異世界釣り師のグルメライフ ~神スキル『無限釣竿』で、気ままなスローライフ始めます~
☆ほしい
第1話
「……はぁ」
終電間際の駅のホーム。俺、塩田快(しおた・かい)、三十歳独身。手にしたビニール傘に全体重を預けるようにして、深いため息をついた。もう何日、まともに寝ていないだろうか。蛍光灯の白い光が、疲労でかすむ視界に染みて痛い。いわゆるブラック企業というやつに勤めて、早八年。昇進もなければ、給料が上がる気配もない。ただ、積み重なっていくのは疲労と、空っぽの栄養ドリンクの缶だけだ。
後輩のミスを被っての連日徹夜。上司からは理不尽な叱責。取引先への謝罪行脚。もう、何もかもが嫌になっていた。いっそこのまま、ホームからふらりと……なんて、不穏な考えが頭をよぎった瞬間、ぐらりと世界が揺れた。
いや、違う。めまいだ。立っていられないほどの強烈なめまいに襲われ、俺はなすすべもなくその場に崩れ落ちた。遠のく意識の中で最後に聞こえたのは、焦ったような駅員の声と、電車の到着を告げる無機質なアナウンスだった。
次に目を開けた時、俺は柔らかな草の上に横たわっていた。
「……どこだ、ここ」
体を起こすと、目の前には信じられないような光景が広がっていた。どこまでも透き通った、鏡のような湖。その向こうには、鬱蒼とした深い森が続き、空には見たこともないほど大きな二つの月が浮かんでいる。駅のホームにいたはずが、どうしてこんな場所に? 誘拐? いや、それにしては状況がファンタジックすぎる。
混乱する頭で自分の体を見下ろす。服装は会社に着てきた安物のスーツのままだ。ポケットを探ると、スマホと財布、それに会社の鍵が入っていた。スマホの画面は……圏外。まあ、そうだろうな。
途方に暮れて湖面を眺めていると、ふいに、目の前の空間に半透明のウィンドウが浮かび上がった。テレビゲームで見るような、そっけないデザインのウィンドウだ。
【ステータスオープン】
「うわっ!?」
思わず声が出た。なんだこれ。幻覚? 疲労のあまり、ついに頭がおかしくなったか? しかし、ウィンドウは俺が瞬きをしても、頭を振っても消えない。そこには、くっきりと文字が並んでいた。
名前: シオタ カイ
種族: ヒューマン
称号: 異世界人
レベル: 1
HP: 98/100
MP: 15/15
【ステータス】
キャスティング精度: E
リール筋力: E
忍耐力: D
幸運: C
釣り人の直感: E
【スキル】
《ユニークスキル》
・【無限釣竿Lv.1】
・【絶対味覚】
《共通スキル》 ・言語理解
「……マジか」
思わず乾いた笑いが漏れた。ステータス。スキル。異世界人。これは、あれだ。最近流行りの、異世界転移というやつじゃないか。ブラック企業から異世界へ。なんて都合のいい……。
しかし、俺のステータスはあまりにも貧弱だった。ほとんどが最低ランクのE。唯一、忍耐力だけがDなのは、社畜生活で培われたものだろうか。だとしたら笑えない。
そして、スキル。ユニークスキルが二つ。
【無限釣竿Lv.1】。説明を念じてみると、ウィンドウに詳細が表示された。
【無限釣竿 Lv.1】: 持ち主の意思に応じて、一本の万能な釣り竿を出現させる。レベルが上がることで、新たな機能や形状が解放される。また、このスキルで釣り上げた生物は『フィッシュポイント(FP)』に変換可能。FPは『湖畔のショップ』で利用できる。
もう一つのスキル、【絶対味覚】も確認する。
【絶対味覚】: 口にしたものの食材、調理法、味付けの全てを完璧に理解し、再現できる。また、食材を見ただけで、最も美味しく食べるための調理法を直感的に理解する。
「……釣り、か」
聖剣でもなければ、大魔法でもない。与えられたのは、釣り竿と、グルメ系のスキル。なんともまあ、地味な能力だ。だが、今の俺にとっては、それで十分すぎるように思えた。
戦う力はない。だが、この湖には魚がいるかもしれない。魚が釣れれば、食料になる。スキルのおかげで、美味しく食べられるかもしれない。それって、最高じゃないか? もう、パワポの資料を作ることも、電話口で頭を下げることもない。ただ、釣って、食べる。
「やってみるか」
俺は立ち上がり、スキルに意識を集中した。「【無限釣竿】、出てこい」と念じると、右手の中にふわりと軽い感触が生まれた。見れば、そこには二メートルほどの、何の変哲もない一本の延べ竿があった。しなやかで、手にしっくりと馴染む。仕掛けは……と見ると、竿の先から伸びた釣り糸の先端には、小さな釣り針と、重り代わりの石、そしてウキらしき木の葉が結ばれていた。ごくごく原始的な仕掛けだ。
問題はエサだ。あたりを見回すと、倒木の根本に湿った土がある。ダメ元で少し掘り返してみると、ミミズが数匹見つかった。うげぇ、と思いつつも、背に腹は代えられない。一番威勢のいいやつを一匹つまみ上げ、針につける。子供の頃、親父に連れられて釣り堀に行った記憶が蘇る。
準備はできた。俺は湖畔に立ち、そっと仕掛けを投げ入れた。ぽちゃんと軽い音を立てて、木の葉のウキが水面に浮かぶ。
あとは、待つだけ。
風が森の木々を揺らし、さわさわと心地よい音を立てる。二つの月が湖面を照らし、幻想的な光景を作り出していた。都会の喧騒も、上司の怒声も、ここにはない。ただ、静かな時間が流れていくだけ。ああ、なんて贅沢なんだ。社畜生活で失っていたものが、少しずつ心に満ちていくような気がした。
どれくらい時間が経っただろうか。木の葉のウキが、ぴくん、と小さく揺れた。
「お?」
心臓が跳ねる。じっとウキを見つめる。さらに、くいっ、と水中に引き込まれた。今だ!
俺は軽く竿を立てる。すると、ぐぐん、と確かな手応えが伝わってきた。生命の感触だ!
「かかった!」
慌てて竿を操る。魚は意外と引くが、リールもない延べ竿だ。慎重に、だが大胆に魚をいなし、岸辺へと引き寄せる。やがて、水面を割って現れたのは、二十センチほどの、美しい魚だった。鱗の一枚一枚が、月光を反射してキラキラと輝いている。まるで水晶でできているかのようだ。
俺は魚を慎重に陸に上げ、針を外した。暴れる魚を掴むと、ウィンドウが再び表示された。
【クリスタル・トラウトを釣り上げました】
「クリスタル・トラウト……」
これが、この世界での最初の獲物。腹が、ぐぅ、と鳴った。さて、どうやって食べようか。そう思った瞬間、スキル【絶対味覚】が発動した。
頭の中に、情報が流れ込んでくる。『この魚は、雑味がなく、極めて淡白で上品な白身を持つ。最高の調理法は、余計な手を加えず、良質な塩のみでその身を焼くこと』。
「塩焼き、か。最高じゃないか」
問題は塩だ。あたりを見回すが、当然そんなものはない。だが、【絶対味覚】はさらにヒントをくれた。『湖畔の北側、白い岩肌が露出している場所。そこに天然の岩塩が……』。
まるでナビゲーションだ。俺はクリスタル・トラウトを近くの大きな葉っぱで包み、言われた方角へ歩き始めた。しばらく行くと、確かに白い岩肌が見えてきた。表面を舐めてみると、しょっぱい。これだ。岩を適当な石で削り、サラサラとした塩の結晶を手に入れる。
湖畔に戻り、乾いた枝を集めて火をおこす。幸い、スーツのポケットにはライターが入っていた。文明の利器に感謝だ。魚の内臓を取り出し(これも【絶対味覚】のおかげでスムーズにできた)、串代わりの枝に刺して、手に入れたばかりの塩を振る。
焚き火にかざすと、じゅう、と音を立てて魚の脂が滴り落ち、香ばしい匂いが立ち上った。もう我慢できない。焼き上がった魚にかぶりつくと、サクッとした皮の食感のあと、ほろりと崩れる白身が口の中に広がった。
「――うまいっ!」
思わず叫んでいた。なんだこれは。ただ塩で焼いただけなのに、今まで食べたどんな高級料理よりも美味い。上品な脂の甘みと、完璧な塩加減。そして、ほのかに香る焚き火の匂い。全てが完璧に調和している。これが、俺が釣った魚。俺が、自分の力で見つけた食材で、調理した料理。
夢中で魚を平らげ、骨だけになった串を眺める。腹は満たされ、心も満たされていた。
もう、戻りたくない。あの息の詰まるような毎日には。
俺は決意した。この世界で生きていこう。釣って、食べて、のんびりと。聖剣も魔法もないけれど、俺にはこの【無限釣竿】がある。それで十分だ。
俺の異世界スローライフは、最高の塩焼きと共に、今、始まった。
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