんじゃないんだけどな、私。内心ため息をつきながら、それでもシカトしきれない性分にも、呆れる。
「んで、うちの孫がねえ」
「法学部なんでしょう?」
「そうそう、話したっけか?」
「さっき聞きましたよ」
おれもぼけてきたかなあ、とか言いながら、口元を拭ったティッシュを丸めて、受付足元のゴミ箱に放る。
「ユリナってんだよ」
「はい?」
「ウチの孫。クボタ、ユリナ。娘んとこの子供なんだよ」
一瞬固まってしまう。いったい、なんの冗談だ?
「もしもここに来てくれたらさあ、声かけてやってくれよ。義郎のじじいは、四病棟の三〇七号室に入院してるって」
お水、ありがとうね、とコップを置く。私の名札を指差して「おねえさん、木崎さんってのか。親切にしてもらったんで、あとで礼を送るから」と笑ってみせる。ちなみに、お礼とやらが送られてきたことは一度も、ない。
ウィン、と音がして、「ああぁ〜〜、あついなあ〜」という声とともに消えていった。
*
2025/08/08 15:04
「お電話代わりました。精神科受付でございます」
『あの……、予約を取りたいのですが』
来た。岩清水さんの架空の孫の話を聞いて思ったけど、この人はいつも『予約』としか言わない。
「すみません。予約というのは診察のご予約でしょうか? それとも、入院患者様への面会のご予約でしょうか?」
なにも診察の予約とは限らないのではないか。面会の予約は通常、病棟に直接電話が回されるルールになっている。面会の予約のつもりなのに、『予約』としか言わないせいで外来の受付に電話が回ってきてしまっているのではないか、と推理したのだ。
『あ……えと』
電話の主がたじろいだ。今までと違う展開だからだろう。
『面会の、予約です』
「面会ですね。患者様のお名前、よろしいでしょうか?」
きた! 初めての進展に少なからず、胸が高鳴る。
『……ナです』
「はい?」
『クボタ、ユリナです。診察券番号は……』
頭がはてなでいっぱいになった。クボタユリナはアナタでは? と言いたくなるのを我慢しながら、初めて聞くていで診察券番号の詠唱を聞き流す。
「え、えと、そのような患者様は入院しておられませんが」
念のため、入院患者一覧を確認して伝える。PC画面の時間を確認すると15:08。時刻はいつもと大差ない。
『…………』
プツ。ツーツーツー……
しばらくして、電話は切られてしまった。
結局、ただのいたずら電話なのだろうか……。
カチ。カチ。カチ。
無音の空間に、時計の秒針の音だけが響いていた。
*
2025/08/13 14:19
「こんにちは、どうも、お世話になってますぅ。本日もよろしくお願いいたしますう」
きつい香水を漂わせながら受付に訪れたのはボランティアの丸山さんだ。
「ああどうも、来院者名簿にお名前と体温のご記入お願いいたします」
正直、私はこの人が苦手だ。理由は香水だけじゃない。のっぺりと貼りつけたような笑顔。粉っぽすぎるベースメイクに唇だけ浮いて見えるバラ色のリップ。細かすぎてチリチリに見えるパーマのかかったセミロングに、変な花柄のワンピース。エスニック柄とかいうやつだろうか。
『傾聴ボランティア』という肩書きで隔週の水曜日にやってくるこの人は、すべてがうさんくさい。
一応カウンセラーか何かの資格も持っているらしいけど、どちらかというと占い師のような見た目をしている。
「こちら入館証です。本日もよろしくお願いいたします」
うやうやしくお辞儀をしながらやたらと丁寧な手つきで入館証を受け取ると、彼女は迷わずにつま先を病棟のほうへ向けた。
「ああ、そうだわ」
「今日はクボタさんの命日よね? わたし、お供えをお持ちしたのだけど、病棟の方に直接お声かけするのがよろしいでしょうか?」
そういって、手元にぶら下げた袋———中の箱の大きさから察するに、中身はゼリーや菓子のたぐいだろう———を見せてくる。
「ああ、受付ではそういうの把握してませんから、看護師さんに訊かれるのがよろしいかと」
「そうよね。すみません。どうもありがとう」
一重のまぶたをアーチ型に細めながら会釈をして、丸山さんはふたたび歩き出した。
———丸山玲子。体温36.5℃。
残り香に思いきり顔を顰めながら来院者名簿を下げる。一人だけ筆ペンで書いたかのような優雅な書き文字は、さながら習字の先生のようであった。
*
2025/08/13 15:45
「ちょっと、どうなっているの、この病院は!」
ウィン。金切り声を上げながら入ってきたのは、入院患者である桜庭誠さんのご母堂だ。
「ウチの息子がね! 看護師にいじめられたって言っているの!」
細く、小さな身体ながらも肩を怒らせ鬼気迫る表情で怒鳴り散らすようすはチワワの威嚇を想起させる。
「ですからお母さま、きっと何かの間違いですと———」
あとから大慌てで桜庭・母の後ろを追いかけてきたのは看護師の山中さんだ。ニ年目くらいの若いナースで、どうやらまだまだクレームの処理は不得手のようだった。
しかし、山中さんの言い分は当然だ。何故ならば———
「ウチの子が病気で寝たきりだからって! 何も言い返せないとでも思っているんだわ!」
今、ご母堂のおっしゃった通り。桜庭誠さんは脳性麻痺を抱えた患者であり、長年の臥床生活によりすっかり衰弱してしまっている。以前、外出のイベントで連れ出されている本人をちらっと見かけたが、大きな車椅子に横たわってただ空を眺めているだけだった。今では話すことにも困難があり、意思の疎通はかなり厳しいのだそうだ。
当然、看護師にいじめられたなどの事実を本人が訴えることは難しいといえるだろう。
聞いたところによれば、この母親のクレームがあまりに激しいせいでいろいろな病院を転々とさせられ、最終的にウチに落ち着いたのだそうだ。
「あのですね、お母さま」
「うるさいわね! アンタに何がわかるのよ! 責任者を出しなさいよ!」
カウンターをしわだらけの手でバンバンバン! と叩きながら全身全霊で。こちらを威嚇する。
「ウチの子はね、クボタって看護師にいじめられたって言ってるの!!」
間違いないわ! と鼻を鳴らす。
「ですがお母さま、クボタという看護師はウチには……」
一瞬、固まってしまった。クボタ? そんなまさか。
「失礼ですがお母さま———クボタという看護師の、下の名前はお聞きになっておりますか?」
思わず尋ねてしまった。拍子抜けしたチワワの後ろで、山中ナースも不思議そうな顔をしている。
「下の名前? ユリだか……ユリカだか、ユリナとかいったわよ」
おかしい。うちのスタッフは事務員も医師も看護師も、共通の様式の名札をつけている。しかし、名札には苗字しか記載しない決まりになっているのだ。
山中ナースも同じことに気がついたのか、自分の名札を確認して首を捻っている。
結局、モンスターペアレントはいち事務員では討伐できず、総務に回収されていった。
「……大丈夫ですか?」
ものの数分でげっそりと痩せてしまったように見える山中ナースに声をかける。
「ええ、平気です……。あの人の被害妄想も、べつに今日に始まったことじゃないですし」
たぶんあの人もココ、来ちゃってるんですよ———山中ナースが自分の頭を人差し指で二回、トントンと叩きながら顔を顰めた。
桜庭誠さん本人が五、六十代なので、その母親ともなればボケ始めていても変ではない。
「それより」山中ナースが不思議そうに尋ねてくる。
「クボタユリナ…さんの話、ご存知なんです?」
なんと、山中ナースはクボタユリナを知っているのか。
「いや、最近よく聞く名前なので、気になって。山中さんは何か聞いてます?」
すると山中ナースはキョロキョロと周りを確認してから、手招きで私を呼び寄せる。
「実はね……」
*
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