第2話 秘密の歩道橋

 病院のエレベーターはいつも混んでいる。

 私は母の枕元で「また明日ね」と言い、階段で下へ降りた。夜の面会時間は短くて、あっという間に終わる。

 帰り道は心細い。制服姿の学生が談笑しながら前を歩いていくのを見送ると、胸がざらざらする。


 家に帰れば、ひとり。母がいない部屋は広くて静かで、かえって落ち着かない。

 だから私はまた、歩道橋へ足を向けた。


 欄干の向こう、夕陽がまだ残っている。

 そこに、やっぱり彼がいた。制服の少年——真夜。今日はポケットに手を突っ込み、無言で煙草を転がしていた。


「禁煙、してないんだ」


 怒りというより、ため息のような一言だった。


「まーね。うち、父親がよく吸うからさ。パクってんの」

「……盗みもやってるんだ」

「カートンで買ってるから、バレないし」


 あっけらかんとした口ぶり。 「カートン」って何か分からないけど、それよりも引っかかったのは──その言葉。


「私、父親いないから。……なんか、イメージできないんだよね」


 言わなくていいことなのに。また口にしてしまっていた。


「……楽そうで、いいな」


 真夜は笑っていた。でも、その笑顔がひどく雑で、目はまるで笑っていなかった。


 何か言いかけたけれど、結局、言葉は見つからなかった。


 歩道橋を、小さな子どもが駆け抜けていく。「走っちゃだめよ」と、母親が後を追いかける。私たちは、何も言わずにその光景を見送った。そのとき、真夜がふいに言った。


「……母親って、どんな感じ?」


 唐突すぎて、息が止まる。私は手すりを強く握りしめた。母の顔が浮かぶ。点滴の管を引きながらも笑ってくれる姿。


「やさしいよ。すごく。毎日お見舞いに行ってる」

 自分でも驚くくらい、ぽろりと続けてしまった。


「そっか」

 真夜は小さくつぶやいた。表情は変わらない。でも声色は少し柔らかい。

「……お大事に」


 それだけ。

 わざとらしさのかけらもない声だった。その一言が、じんわりと心に染みた。


「……真夜の母親は?」

 勇気を出して聞いた。返ってきたのは、乾いた笑い。


「うち? 勉強と成績と進路の話しかしない」

「厳しいんだ」

「厳しいっていうか……管理だな。俺の人生、全部決めたがる」

 

 真夜は真夜で、苦労している。そんな当たり前のことに、今さら気づいた。

 私は欄干に手を置き、つぶやいた。


「ね、真夜。……私、透明なんだ」

「は?」

「みんな制服着て、進学して……私だけ止まってる。誰も気づかない。透明人間みたいで」

 声が震えた。涙が出そうで、必死にこらえる。自分でも、なんでこんな話をしたのか分からない。


 真夜はしばらく黙っていた。やがて、欄干を軽く叩いてから言う。


「透明なら、俺には見えてないはずだろ」

「え……」

「見えてる。だから、透明じゃない」


 さらりと言っただけ。でも、その一言に胸が熱くなる。悔しいけれど、救われた。


「じゃ、行くわ。塾あるから」

「また塾?」

「行くだけ。寝てれば終わる」


 彼は階段へ向かい、振り返らずに手をひらりと上げた。


「奈央ちゃん」


 名前が耳に残る。

「今日ヒマ?」

 いつの間にか、友達みたいな口ぶりだった。


「……いつもヒマだけど。喧嘩売ってる?」

 軽く返すと、彼は吹き出した。


「あっは、なにそれ。おもしろ……なあ、カラオケ行かない?」

 その誘いに、思わず目を丸くした。


「え。やだ」

「答え早すぎだし。けっこう傷ついたわ」

 そう言いつつも、まったく傷ついた様子はなかった。


「……じゃあな」

「バイバイ」


 青空の下、私たちはそれだけ言って別れた。明日、また会えるかなんてわからない。でも。


(……カラオケ、行ってみようかな)


 心のどこかがざわざわと揺れていた。

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