第11話
「お願いがあって参りました」
アルヴィンと名乗ったエルフの男性は、まっすぐに私を見つめてそう切り出した。彼の表情は真剣そのもので、その瞳の奥には深い憂いの色が滲んでいる。閉店時間を過ぎたカフェには、もう私と、片付けを手伝ってくれていたルゥフさんしかいない。外の喧騒が嘘のように静かだった。
「どうぞ、中でお話を伺います。立ち話もなんですし、温かいものでもいかがですか?」
私は彼を店の中へと招き入れ、一番落ち着ける窓辺のテーブル席へと案内した。彼の緊張を少しでも和らげられたらと思い、エララさんにもらったばかりの、心が落ち着く香りのするハーブティーを淹れる。湯気と共に立ち上る優しい香りが、静かなカフェに満ちていった。
「ご丁寧にどうも……」
アルヴィンさんはカップを手に取ったが、飲むこともせず、ただじっと湯気を見つめている。その姿からは、彼の切実な思いが痛いほど伝わってきた。
「それで、お話というのは?」
私が促すと、彼は意を決したように顔を上げた。
「単刀直入に申し上げます。どうか、我が主人のために、その力を貸していただけないでしょうか。あの方を、救っていただけませんか」
彼はその場で椅子から立ち上がると、私に向かって深々と頭を下げた。突然のことに、私は驚いて言葉を失う。
「あの、頭を上げてください。私に、何ができるというのでしょうか」
「あなたのパンです」
アルヴィンさんは顔を上げ、真剣な眼差しで続けた。
「先日の収穫祭、あなたのパンの評判は、我々エルフの里にまで届いております。そのパンは、ただ美味しいだけでなく、食べた者の心と体を内側から温め、癒やす不思議な力を持っていると。その噂に、私たちは最後の望みを託したいのです」
彼の話によると、主であるフィン様は、森の奥深くにある館で、もう何年も原因不明の病に伏せているという。
「主人は気力をすっかり失い、今では食事もほとんど喉を通らない状態なのです。様々な医者や高名な魔法使いが手を尽くしたのですが、一向に良くならず……。体だけでなく、心が生きることを拒絶しているかのようで、日に日に衰弱していくばかり。我々にはもう、ただそれを見守ることしかできずに……」
彼の声は、悲しみと無力感で震えていた。
「そんな時、あなたの噂を耳にしたのです。あなたのパンは、食べた人の心と体を癒やす、陽だまりのような力があると。もしよろしければ、どうか、我が主人のために、元気の出るパンを焼いてはいただけないでしょうか」
その話を聞き、私は依頼の重さに言葉を失った。私のパンで、誰かを助けることができるかもしれない。それは、町の人を笑顔にするのとは訳が違う。一つの命を左右するかもしれない、重い責任を伴う依頼だった。私に、そんな大それたことができるのだろうか。
一瞬の迷いの後、私は自分の原点を思い出した。誰かの「美味しい」という笑顔のために、心を込めてパンを焼く。それが私の幸せだった。ならば、病に苦しむ人がいるのなら、その人のために全力を尽くすのが、私のパン職人としての道のはずだ。
「……わかりました。私にできることでしたら、喜んでお引き受けします」
私の返事を聞くと、アルヴィンさんは心から安堵したように顔を上げた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「おお……! 引き受けてくださいますか! なんとお礼を申し上げたらよいか……!」
話を聞くと、森の奥深くにある館までは、ここから歩いて数日かかるという。道も険しく、森に慣れていない者だけで行くのは、少し難しいらしかった。
その話を、工房で薪を割っていたルゥフさんにすると、彼は迷うことなく、きっぱりと言った。
「道案内なら、俺に任せろ。あの森は、俺の庭みたいなもんだ」
斧を振り下ろすのをやめ、彼はまっすぐに私を見つめていた。その金色の瞳には、揺るぎない決意が宿っている。彼の申し出は本当に心強かった。ルゥフさんが一緒なら、何も心配することはない。
私たちが森の館へ行くという話は、すぐに町中に広まった。そして仲間たちが、次々と私たちのために協力を申し出てくれたのだ。
「なんだと! 嬢ちゃんが、そんな遠くまで行くっていうのか! よし、任せとけ!」
話を聞きつけたボルギンさんは、その日のうちに、私のために特別な道具を作り始めてくれた。彼の工房は夜遅くまで火が灯り、金属を打つ音が響き渡っていた。翌日、彼が私の店に持ってきたのは、ぴかぴかの携帯用かまどと調理道具一式だった。
「これは、俺が作った携帯用のかまどと調理道具一式だ。ドワーフの技術の粋を集めたもんだからな、軽くて丈夫で、どこででも最高のパンが焼けるはずだ。ほら、持ってけ!」
彼はまるで子供がおもちゃを自慢するように、その道具を私に手渡してくれた。細部まで丁寧に作られた道具からは、彼の職人としての誇りと、私への温かい心遣いが伝わってきた。
「ユイさん、大変な旅になるでしょうから、これを」
エララさんは、たくさんの乾燥ハーブを、綺麗な布袋に入れて持ってきてくれた。
「これは、体の疲れを取るハーブ。こっちは、気持ちを落ち着かせる効果があるもの。そして、これは、どんな傷にも効く薬草よ。きっと、旅の役に立つわ」
彼女の優しい笑顔に、私の心も温かくなる。彼女は私の手を握り、「絶対に無理はしないでね」と何度も繰り返した。
「ユイ殿、わしにできるのは、これくらいですが……」
フェンウィック先生は、何冊かの古びた、しかし、丁寧に手入れされた本を貸してくれた。
「森の地理や、そこに生息する植物について書かれた貴重な書物です。きっと、ルゥフ殿の助けになるでしょう。知識は、どんな屈強な護衛にも勝る武器となり得ますからのう」
みんなが、私のことを自分のことのように心配し、助けようとしてくれる。この町の温かさが、私の胸にじんわりと染み渡った。私は一人じゃない。みんなの思いが、私の背中を押してくれている。
数日後、すべての準備を整えた私とルゥフさんは、早朝、町の入り口に立っていた。リュックサックには、パンの材料と、仲間たちがくれた心のこもった道具が詰まっている。ずっしりとした重みが、みんなの期待の重さのように感じられた。
「それじゃあ、行ってきます!」
見送りに来てくれたみんなに手を振ると、たくさんの「頑張って!」という声が返ってきた。エララさんは目に涙を浮かべ、ボルギンさんは腕を組んでそっぽを向いている。でも、その耳が少し赤いのが見えた。フェンウィック先生は、杖を片手に穏やかに微笑んでいる。
その温かい声を背に、私たちは森へと続く道へ、第一歩を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます