第2話
翌朝、窓から差し込む柔らかな光で私は目を覚ました。昨日までのオフィスでの目覚めとは全く違う、穏やかな朝だ。体の重さもなく、むしろ活力がみなぎっているのを感じる。小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、新しい一日が始まったことを告げていた。
「よし、今日から本格的にお店の準備をしよう」
まずは、この素敵な建物を、私のパン屋さんとして生まれ変わらせることからだ。昨日は工房を中心に掃除したけれど、お店になるスペースはまだ手付かずだった。私は腕まくりをして、箒を手に取った。
床に積もった埃を丁寧に掃き出し、壁の蜘蛛の巣を払う。窓ガラスは一枚一枚、丁寧に磨き上げた。くすんでいたガラスが透明になると、朝日が店内に満ち、空間全体が明るく温かいものに変わっていく。埃っぽい匂いが消え、代わりに木の床の乾いた香りがした。
夢中で掃除をしていると、店の前で誰かが足を止める気配がした。磨き上げたばかりのガラス窓の向こうに、人影が見える。
「こんにちは。新しく越してこられた方?」
優しげな声に振り向くと、そこには透き通るような緑の髪をした、美しい女性が立っていた。尖った耳としなやかな立ち姿。彼女がエルフだということは、すぐにわかった。
「はい、そうです。昨日、こちらに」
私がドアを開けて挨拶すると、彼女はにこりと微笑んだ。その笑顔は、まるで花が咲くようだった。
「まあ、素敵! この場所、ずっと空いていたから、誰かが使ってくれるのを心待ちにしていたの。私はエララ。この先の角で花屋を営んでいるのよ」
「ユイと申します。ここでパン屋さんを開こうと思っているんです」
「パン屋さん! なんて素晴らしいのかしら! この町には美味しいパン屋さんがなかったから、みんな大喜びするわ!」
エララさんは自分のことのように喜んでくれた。彼女の明るさは、こちらの心まで軽くしてくれる。
「もし何か困ったことがあったら、何でも聞いてちょうだい。この町のことなら、大抵わかるから」
「ありがとうございます、エララさん。実は早速、パンの材料をどこで揃えたらいいか、探していたところなんです」
「それなら、広場の近くにある『森の恵み』っていう食料品店がいいわ。品揃えもいいし、店主のポポさん……ハーフリングの方なんだけど、とても親切よ。あとは、雑貨なら『ドワーフの金槌』ね。頑丈で良いものが揃っているわ」
親切に教えてくれるエララさんに、私は心から感謝した。見知らぬ土地での生活に、確かな光が差したように感じた。
「本当に助かります。早速、行ってみますね」
「ええ! お店の開店、楽しみにしているわ!」
エララさんと別れた後、私は彼女が教えてくれた店に向かうことにした。まずは食料品店の「森の恵み」だ。石畳の小道を進んでいくと、どんぐりの形をした可愛らしい看板が見えてきた。
店の中に入ると、様々な穀物や果物、スパイスの香りが混じり合った、心地よい匂いに包まれた。棚には、見たこともないような野菜や、きらきらと輝くジャムの瓶が並んでいる。天井からは乾燥ハーブの束が吊るされ、穏やかに揺れていた。
「いらっしゃい! 何かお探しだい?」
カウンターの奥から、元気な声とともにひょっこりと顔を出したのは、エララさんが言っていた通り、小柄なハーフリングの男性だった。
「こんにちは。パンの材料を探しに来ました。小麦粉や酵母、お塩などを」
「おお、パン職人さんかい! それなら、とびきり良いものがあるよ!」
ポポさんと名乗った店主は、てきぱきと棚から商品を取り出してくれる。私は、並べられた小麦粉の袋に、そっと手を触れてみた。生命魔法を使うと、素材が持つ生命の力が、光の濃淡として感じられるのだ。ある小麦粉は穏やかな白い光を放ち、別のものは力強い黄金の光を秘めているのがわかる。
(こっちの小麦粉は、すごく優しい光をしている。きっと、ふっくらとしたパンが焼けそう)
「こちらの『ささやき小麦』の小麦粉をいただけますか?」
「おや、お客さん、目が高いね! それは風の丘で丁寧に育てられた、一番の上物だよ。普通の職人さんには、ちょっと値段が高くて手が出ないって言われるんだけどね」
ポポさんは少し驚いた顔をしている。女神様がくれた資金には余裕があったので、迷わず一番良いものを選ぶことにした。他にも、水晶のように透明な岩塩や、袋を揺するとくすくすと笑い声のような音を立てる「笑い酵母」という珍しい酵母も購入した。
支払いを済ませて店を出ると、ポポさんは「美味しいパン、期待してるよ!」と大きく手を振ってくれた。
次に、雑貨屋の「ドワーフの金槌」へ向かった。こちらは打って変わって、鉄や木の匂いがする、無骨で頑丈そうな品物が並ぶ店だった。パン作りに使うボウルや麺棒など、必要な道具をいくつか買い揃えた。店主のドワーフは無口だったが、私が選んだ品物の良さを簡潔に説明してくれ、職人としての誠実さが感じられた。
工房に戻り、荷物を整理していると、一つ問題があることに気がついた。部屋の隅にある、大きなレンガ造りのかまど。昨日使った時は問題なかったけれど、よく見ると、扉の蝶番が少し歪んでいて、熱が逃げやすくなっているようだ。これでは安定した火力を保てない。
(これは、専門の人に見てもらった方がいいかもしれない)
私は再びエララさんの花屋さんを訪ねて、鍛冶屋さんを紹介してもらった。
「かまどの修理なら、ボルギンさんが一番よ。少し気難しいところがあるけれど、腕は確かなドワーフだから」
町の外れにある鍛冶屋へ行くと、カン、カン、とリズミカルな金属音が響いていた。中では、屈強なドワーフの男性が、汗を光らせながらハンマーを振るっている。彼がボルギンさんだろう。
「あの、すみません。お店のかまどの修理をお願いしたいのですが」
私が声をかけると、ボルギンさんはハンマーを振るう手を止め、ちらりとこちらに視線を向けた。鋭い眼光に、少しだけ気圧される。
「……かまどだと? 新顔だな。どこの店だ」
「広場を抜けた先の、以前パン屋さんだった建物です」
「ああ、あの古いやつか。わかった、後で見に行く」
ぶっきらぼうな返事だったけれど、断られなくてほっとした。私は礼を言って、一旦工房へ戻ることにした。
しばらくして、ボルギンさんが大きな道具箱を担いでやってきた。彼はかまどをじろじろと眺め、扉を何度か開け閉めすると、すぐに問題点を見抜いたようだった。
「蝶番だけじゃねえな。中のレンガにも少しひびが入ってる。これも直しといてやる」
そう言うと、彼は手際よく修理を始めた。私はその真剣な仕事ぶりを、邪魔にならないようにそっと見守る。一時間ほどで、修理は完璧に終わった。扉は滑らかに開閉し、レンガのひびも綺麗に埋められていた。
「ありがとうございます。お代は……」
「……パン屋なんだろ。美味いパンが焼けたら、それで一番硬いやつを一つ、持ってこい。それが代金だ」
ボルギンさんはそれだけ言うと、またぶっきらぼうに去っていった。見た目は少し怖いけれど、きっと優しい人なのだろう。
(一番硬いやつ、か。ライ麦を使った、どっしりしたパンがいいかもしれないな)
新しい目標ができて、私は嬉しくなった。
夕方、広場のベンチに座って、少し休憩することにした。これから作るパンのレシピを、持参したノートに書き出していると、隣に座っていた老紳士が、優雅な仕草で話しかけてきた。
「それは、珍しい文字の書き方ですな。もしや、東の方から来られた旅の方かな?」
「ええと……まあ、そんなところです」
異世界から来た、とは言えずに曖昧に濁すと、彼は深く追及することなく、にこやかに頷いた。
「わしはフェンウィック。この町で、隠居暮らしをしている者です。よろしければ、お嬢さんの故郷の話でも聞かせてくださらんか」
フェンウィック先生と名乗った彼は、元学者で、様々なことに興味があるらしかった。私は前の世界のパンの話をした。クロワッサンやベーグル、食パン。彼にとってはどれも初めて聞く名前だったらしく、興味深そうに耳を傾けてくれた。
「ほう、パンにもそれほど多くの種類があるとは。実に面白い。あなたがこの町でパン屋を開かれると聞きましたが、今から楽しみですな」
彼はどこかで私の噂を聞いていたらしい。この町は小さいから、噂が広まるのも早いのだろう。
工房に戻った私は、ボルギンさんに修理してもらったばかりのかまどに、早速火を入れた。新しく手に入れた「ささやき小麦」の小麦粉と、「笑い酵母」を使って、基本の丸いパンを焼いてみることにした。
生命魔法を込めて生地をこねると、それはまるで生きているかのように、私の手に吸い付いてくる。発酵させると、前の世界では考えられないほど、きめ細かく、ふっくらと膨らんだ。
かまどで焼き上げると、工房中に、これまで嗅いだことのないような、甘くて香ばしい、幸せな香りが満ちていく。
焼き上がったパンは、完璧な出来栄えだった。太陽のような焼き色と、ふかふかの手触り。一口食べると、外はさっくり、中は驚くほどしっとりとしていて、小麦の優しい甘さが口いっぱいに広がった。そして、じんわりと体が温かくなるのがわかる。
(すごい……これが、この世界の材料と、私の魔法の力)
私は、このパンを、お世話になった人たちに届けに行くことにした。
まずはエララさんの花屋さんへ。
「ユイさん、どうしたの? ……まあ、なんて良い香り!」
「試作品が焼けたので、ぜひ食べていただきたくて」
パンを差し出すと、エララさんは花が咲くような笑顔になった。
「ありがとう! なんて美味しそうなんでしょう。……あら? なんだか、このパンから、優しい花の香りがするような気がするわ」
彼女の言葉に、私は少し驚いた。生命魔法は、食べる人の心に寄り添うのかもしれない。
次に、ボルギンさんの鍛冶屋へ。彼が好きだと言っていた、硬いパンも焼いてみた。ナッツとドライフルーツをぎっしり詰め込んだ、ライ麦パンだ。
「……おう」
相変わらずのぶっきらぼうな返事だったが、彼はパンを受け取ると、その場で大きな口を開けてかぶりついた。そして、無言で咀嚼し、ごくりと飲み込むと、一言だけ、ぽつりと呟いた。
「……悪くねえ」
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、私は見逃さなかった。
最後に、広場で会ったフェンウィック先生の家を訪ねた。彼は、私が焼いたパンをじっくりと観察し、香りを楽しみ、そしてゆっくりと味わった。
「これは……素晴らしい。小麦の風味だけでなく、酵母の持つ生命力、そして作り手であるあなたの優しい心が、見事に調和している。まるで、一口で物語を読んでいるかのような、奥深い味わいですな」
学者らしい分析と、心のこもった賛辞に、私は顔が熱くなるのを感じた。
町の人たちの温かさに触れ、私の心は決まった。店の名前は「陽だまり」にしよう。私のパンが、この町の人たちの心に、陽だまりのような温かさを届けられるように。
エララさんに相談して、木の温もりがある、可愛らしい看板を作ってもらった。店の前にその看板を掲げ、磨き上げた窓から見える棚に、焼き上がったパンを並べていく。陽だまりロール、勇気のライ麦パン、夢見るクロワッサン。私が心を込めて作った、最初のパンたちだ。
これで、明日からいつでもお店を開けられる。
開店準備がすべて整ったのは、もう夜も更けた頃だった。工房で最後の片付けをしていると、店のドアが、ぎぃ、と静かに開く音がした。
(こんな時間に誰だろう? エララさんかな?)
そう思って店のほうへ顔を向けると、そこに立っていたのは、見知らぬ人物だった。
月明かりを背にして立つ、大きな影。逆光ではっきりと姿は見えないけれど、人間ではないことだけはわかった。すらりとした体躯に、ぴんと立った耳。そして、銀色に輝く髪……いや、毛並み。
ゆっくりと、その人物が店の中に一歩足を踏み入れる。月光がその姿を照らし出した。
そこにいたのは、銀色の毛並みを持つ、狼の獣人だった。私よりもずっと背が高く、がっしりとした体つきをしている。鋭い金色の瞳が、店内に満ちるパンの香りの源を探るように、私をじっと見つめている。その威圧感に、私は思わず息を飲んだ。
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