寺の息子と僕の怪異録 第一章
灯ル
第一話「二度鳴るチャイム」
僕は、たいていの頼まれごとを断れない。荷物の受け取り、代わりの買い出し、迷子の猫の貼り紙。そういう小さな用事が、いつの間にか見知らぬ人や場所へ僕を連れていく。
蓮見先輩と出会ったのも、そんな“日常”の延長だった。大学の近くの喫茶店で「落としましたよ」と渡した数珠をきっかけに、彼が寺の息子だと知った。柔らかな笑顔に反して、彼の相談内容はいつも少しだけ不可思議で、少しだけ寒気がした。
三日前、僕のアパートの掲示板に、管理人の手書きチラシが貼られた。
《夜間、インターホンが二度鳴る件について 点検します ○○管理》
同じ紙が、近隣の古い団地:藤見団地でも見つかった。引っ越してきたばかりの僕には珍しく感じられて、写真を撮って先輩に見せると、彼は短く「行ってみよう」と言った。
藤見団地は、昭和から時間を切り取って並べたような四棟が、風の抜ける中庭を囲んでいた。夜、時計の針が二十三時を回るころ、廊下に湿った匂いが降りてきて、各戸の前のゴムマットにうっすらと水の輪が浮く。
「チャイムが二回鳴るとき、玄関の内側に足音が一本増えるらしいですよ」
管理人の老人は小声で言う。「一本」という表現が妙に引っかかった。二人分、ではなく一本。まるで片足だけの
先輩は住人から回覧板を借りた。そこには部屋番号と名前が縦に並び、ところどころ誤字が鉛筆で直されている。
「名簿の並べ替えがあったのかな」
「ええ。でも、この書き癖は新しい。インターホンの“名乗り”と、名簿の“名”が、別の線でつながったんでしょう」
「別の線?」
「水脈みたいなもの。名前にも流れがあるんです。ミステリーとしては地味ですけど、怪異は案外そういう“書き換え”から始まる」
その夜、僕らは三階の空き部屋の前で待った。空き部屋と言っても、ポストにはときどき誤配のチラシが入っている。表札は古い名のままだ。二十三時四十四分、廊下の蛍光灯が一瞬だけ弱り、インターホンが、短く、そして長く――二度鳴った。
反射で口が開きそうになる。呼ばれたら返事をしなかった幼い頃は、もう遠い。
先輩は僕の袖をつまみ、首を横に振った。
「返事をしないで。名を渡すことになる」
僕らは息を殺す。けれど、玄関の向こうから、ペタン……ペタン……と“一本”の足音が近づくのが、確かに聞こえた。
カメラでは録れない種類の音だ。床材が一歩ごとにわずかに沈む。見えない何かが、ではなく、見えない“誰かの片側”が、そこに立った。
「ここは空き部屋だろ」僕は囁く。
「名簿では“空き”じゃない。昔の名が残っている」
先輩は袖から小袋を取り出し、白い米を一つまみ玄関前に落とした。米粒は扇形に広がって足跡のようになり、光を吸って黒ずんで見えた。
「迎えるための作法じゃないの?」
「迎えないための、返礼。寺のやり方でね。名を返して、戸口の“切れ目”を閉じる」
足音は米に触れるところで止まった。そしてまた、インターホンが二度鳴った。
思わず口から「はい」と漏れた。その一音が、冷たい紙の刃のように玄関を裂いた。扉がわずかに内へ吸い込まれ、目に見えない隙間が伸びる。
ペタン、と一歩。米粒が二、三、弾けた。
先輩は即座に回覧板からその部屋の名札を外し、誤字で上書きされていた部分を指先でこすって剥がす。黒い粉が爪の間に詰まり、彼はそれを小袋へ入れた。
「名が違うんだ。“道中 海(みちなか うみ)”じゃなくて“道中 海(どうちゅう かい)”。間違って呼ぶと、間違って来る」
足音が、片側から両足になった。扉の隙間から、湿った匂いが吹き出す。僕は膝をつき、米の扇を無意識に整えた。扇の中心に、薄い靴の先が一瞬だけ浮かぶ。
「僕、返事しちゃった」
「だから、今は“返す”。名を」
先輩は短い経を低く唱え、名札の裏に団地の地図を描いた。古い住人たちの“通り道”が、細い線でつながっていく。書き終えたとき、彼は名札を裏返しにして、扉の取っ手に掛けた。
「裏側にするのは?」
「表立って迎えない意思表示。儀式というより、日常の作法に近い」
鳴り始めていた二度目のチャイムが、そこでふっと止んだ。足音も、消えた。
ただ、玄関の内側に向いた一歩分だけが、濡れ跡となって残っている。拭いても、消えない。
「これは?」
「“来かけた”証拠。完全に戻すには、しばらく玄関に人の名を置かないこと。宅配のサインも、来客への返事も、ね」
僕は頷いた。日常の動作ほど、怪異はそこに入り込みやすいのだと、ようやく理解した。
翌朝、回覧板は管理人へ返した。誤字は直され、空き部屋の名札は外され、代わりに小さな紙片が添えられた。
《名は呼ばない。住所だけ確かめること》
管理人は首を傾げたが、受け取ってくれた。団地のチャイムは、それからしばらく静かだったという。
のちに思えば、あれは序章に過ぎない。回覧板の最下段の余白、誰の目にも止まらない場所に、小さな鉛筆書きがあったのだ。
《303 道中 海》
それは削ったはずの、誤った名。見落としたのではない。誰かが、後から書き足した。
その夜、僕のポストに赤い封筒が入っていた。差出人はなし。中身は白紙一枚と、古い鍵。それに――
《返事をするな。次は七日後》
震える指で紙を折りたたみ、封筒に戻す。鍵には「303」と刻まれていた。僕の住む棟には存在しない番号だ。
蓮見先輩に電話すると、彼は静かに言った。
「七日後、チャイムが二度鳴る。今度は、団地じゃない場所で。君の“線”のほうに」
「僕の線?」
「名は持ち運ばれる。人に宿り、住所を跨いでいく。……大丈夫。作法はもう、知っているはずだよ」
電話を切ったあと、部屋は驚くほど静かだった。静けさは安全の証ではない。むしろ、音が戻ってくるための助走だ。
日常は、怪異とミステリーの境界線のすぐ隣にある。僕はそれを、ようやく自分の生活の語彙で理解し始めていた。
封筒を机の引き出しにしまい、鍵だけをポケットに入れる。七日後、どこであの音が鳴るのかはわからない。
ただ、一つだけ決めたことがある。呼ばれても――返事は、しない。
それが、僕と蓮見先輩の“仕事”の、最初の取り決めになった。
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