第36話「“元”剣聖を待たず、兄妹は相まみえる」

 ――ようやく辿り着いた王城は、異様なまでの静寂に包まれていた。


 まるで、音だけが世界から抜き取られたかのように――ただ、風が吹き抜ける音ばかりが、妙に耳に残る。


 ユインとレオノールは、かつて賑やかな声が行き交っていた回廊を、静かに進んでいた。


 傍らには、戻ることのなかったノーグの姿はない。彼はあの場に残り、魔物化した者たちを引き受けた。いま、ここにいるのは――王女と、その騎士。


「……」


 レオノールの足が止まる。


 次の瞬間、彼女の目に映ったのは、崩れ落ちた兵士の無惨な姿だった。王家の紋章が刻まれた鎧をまとったまま、仰向けに倒れた兵士は、目を見開いたまま、事切れていた。


 その先にも、剣を握ったまま絶命した者、背後から斬られた者。中には、召使いや侍女らしき人々までが――。


「……っ」


 レオノールが、小さく息を呑む。揺れる睫毛まつげが、かすかに濡れている。


「知っている方、ですか」


 ユインがそっと問いかける。レオノールは無言のまま、倒れた女性に歩み寄り、その顔に目を落とした。


「……昔から、私に優しくしてくれた侍女です。……いつも、髪を梳いてすいてくれて……笛の音が好きな、優しい方でした」


 震える声が、静寂の中に滲んだ。


 その手が、小さく握られる。


「……行きましょう、ユイン。ここで止まってはいけないわ」


「……はい、殿下」


 ユインはその後ろ姿に、言葉にはできないほどの覚悟と痛みを見た。


 二人は再び歩き出す。


 石造りの廊下。染み一つない白の壁。だが、その中を進む足取りには、血と涙の重みが乗っていた。


 そんな中、レオノールがぽつりと呟いた。


「……兄は、昔はとても優しかったんです」


「……」


「子どものころは、よく一緒に遊びました。私が転びそうになれば手を引いてくれて……。怖い夢を見たときも、兄が傍にいてくれれば安心できた」


 ユインは黙って耳を傾ける。


「でも……政務に関わるようになってから、兄は変わってしまった。話す言葉も、笑う顔も、どこかよそよそしくなって。目の奥に、誰にも見せない何かを抱えているようで……私は、いつからか、兄と向き合うことを避けるようになってしまったのかもしれません」


 ふっと寂しげに笑う横顔が、どこまでも繊細で、どこまでも強かった。


「それでも、終わらせなければならない。この争いを。この悲劇を」


「……だから、ここに来たんです。殿下のその言葉が、すべてです」


 静かに、ユインが応えた。


 やがて二人は、玉座の間の前に辿り着いた。


 巨大な扉は、荘厳で重々しく、そこに立つだけで胸を圧迫されるような威圧感があった。だが、レオノールは怯まない。王家の血を引く者として、正面からそれを見据えていた。


 ユインが前に出て、両手で扉を押し開ける。


 重々しい音を立てながら、王の間がゆっくりと姿を現す。


 天窓から差し込む光が、大理石の床に複雑な文様を描き出していた。左右には白亜の柱が連なり、赤い絨毯が中央に一本、玉座へと続いている。


 そこは、かつて政が行われ、人々の願いが集まっていた神聖な空間だったはずだった。


 だが、今は。


 玉座に、男が座していた。


 銀白の鎧をまとい、凛とした佇まいで。背筋を伸ばし、片手を椅子の肘に添えたその男は、まるで玉座そのもののような重厚さを放っていた。


 第一王子――グラディス・アンレスト。


「お兄様っ!」


 レオノールの叫びが、玉座の間に響いた。


 グラディスが、ゆっくりと目を開ける。


 その双眸そうぼうは、鋭く冷たく、まるで鏡のように感情を映さなかった。


「……レオノール」


 ほんのわずかに、口元が動いた。だがそれは、懐かしさでも驚きでもなかった。


 名を呼ぶ声には、かつての優しさは欠片もない。


 その目には、感情の色がまるでなかった。視線はまっすぐレオノールを捉えているというのに、まるで、妹を見ていないかのようだった。

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