愛を込めて花束を揮う

固定標識

【前置き】春嵐吹く

 個人的な取り組みとして通っているボクシングジムには、数十名の見知った会員がいるので、僕は彼らに『何故身体を鍛えるのですか?』と訊いた。

 何人かは健康の為だと答え、何人かは正直にモテる為だと答えた。残りの二人はとある有名なボクサーに憧れて、俺もこの人みたいに強くなりたいと息巻いた。その割合は7:2:1で、中々公正なデータだと思う。

 けれども僕の期待していた答えは、ついぞ誰の口からも吐き出されなかった。僕は悲しむ。雨のように。真綿の檻の中で、一つずつ斜線を引いてゆく。

 僕はヒロイックで愚かしい解答がとても、とても好きだ。そういう人間に幸せになって欲しい。そして幸せとは、糸篠ユウと共にいることだ。


 現代社会において、守るという行為は形骸化している。

 誰もが大切な物を守る為に頑張ることは、勿論あるのだけれども、それは手中に収め獲得する為の手段の途中行程であって、損得勘定にツケが利いた場合に、己を粉にして粉塵烈火と奮闘するのは難儀で愚かしくて、救いようの無い変人と見なされる行為なわけだ。

 つまりは相手の幸せの為に誰かを守る奴なんて、この世にいない。

 僕はこの世に一人くらい、『誰かを守る為に強くなりたい』人が、いて欲しい。 


 ──────────・・・


 眼前にて僕の悪口をやたらめったらに品定めもせずに店先の口先にとんとんと羅列しては叩き売りに精を出す、商魂もしくは性根の逞しい、見た目の良い女の名前は糸篠ユウと言う。その至上に清廉かつ嫋やかな風貌から、初めて彼女を見た通りすがりの彼や彼女なんぞは、卓上に山のように積み上がった最早ぬるいグラスが彼女の野蛮を暴いたのか、などと、ことも残念げに嘆息し、更には彼女と対面するこの冴えない男は如何ほどにクズ野郎で、聖人が如き美女・糸篠ユウの不興をわざわざ買うようなロクデナシなのだろうと憤懣やるかたないのかもしれないが、別にそんなことは無く糸篠は通常走行からこの攻めたハンドリング具合である。

 何がそんなに気に入らないのか、糸篠はやはり僕の悪口をくだくだと呪詛のように吐き連ねている。末期にまで及ぶ彼岸花の群れが如き悪意に満ちた文言も、糸篠の唇から齎されればまるで楷書の祝詞に聴こえてくるのだから人間の見た目という奴は現金で厄介だ。追加でタン! と高い音をたてて叩き付けられたグラスは、美人の口づけに涙を流して喜んでいる。結露かもしれない。

 ここで一つ挙手して証言しておきたいことは、彼女と僕は友人であって、敵対関係とか爛れた関係とかそういうアハンウフンでは一切無いということだろう。

 それを踏まえたうえで彼女の言い分に耳を傾けてみると、まるで僕が大嘘吐きのように思えるから不思議である。

『お前はバカでのろまで愚図で判断が遅く大切なものを今に取り逃すしそれで一生後悔する羽目になる可哀そうな奴だが私はカワイソーとは思ってやらないね。何せ己の咎の不始末を他者から同情されることほど惨めなことも無いからだ。嗚呼私は優しいな。私ほどやさしい女性に出会ったことがあるかね、無いよね。そうだよ無いよ。お母さんよりも私の方が優しいよね。姉とか妹はいないらしいし、いたとしても君みたいな奴には厳しいだろうさ。身内というモノは一番批判的で然るべき間柄だ。だから血の繋がらない、血の繋がらない私が、世界で一番、君にやさしいんだぜ』

 どうして未来の後悔にまで口を出されねばならないのか、甚だ不本意ではあるが、彼女の指摘はもっともなので、僕も愚痴はグラスの中身と交換に虚空に投げ捨てるわけだ。

 しかし僕の黙秘などというものは、糸篠ユウの前には完璧に無意味な障子紙であったから、ねちねちと、その指先はこの狭い額をぐりぐりした。【きりもみ式火起こし】という言葉が脳裏の庭で跳ねる。

 こいつは、言い返せない悪口が剣であることと、それによって抉られた胸のどきどきは恋なんてメじゃないくらいの不整脈であることを知らないのである。

 人は挫折し、失敗し、己に出来ないことを知る。他者と比べて己は駄目だ、馬鹿だ愚かだと懊悩して、そのおかげで他人の心に敏感になれる。今の僕のように。故に思うに、他者にやたらめったら厳しい輩というのは、失敗したことが無いか、失敗を自覚したことが無いかの二択である。

 そして常識に捕らわれない自由の姫君・糸篠ユウは、第三の選択肢として、その盾と矛を両手で持って突撃する才能あふれる愛すべきバカなのである。



 糸篠は全身隈なく美の女神に祝福された素晴らしい御姿の女性であるから、とてもモテる。貧相な語彙の導き出した文章には埃が積もっていて、つい溜息を吹きかけて遣りたくなるが、とてもモテると言うのは、とてもモテるという意味だ。それは老若男女を問わないし、問えない。恋とは自由の言い換えでもあって、誰かが誰かを好きになることは止められない。

 まるで地球が──世界が、糸篠ユウを中心に回転しているかのように、彼女は誰からの視線も拒めず、同時に愛を拒めないわけである。が、けれどもそれを糸篠本人が唾棄している訳だから、なんとも世界という奴は強情で、糸篠ユウは不自由で上手く行かない一個人である。決して彼女は神様なんかではない。

 ではどなたなのですかと問えば、糸篠ユウは華の女学生。二十歳にして二次青春期真っ盛りの花弁を撒いて散らす乙女なのだ。(性別以外は僕も同じなのだけれど、僕と糸篠を比較したら彼女という天体の質量は瞬く間に僕を吸い込みぺちゃんこに潰してしまうから、つまりは比較など意味を為さない)

 故に彼女に言い寄る男は後を絶たず、その度に彼女はストレスを募らせながらもやんわりと断るわけだが、中には『恋は自由』という人類の標語を履き違えて、地べた這いずりながら糸篠への愛を囁く輩もいる。

 そんな変態どもに、糸篠は勝負を仕掛けるわけだ。

 変態側で勝負事の内容は決めて良い。その勝負事に対して糸篠ユウは逃げも隠れもせずに立ち向かう。糸篠が敗ければ彼女は大人しく恋人になり、糸篠が勝てば変態は二度と彼女の視界に入ることは許されない──

 おいおいって感じだ。糸篠さんって奴がどれだけ自信家で才女なのかは知らないが、相手の土俵でわざわざ戦うなんて敗けに行くようなもんじゃあないか、と思ったその辺のオーディエンスごと吹き飛ばす勢いで糸篠ユウは完勝する。鼻の下の伸びきった変態を完膚なきにまで叩きのめし、二度とお天道様の下を歩けないくらいに辱めるのである。

 そんな面白い話は燎原の火の如く町を駆け巡り(事実、昨今の暇人学生の心は乾燥しきっているわけだが)、今では『糸篠ユウの恋人になるためには、彼女を打ち倒さねばなるまい』という共通認識が蔓延している。実際そうなのだが、面白がって彼女に勝負を挑む奴が増えたのは問題だ。如何に天才糸篠ユウと言えど、連戦に継ぐ連戦で体力を消耗しては、何時しか敗北を喫することになる──などというご心配を何処吹く風と踏み潰して、彼女は今日も朝から料理対決、釣り対決、早寝対決、読書対決、登山対決、呑み比べなど錚々たる(散々たる)面子を正面から打ち破って未だ独り身の孤高の姫君だ。

 僕の席の隣で白目を剥いて倒れている三年生も、呑み比べに敗北した可哀そうな変態の一人であった。


 糸篠は別に恋人が欲しくないわけではないらしい。

「あー彼氏欲しい……」と何度も酒の席で聞かされたし、僕はその度に「適当な勝負に敗ければいいじゃねえか」と返すわけだが、彼女は断固「私より弱い奴なんて御免だよ」と新たに酒を煽るわけである。

「自分の土俵で戦わせてあげてるのに、それでも勝てないなんてふざけてるでしょ」

 糸篠の呪詛に僕の眉は歪む。勝負の世界は非情だとして、敗者に鞭打つのは勝者の権利ではないのである。僕は咳を一つ打つ。酒でまるくなった心の器が、ほろりと中身を零しやがる。

「糸篠。自分にとっては一番でも、他人からしたら違うなんてよくあることだ」

「私は一番の分野なんて言ってないんだよ。私の苦手な分野で攻めてこればいいのに、でもみんな自分の得意な分野で挑んでくる。それで敗けたら何も残らないじゃない」

「みんなその先を見据えてるんだよ。君の弱点……在るのか知らないけど弱点を、よしんば突いて勝負に勝ったとして、誰が胸を張って糸篠の恋人を名乗れるってんだ。みんなお前に認められたいんだよ」

 だから全員が己に誇れる分野で糸篠に挑み、粉砕され、心ごと手折られては再起不能のけちょんけちょんに臥されるのである。

 僕の言葉に、糸篠は酒で茹った頭を改めて少しだけ回すように虚空を見つめてから、まるで頭上に豆電球でも灯ったみたいに喜ぶと、五歳児が甘える姿勢でうれしそうに笑う。

「脳みそがロマンティックね」

 間違いなく誉め言葉では無かった。

 


 以上の是々から理解されるように、糸篠ユウとは誰も寄せ付けず、孤高を気取る寂しがり屋のお姫様なわけだが、では僕は何者なのだ、というのは糸篠に興味を持った人なら誰しも等しく抱く疑問だと思う。

 彼女が月華燦然と輝く我儘なかぐや姫ならば、僕は路傍の石である。無論地球の石ころであって、かぐや姫には程遠い。

(路傍の石というのは、何かしらの事態に対して、ちらっと視線をくれてやるだけで何もしない、怠惰とか怠慢とか、そういう分かりやすい人類の罪を背負っている癖に、何やら積極的に事態に干渉しない自分を賢者か何かだと思い込んでいる、脳みそのハッピーで、糸篠が言うにロマンティックな奴である。換言すれば傍観者とも呼べるだろう。

 そいつらの脳という奴は、楽で甘美な情報を可能な限り吸い込めるようにと食器用スポンジよりもスカスカで、文学性を一ミクロンたりとも秘めない文学部に向かない人種である──人種って単語はまずいのかもしれない。つまりは僕と糸篠ユウはまるで方向性の違う人間であるということが分かれば以上の駄文は読み飛ばしてもらっても構わないわけだがだったら先に書くべきだった──【注意書き】と太字で囲めば目立つだろうか。【注意書き】【注意書き】、【注意書き!】これでいいだろう。)

 ところで僕なんぞよりも糸篠の話がしたい。と言うかするべきなのだ。物事には優先順位が在る。レストランでハンバーグを注文して、付け合わせから食べる奴がいるだろうか? 結構いそうなので違う例えを探そうとしたが見つからなかった。先ほども述べたが僕らのような奴は文学性を秘めないので吐くべき言葉を間違えることも少なくないのだ。

 糸篠ユウを一言で例えるならば、【台風】だろう。

 近づくもの全てを巻き上げて、心も巻き上げて、てっきり拾い上げて何処か夢幻の世界へ連れて行ってくれるのかと思いきや、いきなり路傍の石その壱に腐してしまう大自然の脅威だ。彼女と出会った瞬間、凡百の連中は運命の邂逅であると頭から信じるし、誰もそれを疑わない。自分の運命の相手は糸篠ユウで、彼女に会うまでの人生は全部茶番であり、彼女に出会っていなかったから自分は不幸だったのだ、などと終いには己の無能と不幸の理由に糸篠を使いだす始末である。

 では、台風の威力から上手いこと逃れるにはどうすればいいだろう──?

「ねえ聴いてる?」

「聴いてるよ。何の話だっけ」

 殴られた。でも痛くない。痛くできるのにしないのだ。酒の水面に浮かんでパヤパヤしている糸篠は、水底にでも届くような長いブレスを吹いた。それから呆れたように視線を僕から遠ざけて、つまらなそうに喋る。

「本当に君という奴は可哀想だよね。こんな綺麗な女の子とお酒を飲んでいるのに、まるで上の空だ。飛んでるんじゃないの?」

「そうかもなあ」

 僕が笑うと、糸篠は大きな目を不機嫌そうに尖らせた──多分、見たことは無いがエメラルドとかサファイアとか、そういう宝石を砕いたら、こういう風に死にながら、宝石の悲鳴を上げるのだろうな、とか想像させる美しい瞳だ。星影が散らばっていないのが不思議なくらいに真っ暗な夜の瞳なのだけれども、青とか緑をよく反射する不思議な眼で──などと見惚れているとこの時間が速攻で過ぎ去ってしまうので、僕は再び僕のつまらない妄想とモノローグの湖面へと頭から入水しようと思う。

 そう、眼なのだ。

 台風の眼に飛び込めば、そいつは大自然の威力から逃れられるし、人生に晴れ間を見出すことだって出来るだろう。だから僕は糸篠の側にいる。偶然にもそこにいることが許されたのだ。だから真横で、出来るだけ中心付近で彼女の脅威から逃れ続けるのだ。

 僕には、彼女の悪口が、残念なことに一切思い浮かばない。突くべき弱点が皆目見当たらないのだ。故に、弱点を突いた勝負などはそもそも僕には叶わない。

 僕は生涯、糸篠には勝てない。だから僕は傍観者であることを選んだのだ。

 けれども時として状況は、僕を傍観者でいさせることを拒み、人を火中へと繰り出させる。

 時としての状況は、例えば今みたいな状況を指すのだろう。


 すっかり機嫌を悪くした糸篠を家まで送る。彼女は一人暮らしの学生には分不相応としか言いようのないお屋敷に一人で住んでいるギャグみたいなお嬢様で、僕みたいなみすぼらしい奴は、例え糸篠本人に『飲み足りねーぞコラ』とヘッドロックを掛けられようと入る気にはならないので、家政婦さんに後を任せて、その巨大な家屋の影を見上げてバイバイと手を振る。

 そしてつまらない家にでも帰ろうとした瞬間のこと、物陰から物騒な目付きの男が飛び出して来た。僕は咄嗟に身構える。男は乾いた声で叫ぶ。

「砂藤くん!」

 如何にも僕は砂藤くんだが、僕はあなたに名を知られるようなことがあっただろうか、そして声色は朗らかに整えてはいるが、こめかみに青筋を浮かせて、瞼まで痙攣させるほどの禍根を残しただろうか。思案する。と、パっと閃く。

「ああ、朝に料理対決で糸篠に塩だけでボコられた……青山さんでしたっけ」

「惜しい。青島だ」

「はあどうも」

「良い夜だとは思わんかね」

 どうも話が通じない人らしい。

「良い夜っすね」

「そうだろうね君にとってはね。何せ糸篠さんとお酒を飲んでいたわけだから、それはそれはもう有頂天って感じだろう」

「そうですね嬉しいです」

「じゃあもっと喜ばんかい……冗談じゃない。冗談じゃないぜ、君のポジションって奴はね、この町の男、いや男だけじゃない。全員が狙ってるんだぜ」

 盛った嘘でも無さそうなのが恐ろしい。だが、この瞬間に一番恐ろしいのは青島さんだ。少なくともばったり偶然会った訳ではないだろう。尾行されていたのならば気づいて然るべきだった、などと自省する余裕は恐らく残されていない。

 糸篠とは比べ物にならないドブのような瞳が僕を睨んでいた。

「砂藤くん。俺は君に勝負を挑む」

「競技は?」

 青島は握った拳でもう片方の手のひらをアタックした。

「一対一、拳の勝負というのはどうだろう」

 

 そう言えば何故僕がジムに通っているのか、という問に答えていなかった。

 傍観者という立場はとても脆い。

 例え僕が糸篠と付き合いたいだとか、そんなことを微塵も思っていなくとも、周りの人間は勘違いするし、僕のことをスカしたクソ野郎だと思って勝負を仕掛けてくる。別に、勝ったら糸篠が手に入るわけじゃないし、僕に挑んでくる奴の大半は既に糸篠に敗北を喫した奴がほとんどなので、彼らはもう、二度と糸篠と親密になる機会は無いのだ。

 けれども糸篠ユウを好きなことと、糸篠ユウに勝ちたいこと、糸篠ユウに好かれたいことは、全てが同時に成立する。成立することを、僕は誰よりも知っている。そして上手く行かない世界に対して、ヒトがそのスケールで行うことの出来る反逆行為というものが──大抵の場合に他者への危害へと繋がることも、僕は知っている。

 これは憂さ晴らしである。

 そして理不尽な暴力という奴は、大自然の脅威とはまた違って、ヒトを狙って殺めに来るものだから

 誰にも拒否権は無い。





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