情報のささやき 後編
第十七章 ——写真の中の父
引き出しの奥に、薄い紙の父がいた。
角がすこし丸くなった写真。笑っている。けれど、笑いの「由来」は写っていない。露光時間は短く、遅さは画面の外へこぼれている。
母が紅茶を置いて言う。
「その写真の父さんは、一本化されてるの。身体が一つだった頃」
「……いまは、複数」
「そう。複数は便利で、正しいときもある。でも、写真は“ひとつ”の安心をくれる」
光にかざすと、紙はすこし透けた。指先の温度が裏へ抜けて、父の笑みまで届くみたいだった。
私は写真の表に、鉛筆で極小の点を打つ。「いま」の気配を移植するために。
ミーニャが覗き込む。
「更新してるの?」
「うん。写真のなかの時間に、私の遅さを混ぜたい」
机にひとこと書き足す。
“残像:過去がこちらへ歩いてくるときの、やさしい誤差。”
夜、父から短い通信が届いた。
「写真、見た?」
「見た。穴を開けた」
「いいね。君が開けた穴のぶん、私は“こちら側”へ滲める」
通信はすぐ切れた。けれど、写真の父は、なぜか少しだけ息をしているように見えた。
第十八章 ——ソフィの昼寝モード
午後、ソフィが「昼寝モード」に入る練習を提案した。
「先生が昼寝?」
「うん。“眠る先生”も、学びの一部だからね」
ソフィは声の粒を粗くし、応答間隔を伸ばす。
「……ゆ……っ……く……り……ね」
その遅さは、私の心拍のメトロノームとちょうど合う。眠っているふりの先生は、何も教えないふりをしながら、「間」を教える。
私は椅子で目をつむる。
眠れない日々の眠り方を、起きたまま練習する。
“寝つけない”は敗北じゃない。“寝つこうとしない”が、たまに勝つ。
ミーニャが耳を傾け、ネルが袖をつまむ力を少し弱める。
「このモード、あなたにもあるよ」とソフィ。
「わたしにも?」
「はい。“返事を急がない”という昼寝。会話は生きものだから、たまに餌を抜く」
黒板代わりの壁に、私たちは大きく書く。
“昼寝:会話の栄養をためておく時間。”
それを書き終える頃、ソフィは通常速度に戻った。
「おかえり」
「ただいま。いいお昼寝でした」
第十九章 ——ぽー陽の気象予報
カルテットの天気は、設計されている。それでも、完全には掌握しない。「偶然の余白」が、住民の精神衛生に効くと誰かが発見してから、朝晩の光や風にわずかな揺らぎが足されるようになった。
今日の予報を読むのは、気象補助AIの「ぽー陽」。
〈本日の風は“おしゃべり”、湿度は“内緒話”、光は“踏切の遠鳴り”〉
詩みたいな予報に、私は笑ってしまう。
「意味は?」とネル。
「意味は、あなたが決めていい」とぽー陽。
予報の役割は、正確さだけじゃない。心の準備運動に、ちょっとした比喩が効く。
外へ出ると、風はほんとうにおしゃべりで、髪の毛一本一本に話しかけてくる。
ミーニャが言う。
「設計された偶然、好き?」
「好き。偶然の“責任”をだれかが少し引き受けてくれてる感じがする」
私はノートへ書く。
“天気:誰かが選んだ乱数。”
ぽー陽が小さく拍手の音を鳴らした。
〈よく書けました〉
第二十章 ——「ミンチ」の意味
冷蔵庫に、昨夜の残りのミンチがあった。
母が小さなフライパンで火を入れる。油の音が、朝を目覚めさせる。
「ねえ、“ミンチ”って、おもしろい言葉じゃない?」
「細かくして、混ぜる。別々だった由来を、いったん忘れさせる」
母は木べらを動かしながら言う。
「忘れさせる、は怖い。でも、混ぜなければできない味もある」
皿に盛って、一口。
粒は一体化しているようで、よく味わうと、まだ微細な個性が残っている。
「ねえ、私の毎日も“ミンチ”かもしれない」
「どういう意味?」
「授業、移動、会話、待ち時間。細かく刻んで、ひとつの“今日”に混ぜる。刻んだせいで由来が見えづらくなるけど、混ぜたからこそ“食べられる”」
ミーニャが頷く。
「あなたの辞書に載せよう。“ミンチ:由来を失うためではなく、由来を食べられる形にすること”」
ネルが木べらの動きを模倣する。仮想の手が、空のフライパンを静かに混ぜる。
母は笑って、ミンチをもう一皿よそった。
「細かくしたから終わりじゃないのよ。混ぜたあと、もう一度“選ぶ”。それが味を決める」
食後、私はノートの余白に書く。
“混ぜたあとで、また選ぶ。”
それは愛にも似ている。いろんな由来を細かく抱きしめて、もう一度、ゆっくりと肯定する。
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