第6話 迎撃準備
葉月の十五日。いわゆる中秋の名月と呼ばれるこの日が、雫の生誕の日でもある。
そして満年齢で十五になるこの日が、二年あまり前にこの地を襲来した蛇妖――
その日は朝から、久遠院家の邸はざわついていた。
二年以上前から、蛇妖が来ることが分かっていた日である。
近隣の住民はとっくに避難していて、久遠院家は代わりに多くの兵が詰めている。
その数、およそ三十。
各々、刀や槍、弓で武装している。
彼らは、雫姫が金で雇った兵たちである。
そしてそれを指揮しているのは、八次だ。
「刃に漆を少し塗るといいらしい! 特に鏃には漆を塗っておけ」
「助かります、八次様。無頼の妖切りの言葉では、あまり信を置いてもらえなくて」
「何。姫様が貴殿を信じる以上、私も貴殿を信じるだけだ。妖が夫である貴殿を殺して、それで収まるとは限らぬからな」
「ええ。というより、それがただの名目である可能性は高いです。蛇妖――
「それだけはさせんよ」
妖は昼には動かない。これは妖切りでは常識だ。
昼日中では、妖の動きは必ず鈍るのである。これは、妖が陰の者であり、陽の究極たる太陽の元では、その力が弱体化するからだと云われている。
また、妖は月光も嫌う。
月は陰の者であると同時に、陰の者を見張るという伝承があり、本当かどうかは分からないが、同じ夜でも新月の時と満月の時では、妖の力が違うという話は多いのだ。
そして今日は満月。
その意味では、雫は運がいいと言えるかもしれない。
そもそも蛇妖に目を付けられるだけで運がないともいえるが。
かつて、三十人の兵でなす術なく蛇妖には蹂躙されたが、今回は無策ではない。
兵たちも、妖切りという胡乱な存在には最初こそ首を傾げていたが、雫姫の説得によって如月の言葉を聞くようになり、さらに如月自身が非常に物腰が丁寧であり、話を聞いてくれるようになった。
大きかったのは、八次が如月を信じてくれたことだろう。
八次はこの久遠院家の侍大将としても近隣でも名の知られた存在であり、今回の傭兵もほとんどは八次が集めた者だ。
妖相手ということもあり、かつ二年前に三十人もの兵が命を落とした相手とあって、兵を集めるのは難しいと思っていたのだが、八次は辛抱強く近隣を巡って兵を集めてくれていたのだ。
「来るとしたらいつだろうか、如月」
「そうですね……彼らは月光も嫌います。ただ、今夜の月は宵の口には昇り、夜明け近くまで地上を照らすはず。月を避けることは難しいでしょう。となれば、いつ来ても同じなので、日が完全に暮れたらすぐ来ると思います」
「すぐ、か」
「妖はこらえ性がないことが多いので」
「なるほどな」
八次は納得した様に頷くと、兵に指示を出すためその場を離れた。
カチャカチャという、鎧の音が遠ざかっていく。
(妖相手に鎧はあまり意味がないのだが)
集めた兵は大体は浪人であり、武器はともかく、鎧兜などはほとんどが持っていない。
だがその中にあって、八次だけは鎧具足一式を身にまとっていた。
だが、妖相手には、特に今回の蛇妖
その一撃相手に、鎧はほとんど効果がないだろう。
とはいえ、それを無意味だからとやめさせるわけにはいかない。
それに、八次自身は雫姫の傍らで彼女を直接守る予定らしいので、そういう意味では何か飛来した際には鎧が役に立つだろう。
蛇妖の大きさだと、身じろぎして弾いた飛礫ですら、十分脅威となる。
「如月」
薬を準備していた如月の元に、澄んだ声が響いた。振り返るまでもなく、誰が来たのかは分かっている。
「雫姫。まもなく日が暮れます。邸の中にいらしてください」
「分かっています。ですが……どうか、御武運を」
「ありがとうございます。仮初でも夫として、必ず貴女をお守りいたします」
「それは……そうなのだけど、あなたも無理はしないで」
「はい。ですが今回に関しては、蛇妖はまず私を殺しに来るでしょうからね……ですが、妖切りとして、むざむざ負けるつもりはありませんから」
如月の言葉に、雫は小さく頷いて、それから少し周囲を見渡す。
薬を整理するために、天幕のようになって周囲から見えない状態になっているのを確認すると――雫は、如月を抱きしめた。
「し、雫姫!?」
「落ち着きなさい。仮初でも、今はあなたが私の夫です。夫が死地に赴くというのに、抱擁もしないとあっては妻とは言えぬでしょう」
ややあって、雫は如月から離れて、近付き過ぎて見えなくなっていた顔を見上げる。
予想通り――あるいは期待通り、如月は真っ赤になっていた。
ただ、多分自分も同じだろうと思う。
「必ず生きて、そして勝って下さい」
「一つ……お願いをしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょうか」
「その、全部終わって、私がまだ生きていたら……もう一度、その、今のようにしていただくことは……出来るでしょうか」
その申し出は予想外で、そして同時に、彼がそう望んでくれたことを嬉しく思っている自分を、雫は自覚した。
「はい。必ず。ですから、絶対に勝って、生き残ってくださいね」
「はい」
離れ際、わずかに手が触れ合う。
それを最後に、雫は邸の中へと戻っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
邸の中は、閑散としていた。
下男下女は全て暇を出している。
今この邸にいるのは、雫と八次だけ。
二人は家の中心である囲炉裏の近くにいるが、近くには多くの甕が並んでいる。
中には水が満たされているが、これは蛇妖が火を使うことが分かっているからだ。
最悪、家が火に包まれる事態になった場合、水を被って脱出するためである。
すでにそのための外に出る経路も確認済みだ。
不安があるとすれば、外の様子が見えないことだろう。
ただ、二年前のことを考えれば、現れたらすぐ分かる自信があった。
あの蛇妖の気配は、離れていようが嫌でも分かる。
「八次。今度はどうにかなりますよね」
「私では保証しかねます。ですが、如月は確かに力ある妖切りなのでしょう。無為無策だった以前とは違うと、私も感じております」
八次はそう言うと、刀の柄に手をかける。
痛いほどの緊張感が伝わってきて、雫は自然手を合わせ、祈るように胸の前に持ってきた。
(父上、母上――おじい様、おばあ様。どうか、久遠院家を――そして如月を守って――)
その時。
地震が起きたかと思うような衝撃が、辺り一帯に満ちた。
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