殺意症候群

広野鈴

第1話 ハンマー男

 ガラララ、ガララララララ……。


 雨が降る夜の田舎町。頭陀袋を被る背の高い中年男性が、重たいハンマーを片手で掴み、アスファルトを引き摺(ず)りながら歩いている。


 殺意症候群(さついしょうこうぐん)――強い殺意に蝕(むしば)まれ殺戮(さつりく)行為に及んでしまう異常症状の総称。発症者は常軌を逸する残虐性と肉体の限界を超えた運動能力から“怪人”と呼ばれた。


 ◇


 まゆ: 傘、駅まで持って行くね


 パパ: 大丈夫だよ。


     その辺でビニール傘買うから。


 まゆ: ここ、東京じゃないんだよ?


     駅前にコンビニとかないし。


 パパ: ああ、そうだった(TOT)


 まゆ: 持ってくから駅で待ってて


 パパ: ありがとうm(_ _)m


 ◇


 本当に恐いのは、家族が殺人鬼になってしまうことだ。


 私達は、怪人が溢れて魔都と呼ばれるようになった東京から脱出し、殺意症候群が蔓延していない田舎町に引っ越した。


 それなのにどうして、こんなことになってしまったのだろう。


 ガララララララ、ガラララ。


 重たいハンマーでアスファルトを引き摺る音が木霊(こだま)する。


 私、雛咲真由(ひなさき まゆ)は、弟の勇希(ゆうき)を連れて雨の降る暗い夜道を歩いていた。


 私、16歳。高校2年生。


 弟、6歳。小学2年生。


 傘を差して歩く私の横で弟は、お父さんの傘を大事に両手で抱えている。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 私達の後、50メートルほど離れてハンマーを引き摺る男が歩いている。頭陀袋(ずたぶくろ)のようなものを被り顔は見えない。


 ハンマー男は、私達の後を尾行(つけ)ている。


 夜道には、私達とハンマー男しか姿が見えない。


 怪人だ。私は、心当たりがあった。


 殺意症候群が蔓延し、怪人が溢れて封鎖された魔都で私は、実際に怪人に出会(でくわ)したことがあったから。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 その音は、まるで私達の心音を数えているかのようだった。その音は、近づいているのか、それともただ私達の不安を嘲笑っているだけなのか。私には分からなかった。ただ、本能が叫んでいた。この男は、人間じゃない、と。


 ハンマーを擦り付ける音が近づいている。殺意症候群の脅威とは無縁の田舎町、そのはずだったのに……。


 逃げなきゃ。


 私は、勇希の手を強く握った。


 ◇


 30分前。自宅。


 「お姉ちゃん、僕、お父さんの分作るね。


 おっきいのが良いよね」


 弟の勇希が、お皿やボールの並んだテーブルの上でハンバーグのタネをこねている。


 「うん。ありがと」


 私は、手伝ってくれる弟に礼を伝えながら、弟と並んでハンバーグの形に挽き肉を成形していた。


 「お父さん、ちゃんと覚えてるかな?」


 「当たり前でしょ。今日は特別な日なんだから」


 私は、笑顔で応えながら、お父さんの誕生日パーティー向けにハンバーグを作る。ハンバーグは、お父さんの大好物で、今日のレシピはお母さん譲りのものだ。


 いつもは仕事で遅い父が、誕生日の今日はきっと早く帰ってきてくれる。そして、リビングに入ってくるなり、弟の勇希の頭をくしゃくしゃに撫でるんだ。その光景を想像するだけで、胸が弾んだ。


 窓を開けると、遠くから聞こえる電車の警笛が、カエルの鳴き声に混じって聞こえてくる。夕立が降り始めたアスファルトからは、懐かしい匂いが立ち上っていた。


 魔都となった東京から逃げてまだ1年、私達3人は、殺意症候群の被害が及んでいない静かな田舎町で日常を取り戻しつつあった。


 あの日、殺意が溢れた東京は、驚くくらい早期に国から諦められた。感染原因も経路も満足に調査されないまま症候群は、被害者も生存者も巻き込んで魔都に封じられた。怪人化してしまった人も、逃げ遅れた人も魔都に残されたまま見捨てられた。救出される計画もなく諦めたんだ。


 魔都から逃げ出せた人も、心に拭えない傷を負いながら新しい生活に臨んでいる。


「あっ、メッセだ」


 私は、スマホのメッセンジャーアプリの着信を確認する。


「お父さんから?」


「うん。そろそろ仕事上がって帰れるって」


「やった」


 父からのメッセージを伝えると、勇希が嬉しそうに跳び上がる。


 今日は、金曜日。記者のお父さんは、仕事が終わっても帰りが遅くなる日もあるけれど、今日だけは早く帰るようお願いしていた。


「あれ、雨かな?」


 窓の外を見た私は、夕立ちが降り始めたことに気がついた。


「勇希、私、駅までお父さん迎えに行くね。傘持ってなかったから」


 お父さんとメッセージのやり取りをした私が出掛ける旨を弟に伝えると、


「僕も行くっ」


 勇希は、私にしがみついた。可愛いな。


「そか。じゃ、一緒に行こ」


「うんっ」


 嬉しそうな表情で私を見上げた勇希を、優しく抱きしめた。


 ◇


 現在。夜。路地裏の道路。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 ハンマー男は、一定の距離を保ったまま、私達の後を尾行(つけ)てくる。


「お姉ちゃん……」


 後ろから迫る存在に気がついた勇希が不安そうな声を上げる。


「勇希、振り向いちゃダメだよ。何もいないと思って歩き続けて」


 私は、勇希に振り向かないように、後ろに迫る怪人を気に留めないように伝える。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 殺意症候群を発症させた怪人は、街をさまよいながら標的を定める。


 一度標的にされたら、殺意が爆発して行為に至るまで追跡は止まらない。


 今、私達は、殺意の標的とするか否か、怪人から試されている状態だ。振り向いたり、目を合わせたり、走り出して怪人を刺激してはいけない。


 だけど、このまま長時間追われていれば、怪人による品定めの末に標的とされてしまう。


 怪人を刺激せず、距離を取って見失わせたい。


 私は、勇希の手を引くと怪人を刺激しない程度に早足にする。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 私達の歩く速度に呼応するように、長い柄のハンマーが地面を引き摺る音のテンポも速くなった。


 革靴と思われる靴音がコツコツとアスファルトを叩く。響きが少しずつ大きくなる。


 距離が縮まっている。確実にハンマー男は、私達の後を追っている。


 路地裏に伸びる狭くて長い道路、横道もなく他に人影は見当たらない。怪人から標的にされない方法が見つからない。


 ガラガラガラガラ。


 ハンマー男がさらに加速して距離が縮まった。


 ハンマーがアスファルトを削る鈍い音が、まるで骨の髄まで響くかのようだった。雨音に紛れて聞こえる、革靴の不規則な音が、じわじわと心臓を締め付ける。


 


 殺意症候群を発症した怪人は、芽生えた殺意衝動を抑えられない。抑制の効かない怒りや感情を爆発させ暴力行動に至ってしまう。


 逃げなきゃ。もう形振(なりふ)り構っていられない。


「走るよ」


「うんっ」


 私は、勇希の手を引きながら走り出した。


 人影のない路地裏から駅のある大通りまで通り抜ければ誰かいるかもしれない。


 殺意症候群を発症した怪人からの逃亡、他の人間を巻き込みたくないけれど、今の私達は、怪人に対抗する術がない。


 逃げるんだ。私達は、必死に走って加速する。


 ガララララララララララッ!


 ハンマーがアスファルトを引き摺る音も加速した。


 ◇


「はあっ、はあっ……」


 塀に囲まれた狭い道を、勇希の手を引きながら必死に走る。


 走るにつれて、両側の塀が高く、道幅は一層狭くなった。まるで巨大な壁が迫り来るようだ。この道は、どこまでも続く一本道に見えた。


 後ろを振り返る余裕はない。とにかく大通りまでこの道を真っ直ぐに走る。


 追いつかれてしまえば異常な殺意と身体能力に蹂躙(じゅうりん)されてしまう。


 息が苦しい。幼い勇希も必死に走っているけれど、このスピードでは追いつかれてしまう。


 お父さんなら勇希を担いで走れるけれど、私にそれはできない。


 ハンマー男は、今、どのくらい後ろに迫っているのだろう。


 いつの間にか、ガラガラという重たい鈍器が道路を引き擦る音が聞こえなくなっていた。


 逃げ切れた?


 そんな楽観的状況にないことは分かっている。


 音が聞こえなくなった理由があるとしたら……。


 次の瞬間だった。勇希がびくんと身体を震わせて立ち止まり、私の腕を引いた。


「勇希?」


 驚いて立ち止まった私は、慌てて後ろを振り返るとハンマー男の姿がない。


 しかし、肩を震わせ、驚愕の表情を浮かべる勇希の視線が無言で真横の塀を指し示す。道路の両脇に続く塀の上に、ハンマー男が立っていた。 生暖かい、血生臭いような鉄の匂いが、雨に濡れた空気に混じって鼻腔を刺激した。


「うそ……」


 目の部分だけ穴を開けた頭陀袋を被るハンマー男が、本来は両手で扱うであろう柄の長いハンマーを軽々と片手で持ちあげる。


 私は、怪人に追いつかれていたことに気づかなかった。ガラガラという音が鳴らなかったのは、怪人がハンマーを持ち上げて引き擦らず、塀の上を走って来たからかもしれない。


 顔を覆う頭陀袋に空いた穴の向こう側、眼が赤い。殺意の眼だ。


 魔都でも見た嫌な眼を思い出した刹那(せつな)、ハンマー男が重たい得物を振り上げた。


 


 ◇


「いやあああああああああっ」


 ハンマー男が重たい鈍器を振り上げたまま、塀を飛び降りて、凶器を地面へ叩きつける。


 ガオンッ!


 金属の鈍い衝突音が耳を劈(つんざ)く。怪人が振り降ろしたハンマーが地面に衝突して、足元のアスファルトが砕け、破片が舞った。人間とは思えない強い力、抑制(よくせい)の効かない怪人の力だ。


 弟を庇(かば)って覆い被さった私は、身体のバランスを崩して倒れそうになる。


 怪人は、ハンマーを横凪ぎに振り回す。強烈な風切り音とともに金属の塊が、よろけて倒れた私の顔の上をかすめる。


 バランスを崩して倒れていなければ、弟を庇おうとしていなければ、私は、頭を砕かれて死んでいた。背中を冷たいものが伝う。


 恐怖に足が震えて力が入らない。全身の震えから、歯と歯をガチガチと打ち鳴らしてしまう。


 


「勇希、逃げて」


 私は、腰が抜けたまま対峙するハンマー男の赤い眼を見つめ、勇希だけでも逃がそうと押し出して怪人の視野から外す。


 怪人は、眼を合わせた人間を標的にする。


 これは、魔都で知ったことだ。あの時、私達は、お母さんと……。


 標的を私に絞ったハンマー男が、ハンマーを握っていない左手を私の顔に伸ばす。


 怪人の左手が、恐怖に硬直する私の首を掴んで持ち上げた。


「かはっ……」


 息ができない。


 怪人は、左手だけで私の首をきりきりと絞めながら私を持ち上げる。人間の握力とは思えない強い力だ。窒息してしまうというより、首の骨を折られてしまいそうになる。


 さらにハンマー男は、右手のハンマーを振りかぶった。


 重いハンマーの先端を、照準を定めるように私の顔の正面に合わせる。怪人は、首を絞めて私を殺そうとしているのではない。手にする重たいハンマーで、私の頭を叩き割りたいのだ。


 ◇


 殺される。


 地獄のような魔都から逃げ出して、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻せたと思ったのに。やっと哀しみから回復できるかもしれないと思ったのに。


 魔都から遠く離れた田舎町で、また怪人の恐怖に襲われるなんて思っていなかった。


 怪人に首を絞められ、呼吸ができず、首は骨まで軋んでいる。そのまま重たいハンマーで撲殺される。これが私の最期だ。


 せめて勇希だけでも逃げ延びて欲しい。勇希は、どこまで逃げてくれただろうか。お父さんと合流できるだろうか。


 目に涙が浮かんでいた。


 ハンマー男が振りかぶったままの姿勢で、私に鈍器の照準を合わせたまま制止する。


 躊躇(ちゅうちょ)した?


 頭に被った袋の向こうに血走った赤い眼が見える。


 この眼、どこかで?


 その直後……。


 「お姉ちゃんから、離れろおおおっ」


 勇希の叫び声とともに、肉が裂けるような嫌な音がする。


 勇希がハンマー男の背中に傘の先端を突き刺していた。


 「……っ!?」


 どうして、逃げなかったの?


 だけど怪人の動きが止まった。私を捕らえていた左手の握力が消え、支えを失った私は地面に落ちる。


「けほっ、けほっ」


 背中を地面に打った痛みと、首を絞められていた反動で咳き込むが、そんな場合じゃない。


 突然の攻撃を受けてたじろぐハンマー男を、私は、突き飛ばすように離れて立ち上がった。


 逃げるんだ。


「勇希、ありがとう。逃げるよっ!」


「うんっ」


 私は、傘を道路に放り出したまま、弟の手を握り、前方へ向かって必死に走る。


 ◇


 雨の降る路地裏の道を走り抜け、駅へと続く大通りへ出る。


 勇希のおかげで逃げ出した私達は、怪人から、かなり距離を取ることができたはずだ。それに大通りには……。


「どうして?」


 私と勇希は、驚いた。


 大通りに車はおろか、誰もいなかった。金曜日の夜だというのに、人影一つない。まるで町の時間が止まってしまったかのようだ。雨音と、私達の息遣いだけが、やけに大きく響いていた。


 どうして誰もいないのだろう。


 この状態で、またハンマー男が現れたら……。


「お父さんに電話かけるね」


 私は、駅に向かって歩きながらお父さんに電話をかける。


 繋がらない。お父さんのスマホは着信もせず、電波が届いてないか電源が入っていないみたいだ。


 「お姉ちゃん、お父さんは?」


 「繋がらない。駅まで行ってみよう」


 雨に濡れたまま私達は、手を繋いで歩く。不安で仕方ない。早くお父さんに会いたい。


 お父さんに傘を持って行く旨はメッセで伝えてある。スマホが繋がらない理由はわからないけれど、駅まで着けば待っていてくれるはずだ。


 だけど、この胸騒ぎはなんだろう。この静けさの理由はなんだろう。この怖さはなんだろう。


 言い知れない不安を抱きながら私達は、お父さんの待つ駅へ向かった。


 不安は、現実になる。


 ◇


「嘘……でしょ」


 駅前に着いた私達を待っていたのは、私達が暮らす田舎町とは思えない、凄惨(せいさん)な光景だった。


 駅前の広場に多くの人々が倒れていた。何者かに頭を砕かれたのか、うつ伏せに倒れた人達の頭のまわりに血溜まりができていた。


 直感で、何が起きたのかを理解した。事故や喧嘩の類じゃない。すぐ、ここから離れなければいけない。


 ハンマー男は、片鱗(へんりん)に過ぎないのかもしれない。怪人は新たな怪人を生む。


 怪人を止めようとした人間が新たな怪人になることが殺意症候群が蔓延(まんえん)し、止められなくなった原因だった。


 魔都と同じことが、殺意症候群が、この田舎町でも発症したんだ。


 ◇


 この悲劇的な光景に、私は呆然と立ち尽くした。脳裏にフラッシュバックしたのは、たった一年前、制服姿の高校の友人と過ごした夏の日の記憶だ。


 ジリジリと肌を焼く夏の放課後、部活動を終えた生徒たちの喧騒と笑い声が遠くに聞こえる中、私は友人と他愛もないおしゃべりをしながら、見慣れた新宿の通学路を歩いていた。制服のブラウスが背中に張り付き、アスファルトからは熱気が立ち上ってくる。


「ねえ真由、新宿東口の駅前に新しくできたカラオケ行かない?」


「ごめん! 今日はパス。父さんの誕生日だから、家族みんなで盛大に祝うから、また今度遊んでね!」


「えー! いいなぁ。真由のうちってさ、なんていうか愛が強いよね」


「えっ、そうかなぁ?」


 その数時間後、日常はあっけなく崩壊した。熱気は恐怖に変わり、笑顔は悲鳴に変わった。そして、たった今、この平和な田舎町で、同じことが繰り返されようとしている。


 ◇


「勇希、見ちゃダメだよ。このまま家に帰ろう」


 私は、勇希に凄惨な光景を見せず、早く立ち去ろうとする。


「どうして、お父さんは?」


「ここにはもういないはず。


 きっと駅で問題があって、逃げ出す時にスマホを落としちゃったんだよ」


 電話を何回もかけ続けたけれど、お父さんが出ることはなかった。


 スマホを落としたのか、殺意が爆発した怪人に殺されてしまったのか、本当のところは分からない。


 きっとここにはいない。


 だけど、家に帰れば合流できる。なぜだかそう思ったんだ。


 魔都での経験を活かす。


 私達は、できるだけ物音を立てずに駅前広場から離れてもと来た道を戻り始めた。


 駅にいたお父さんが怪人の標的から逃れ、先に帰宅できているという一縷(いちる)の望みを抱いたまま帰路につく。


 ◇


 雨が強くなり、傘を失ったままずぶ濡れになっているけれど、私達は気配を消して歩き続けた。


 殺意症候群を発症した怪人が潜む町で大切なのは、怪人の標的とされないことだ。他に助けを呼べる人がいないなら、細い道を繋ぎ、怪人から視認されないように帰る必要がある。


 家の前までやって来ると俯(うつむ)いて歩いていた私の手を、勇希が強く握った。


 「お父さんだっ」


 えっ?


 私は、目を見開いた。


 家の前に、お父さんが立っていたから。


 「お父さんっ!」


 私と勇希は、お父さんに駆け寄って抱き着いた。よかった、無事だったんだ。


 「真由っ、勇希っ。どこへ行っていたんだ?」


 お父さんが慌てた表情で私達に確認する。すごく心配してくれたのだろう。


 だけど、どこへ行っていたって……。


 「お父さんを迎えに行ったの。メッセしたでしょ?」


 私は、傘を届ける待ち合わせをしたのに、すっかり忘れている様子のお父さんに訊ねた。


 「すまない。スマホが壊れたんだ」


 「だからって……。それよりお父さん、大変なの。この町にも怪人が……」


 「2人ともずぶ濡れじゃないか。とにかく早くシャワーを浴びなさい。風邪を引いてしまうよ。話は後にしよう」


 お父さんは、家のドアを開けて早く中へ入るように促した。


 「う、うん」


 確かに私達は、雨でずぶ濡れだった。


 勇希が風邪をひいてしまうのは心配だし、私は、しぶしぶお父さんに従う。


 話は後で良いのかな?


 お父さんは、駅にいたはずだ。怪人に出会(でくわ)していたかもしれない。


 駅前は凄惨な光景だった。お父さんは、魔都と同じ経験をしていたかもしれない。


 困惑する中でも、私達を心配させないように平然を装うとしているのかな。現実を受け入れられなくなっている……なんてことはないよね。


 ◇


 私と勇希は、家に入ると脱衣所で濡れた服を脱いで浴室へ入る。身体を温めるために急いでシャワーを浴びる。


「勇希、こっち来て」


「うん」


 まずは勇希の身体を温めたい。私と勇希は、いつも2人でお風呂に入り、私が勇希の身体を洗ってあげていた。


 こうしているとすごく甘えん坊で、小さくて、まだ幼い身体なのに……。


 勇希は、雨にずぶ濡れになって、怪人に襲われて怖い思いをしたのに私を助けてくれた。


 私も勇希も魔都で怪人達に襲われた恐怖を覚えている。トラウマがある。本当に怖かったはずだ。


 勇希は、可愛くて勇気のある弟なんだ。

 大好きだよ。


 私は、勇希の身体にシャワーを浴びせながら、怪人に襲われた時を思い出していた。


 どうしてあの時……。


 なぜ怪人が私の頭を叩き潰すのを躊躇(ちゅうちょ)したのか、そして、見覚えのある赤い眼が気になって仕方ない。


 あの眼は誰のだろう。どうして見覚えがあったのだろう。


 まさか、知り合いが怪人に?


 考え事をしながら私が勇希の身体を洗うと、勇希は大人しくしてずっと俯いていた。


 いつもなら、僕もお姉ちゃんの身体洗うとか言い出すところだけど、さすがにショックが大きかったのだろう。


 勇希が俯いたまま、そっと口を開く。


 「お父さん、背中を怪我してた」


 えっ?


 私の頭の中で、怪人とお父さんの眼が重なる。


 ……そんなはずない。


 私は、頭を過(よぎ)った嫌な可能性を振り払うように横に首を振った。


 「もしかして、お父さん……」


 「そんなはずないよっ」


 勇希の言葉を遮った私は、声を荒げてしまっていた。


 ◇


 浴室のガラス戸の向こうに人影が見えた。


「えっ?」


 驚いたけれど、すぐに人影がお父さんであることが分かる。


 だけど、私の頭の中では、頭陀袋をかぶったハンマー男の姿と、お父さんの姿がどうしても重なってしまう。二つの像が揺らぎ、重なり、そして一つの不気味な影へと変わっていくようだった。


「お父さん?」


 お父さんとハンマー男の姿が重なってしまう。


 2人は同じ眼をしていた。

 そんなはずはない。そんなはずないけど……。


 鼓動が高鳴り、速くなっていた。


 「真由、東京へ帰らないか?」


 お父さんの言葉は意外だった。


 東京。1年前まで私達は、そこで暮らしていた。東京が人間が怪人化する殺意症候群が発症した場所だ。


 殺意症候群は、人から人に感染する。それは何の兆候もなく突然発症し、感染原因は未だ分からない。


 スプリンガー・レイジ・シンドローム説、間欠爆発症説、てんかん発作説、呪い説など幾つかの説が示唆(しさ)されているが、どれも決定的な要因となっていなく、対処法が分からない。


 分かっているのは、怪人化した人間が異常な殺意と肉体の限界を超えた身体能力を宿し、殺戮(さつりく)の限りを尽くしてしまうということと、怪人に近づいた者、止めようとした者も新たな怪人になってしまうことだけ。


 怪人が溢れて、人が住めなくなった東京は封鎖され、“魔都”と呼ばれるようになった。


 そんな魔都へどうしてまた行くのか。私達は、命からがら魔都を脱出したのに……。


 「お父さん、何言ってるの?」


 ガラス越しの影に訊き返すが返事はない。


 魔都から離れた田舎町でも怪人が発症した日に、さらに危険な魔都へ行くなんて考えられない。


 ◇


 「お父さん?」


 返事のないお父さんに再び声をかける。


 「……真由、行かないのか?」


 「行くわけないよ。お父さん、魔都……いや、東京は危険だし封鎖されたでしょ? お母さんのこと忘れたの!?」


 私が声を上げるとお父さんがまた話し始める。


「忘れてない。忘れるわけないさ。忘れてないから行くんだよ。お母さんを探しに行こう」


 お母さんを探しに行く?


 何言ってるの、お母さんは……。


 「……行かないのか」


 お父さんは、私の言葉を遮るように呟いてガラス戸から離れて去ってしまった。


 「どうしたんだろう。お父さん。様子が変」


 私は、額に手を当てて一人ごちる。魔都に戻ろうなんて……。


「勇希。早く出よう」


「……うん」


 脱衣所でタオルを使って勇希の身体を拭く。


 下着を身に着けていると家の中からガチャンと何かが倒れたような音がする。


 「何の音?」


 そして、聞き覚えのある音が響き渡った。


 ガラ、ガラ、ガラ、ガラ。


 脱衣所のドアのすぐ向こうから、ハンマーを引き摺る音が近づいた。


 ハンマー男!?


 ◇


 どうしてここに怪人が?


 いや違う。理由はもう分かっていた。

 考えたくなかった予感と事実が交差する。


 ハンマー男は、脱衣所の外、ドアの向こう側に立っている。浴室に逃げても追い詰められてしまう。外へ出られるドアは1つだけだ。追い詰められている。


「勇希、走る準備をして」


 私は、服を身に着ける暇もなく、下着にタオルだけを身に纏って勇希の手を握る。


 ギィという音を立てて、ハンマー男がドアを開いた瞬間、私と勇希は脱衣所の外へ飛び出した。


 廊下を駆けてリビングへ向かって走る刹那、ハンマー男の姿が一瞬目に映る。


 頭陀袋をかぶり、柄の長い大きなハンマーを持つ怪人の服が、お父さんの部屋着と同じだった。


 考えたくなかった予感が確信に変わる。


 ハンマー男は、お父さんだった。


 路地裏で私達を襲ったのも、駅前の凄惨な光景も、お父さんがやったの?


 タオルを巻いたまま勇希の手を引いてリビングダイニングまで着いた。


 家の中は安全じゃない。外へ逃げなくては……。


 目に涙が溜まっていた。殺されるかもしれない恐怖によるものじゃない。


 大好きなお父さんが怪人に変わってしまったことが、家族が殺人鬼になってしまったことが、何より恐くて、悲しかった。


 次の瞬間、耳を劈(つんざ)くような風切り音と轟音が同時に鳴り響く。


 お父さん、いや怪人が重たいハンマーを投げつけて、ダイニングのテーブルが真っ二つに割れていた。


 テーブルの上には、勇希と一緒に調理したハンバーグが並べてあった。お父さんを迎えに出掛ける前に2人で用意したものだった。


 テーブルごと粉砕されて、床に散らばったハンバーグを見た勇希が悲しそうな表情で肩を震わせる。


 


 ◇


 【お姉ちゃん、僕、お父さんの分作るね。


 おっきいのが良いよね】


 【うん。ありがと】


 【お父さん、ちゃんと覚えてるかな?】


 【当たり前でしょ。今日は特別な日なんだから】


 俯きながら、勇希が肩を震わせる。


 唖然とする私達に怪人が走って近づき、投げたハンマーを拾う。


 「勇希、危ないっ」


 俯く勇希の前で、怪人がハンマーを持ち上げる。


 私は、飛びついて勇希をハンマー男から遠ざけると、後退りながら、ハンマー男をじっと見つめた。


 怪人の標的は、眼を見つめることで変わる。抑えきれない殺意が血走っているような赤い眼、だけど、お父さんの眼だ。


 標的を勇希から私に変更したお父さんは、重たいハンマーを構え直す。躊躇(ちゅうちょ)する様子はない。


 「どうして?」


 私は、真っ直ぐに怪人の眼を睨んだ。


 「どうして、お父さん。死ぬ想いで東京から逃げ出して、3人で生きようって言ったのに……」


 目に涙を浮かべながら、


 「どうして、お父さんが怪人になっちゃうの!」


 お父さんを睨んで叫ぶ。


 しかし、その言葉も、もう届かない。


 お父さん、いや怪人は、血走った目で私を見つめたまま重たいハンマーを振りかぶった。


 ◇


 「がああああっ」


 叫び声を上げながら、怪人がハンマーを叩きつける。轟音が鳴り響き、棚や、食器が砕けて散乱した。


 せめて、勇希だけは……。


 私は、怪人を引き付けたままリビングから廊下に逃げると、ハンマー男の視界を奪うように、体を覆っていたタオルを投げつけた。


 広がったタオルがハンマー男の視界を覆う。


 ガオンッ!


 怪人は、タオルごとハンマーを振り回し、ハンマーが廊下の壁にめり込む。


 私は、ハンマー男から距離を取った。


 「がああああっ」


 怪人は、めり込んだハンマーを無理矢理引き抜いて横凪ぎに振り回す。


 ガオン!


 今度は反対側の柱に命中し、さっきより深くハンマーが壁にめり込んでしまう。


 やっぱりそうだ。


 長い柄のハンマーは、狭い廊下では振り回せない。


 お父さんは、異常な殺意に襲われ、理性がなくなっている。衝動のまま、やみくもにハンマーを振り回しているようだ。


 ◇


「ダメだよ。お父さん。ここではハンマーなんて振り回せないから」


 ハンマー男の背後から、廊下に現れたのは、勇希だった。


 勇希?


 いつもの弟と違う、落ち着いた口調に驚く。首を下に傾けていて表情が読み取れない。


 ハンマー男は、柱に深くめり込んだハンマーを抜くのに手こずっている。


 そこに。


 「が、は……」


 勇希は、ハンマー男の背中にナイフを突き立てた。怪人の、いや、お父さんの背中に、ケーキを切るために用意していたナイフが突き刺さる。


 「勇希っ!?」


 「大丈夫だよ。お姉ちゃん。怪人は、これくらいじゃ死なない」


 顔を上げた勇希の眼が赤く血走っていた。頭がくらくらする。


 「何を言ってるの? 勇希?」


 まさか、勇希まで?


 ◇


「怪人は、こうやって背中の中心を刺せば大人しくなるみたい。もう心配いらないよ」


 勇希は、淡々と落ち着いた口調で話続ける。


「勇希、どうしたの?」


 訳が分からない。


「大丈夫。お父さんは、このまま僕が連れて行くから。もうここへは来ない」


 勇希は、ハンマー男の背にナイフを刺したまま話し続ける。


 「勇希。何言っているか分からないよ。何が大丈夫なの? どこへ行こうというの?」


 私は、首を横に振り、訳が分からない旨を勇希に訊ねる。


 「分からない?」


 勇希は、首を横に傾けて話す。


 「分からないよ。喋り方も、表情も、いつもの勇希じゃないし」


 私は、混乱しながら声を上げた。


 勇希は、悲しそうな眼で私をじっと見つめる。


「困ったな。言いたくないこと、言わなくちゃいけなくなる」


 言いたくないこと?


「ダメだよ。隠し事はなしの約束でしょ。何でも話して」


「わかった」


 一度下を向いて息を吸う。そして、


「お姉ちゃん、大好きだよ」


「こんなときに何を言って」という、私の言葉は、勇希の笑顔にかき消されてしまう。


 しかし、次に勇希が話した言葉が、私の心臓を冷たい手で鷲掴みにする。


「お姉ちゃん、大好きだよ。大好きだから、殺したい。

 お姉ちゃんを殺したいんだ」


 ◇


 涙を浮かべて言葉を失った私を、勇希は優しい眼で見つめる。


 優しいけれど、お父さんと同じ赤い色をしていた。


「僕も、お父さんと同じになっちゃった。我慢できないんだ。大好きなのに殺したい。おかしいよね。どうしても、どうしても、お姉ちゃんを殺したくなっちゃう」


 勇希は、今度はハンマー男を見て続ける。


「お父さんは、連れて行くね。怪人が生きられる場所はあの街だけだから」


 勇希は、笑顔を崩さないまま、だけどうっすらと涙を浮かべていた。


「勇希、ダメだよ」


 もう、分かっていた。


「約束したじゃない。私達3人は、何があっても離れないって」


 ワガママを言っているのは私だ。


 私が駄々をこねても弟を苦しめるだけだ。


「お姉ちゃん、大好きだよ。

 ……だから僕にお姉ちゃんを殺させないで」


 殺意を押し殺して歩く、勇希とお父さんの後姿を、私は黙って見つめることしかできなかった。


 弟と父親。


 私は、この日、また家族を失ったのだ。


「ああああああああああああああああっ」


 雨の降りしきる夜、誰もいなくなった家で一人、私は、叫び声を上げた。


 ◇


 数日後。


 荷物を背負った私は、閉鎖された遊園地の前に立っていた。


 魔都との県境に位置する遊園地、ここは封鎖された魔都の玄関口だ。


 魔都、東京。殺意症候群の発端となった地で、国に諦められ、封じられた地。


 もう、恐れてはいない。たくさん、たくさん泣いた。涙とともに恐怖は全部、吐き出したから。私は、家族を取り戻すために魔都へ行く。


 本当に恐いのは怪人なんかじゃない。家族が殺人鬼になることだ。


 「私は、家族を取り戻す。そのためなら何だってやる」


 第2話へ続く

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