第4話
ドアの方へ視線を移すと、そこに立っていたのはエララさんだった。店じまいをしたはずの窓から明かりが漏れているのを見て、心配して様子を見に来てくれたらしい。
「ユイさん、まだ起きていたのね。何かあったのかと思って」
彼女の声には、友人への純粋な気遣いが滲んでいた。
「エララさん、ごめんなさい、心配させちゃって。新しいパンのアイデアを思いついたら、なんだか夢中になってしまって」
私がそう言ってカウンターの上に置いた赤い木の実を見せると、エララさんは「まあ!」と嬉しそうに声を上げた。
「それは陽だまりベリーじゃない! 森の奥深く、陽の光が優しく降り注ぐ特別な場所じゃないと採れない、とても貴重な実よ。食べた人を、心から温かい気持ちにさせてくれるって言い伝えがあるの」
「陽だまりベリー……お店の名前と同じですね」
その偶然に、私は小さな運命を感じた。
「ええ、まさに今のユイさんにぴったりの贈り物ね。一体、誰からいただいたの?」
「ルゥフさん、という狼の獣人の方に」
私の言葉に、エララさんは「ああ、ルゥフさんなら納得だわ」と優しく微笑んだ。彼女の表情から、ルゥフさんへの信頼が窺える。
「彼はこの辺りの森を知り尽くしている、森の番人のような人なの。口数は少ないし、見た目で誤解されがちだけれど、とても心優しいのよ。きっと、ユイさんのパンがよほど気に入ったのね。彼が誰かのために森の恵みを分けてあげるなんて、滅多にないことだから」
エララさんの話を聞いて、ルゥフさんの印象がまた少し変わった。ぶっきらぼうに見える態度の裏に、不器用な優しさが隠れているのかもしれない。ただ怖い人というわけではないのだ。
「よかったら、お茶でもいかがですか? 新しいハーブが手に入ったんです。月涙草という名前で、とても落ち着く香りがするんですよ」
私はエララさんを店内のテーブル席に案内した。彼女は「嬉しいわ」とにこやかに席に着く。
私が月涙草のハーブティーを淹れると、工房と店内に、心が洗われるような清々しい香りが広がった。湯気と共に立ち上る香りは、夜の静けさによく合っている。
「この香り……とてもリラックスできるわ。ユイさんの淹れるお茶は、まるで魔法がかかっているみたいね」
「そんなことないですよ。エララさんとお話ししていると、私の方こそ、いつも元気をもらえますから」
私たちは、お茶を飲みながら色々な話をした。獣人族は、私たち人間よりもずっと自然との結びつきが強く、五感が鋭いこと。特に狼の獣人であるルゥフさんは、香りや味に込められた生命の力を、人一倍強く感じ取れるのだろうとエララさんは言った。
「だから、ユイさんのパンに込められた特別な力も、彼はすぐに分かったんだと思うわ。言葉にしなくても、ちゃんと伝わっているのよ」
その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなった。
話しているうちに、陽だまりベリーを使ったパンのアイデアが固まってきた。
「このベリーの甘酸っぱさは、きっとクリームチーズによく合うと思うんです。サクサクのデニッシュ生地に乗せて焼いたら、美味しいんじゃないでしょうか」
「まあ、素敵! 想像しただけで、お腹が鳴ってしまいそうだわ」
エララさんが目を輝かせるのを見て、私は嬉しくなった。誰かが喜んでくれる顔を想像しながら作るパンは、きっともっと美味しくなる。
「もしよかったら、見ていきませんか? そして、一番に味見してほしいんです」
「もちろんよ! こんなに楽しいこと、見逃せるわけないわ」
私は工房へ向かい、エララさんは興味深そうにカウンター越しにその様子を眺めている。私はまず、最高級のささやき小麦の小麦粉と、新鮮なバターを使って、デニッシュの生地を折り込み始めた。生命魔法を込めると、バターの層と生地の層が、まるで呼吸をするかのように美しく重なっていくのが手のひらを通して伝わってくる。均一で、それでいて生きているような弾力。
次に、この世界で手に入れた、ミルクが濃厚なチーズに少しだけ甘みを加えて、滑らかなクリームチーズを作る。木製のヘラで丁寧に混ぜ合わせると、つややかなクリーム状になった。
そして、主役の陽だまりベリーだ。一つ一つ丁寧にヘタを取り、デニッシュ生地の上に乗せていく。宝石のように赤い実が、白いクリームチーズの上で輝いている。
かまどで焼き上げると、バターの豊かな香りと、ベリーの甘酸っぱい香りが混じり合って、工房中をこの上なく幸せな匂いで満たした。それは、ただの甘い香りではない。生命力そのものが焼かれて放つ、力強い香りだった。
焼き上がったデニッシュは、こんがりとした狐色で、表面に乗った陽だまりベリーがきらきらと輝いている。
「さあ、エララさん。熱いうちにどうぞ」
私は一番出来の良いものを皿に乗せ、彼女の前に差し出した。
「ありがとう、ユイさん! いただくわね」
エララさんは、フォークでデニッシュを一口食べると、その緑色の瞳を大きく見開いた。
「……おいしい……! こんなに美味しいデニッシュ、生まれて初めて食べたわ! サクサクの生地と、とろけるクリームチーズ、そしてベリーの甘酸っぱさが、口の中で踊っているみたい!」
彼女は心の底から感動してくれているようだった。私も一口食べてみる。自分で作ったものながら、その完璧な味の調和に、思わず笑みがこぼれた。陽だまりベリーの効果だろうか、一口食べただけで、体の芯からぽかかと温かくなって、幸せな気持ちが満ちてくる。
「このパンは、きっと町の名物になるわ! 私が保証する!」
エララさんはそう言って、自分のことのように喜んでくれた。
その夜、エララさんが帰った後も、私はしばらく工房で考え事をしていた。お店は順調で、お客さんも喜んでくれている。でも、この町にはもっとたくさんの人がいる。私のパンを待ってくれている人が、まだいるかもしれない。
(もっとたくさんのパンを焼くには、どうしたらいいだろう)
一人で生地をこねる量には、どうしても限界がある。特に、力のいるライ麦パンの生地などは、一日に何個も作るのは大変だった。腕の筋肉が、毎日悲鳴を上げている。このままでは、いつか体を壊してしまうかもしれない。
翌日、私はエララさんの助言を思い出して、ボルギンさんの鍛冶屋を訪ねることにした。彼の無骨な仕事場には、独特の熱気と鉄の匂いが満ちていた。
「ボルギンさん、こんにちは。少し、ご相談したいことがあるのですが」
「……おう。かまどの調子はどうだ」
彼は相変わらずハンマーを振るう手を止めずに、低い声で答えた。
「はい、おかげさまで絶好調です。それで、今日は、新しい道具のことで……」
私は、生地を自動でこねてくれるような道具は作れないだろうか、とボルギンさんに相談してみた。私の拙い説明を、彼は黙って聞いていた。
案の定、彼は最初、眉間に深い皺を寄せた。
「自動だと? パン作りってのは、自分の手で心を込めてこねるもんだろうが。そんな軟弱な道具に頼ろうってのか」
彼の声には、職人としての矜持が滲んでいた。
「もちろん、手でこねるのが一番だとは思います。でも、私の力だけでは、作れるパンの数に限りがあって……。もっとたくさんの人に、私のパンを食べて、元気になってもらいたいんです」
私は、真剣に自分の想いを伝えた。ボルギンさんは、ようやくハンマーを置くと、汗を拭いながら私の目を見つめている。
「もし、私の魔法の力を注ぎ込むことで動くような道具が作れたら、それはただの機械じゃなくて、私の心も一緒に、生地に込めてくれると思うんです」
私のその言葉に、ボルギンさんの目の色が変わった。彼は腕を組み、ふむ、と唸る。彼の職人としての興味が、私の提案に向けられたのがわかった。
「……魔法で動かす道具、か。なるほどな。ドワーフの技術と、お前のその不思議な魔法を組み合わせる……。面白い。実に、面白いじゃねえか」
彼の職人魂に火がついたようだった。彼は工房の奥から、羊皮紙と木炭を持ってくると、その場で設計図を描き始めた。その手つきは、荒々しい普段の仕事ぶりとは裏腹に、驚くほど繊細だった。
「素材は、熱伝導が良くて、魔法の力を込めやすい『虹色粘土』がいいだろう。それから、生地を適温に保つために、『温石』をいくつか埋め込む。動力は魔法で賄うとして、回転の軸は……」
次々と専門的なアイデアが出てくる。私はただただ、感心して聞き入るばかりだ。
「よし、任せとけ。お前の魔法に見合う、最高の『自動こね鉢』を作ってやる。一週間、時間をくれ」
ボルギンさんは、少年のように目を輝かせながら、そう請け負ってくれた。
それからの一週間、お店はますます繁盛した。新メニューの「陽だまりベリーのデニッシュ」は、エララさんの予告通り、あっという間に看板商品になった。開店と同時に売り切れてしまう日も少なくない。
「お姉ちゃんのデニッシュ、食べると太陽の味がするー!」
ハーフリングの三つ子たちは、毎日のようにデニッシュを買いに来てくれる常連さんだ。彼らの小さな手にデニッシュを渡すたび、私の心も温かくなった。
フェンウィック先生も、もちろんデニッシュを気に入ってくれた。彼は店のテーブル席で、紅茶と共に優雅にデニッシュを味わうのが日課になった。
「このベリーは、ただ甘いだけではない。生命力そのものを凝縮したような、力強い味わいがある。それを、あなたの魔法が見事に引き出している。見事な作品ですな」
彼の言葉は、いつも私に自信を与えてくれる。
そして、ルゥフさんも、三日に一度くらいのペースで、静かに店を訪れた。彼は何も言わずに、陽だまりベリーのデニッシュを指さす。その金色の瞳が、デニッシュに向けられる時だけ、ほんの少しだけ柔らかくなるのを私は知っていた。
「ルゥフさん、こんにちは。このデニッシュ、あなたがくださったベリーで作ったんですよ」
私がそう伝えると、彼は一瞬だけ驚いた顔をして、そして、ほんのわずかに口元を緩めた。その小さな変化が、私にはとても嬉しかった。
彼はデニッシュを買うと、今度は森で採れたらしい、とても香りの良いキノコをカウンターに置いて、また静かに去っていった。言葉は少ないけれど、彼との間には、パンを通じた確かな心の交流が生まれているのを感じていた。
そして、ボルギンさんと約束した一週間が経った頃。町は週に一度の市場の日で、いつも以上に活気に満ちていた。パンはもうほとんど売り切れてしまい、私は工房の片付けを始めていた。ボルギンさんの工房へ、完成した道具を受け取りに行くのが楽しみだった。
そんな時、店のドアベルが軽やかに鳴った。
「ユイさん! 少しお店を閉めて、一緒に市場に行かない? 今日は珍しいものがたくさん出ているわよ!」
エララさんが、いつもの明るい笑顔で私を誘いに来てくれた。
ボルギンさんの工房に行く前に、少しだけ町の賑わいを見てみるのもいいかもしれない。
「はい、ぜひ!」
私は「本日分は完売しました」の札をドアに掛けると、エララさんと一緒に、町の中心にある広場へと向かった。
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