【海洋恋愛短編小説】世界の果ての凪を、君と(約16,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:ブルー・メランコリー

 その気球ラジオゾンデは祈りのように空へと昇っていく。


 俺の手から離れた純白のゴムの塊はあっという間に灰色の雲の中に吸い込まれて消えた。その先端には気温、湿度、気圧を計測する小さな観測器が吊るされている。それはやがて成層圏で自ら破裂し、短い一生を終えるのだ。


 観測データを地上に送り届けるという己の使命を果たして。


 ラジオゾンデの上昇速度は毎分約300メートル。高度10キロの対流圏界面を越え、20キロの成層圏に到達するまでおよそ90分。その間に500以上のデータポイントを送信し続ける。まさに現代の気象学を支える無名の英雄といえるだろう。


 俺、天樹あまぎわたるもまたこの気球と


 かつては日本の天候の全てを予報するという大きな使命を背負っているつもりだった。

 だが俺は破裂した。

 自らの過信と傲慢さによって。


 ここは北太平洋のど真ん中。最も近い陸地まで千キロ以上。気象観測船「凌風りょうふう」。

 それが俺が逃げ込んできた世界の果てだ。


 一年前まで俺は気象庁本庁のエリート予報官だった。俺が開発を主導した最新AI予測システム「AMATERAS(アマテラス)」は、かつてない精度で未来の天気を予測するはずだった。


 あの日、AMATERASは弾き出した。


 ――線状降水帯の発生確率は3.2%。重大な災害に繋がる可能性は極めて低い。


 俺はその完璧なはずのAIの判断を承認した。


「天樹さん、本当にこれで大丈夫なんですね?」


 部下の山崎が念を押してきたことを今でも覚えている。

 彼女は経験豊富な予報官で、レーダーエコーのわずかな変化に違和感を感じていたのだ。


「AMATERASの計算は完璧だ。過去10年分の気象データと最新の物理モデルを組み合わせた判断に間違いはない」


 俺は自信満々にそう答えた。

 コンピューター画面に映る美しいシミュレーション画像。

 色分けされた降水確率分布図は、どこを見ても危険を示す赤い領域はなかった。


 しかし自然は俺たちの想像とAIの計算をいとも簡単に超えていった。


 その夜、午後11時を過ぎた頃から状況は急変した。九州の西の海上で次々と積乱雲が発生し始めた。それらは教科書に載っているような典型的なバックビルディング現象を起こし、同じ場所に雨を降らせ続けた。


 深夜2時、俺は自宅で緊急連絡を受けた。


「天樹主任! 大変です! 熊本県南部で時間雨量120ミリを観測しています!」


 俺は飛び起きてテレビをつけた。画面に映ったのは信じがたい光景だった。


 濁流が町を飲み込んでいく。


 茶色く濁った水の塊が家々を押し流していく。

 屋根の上で助けを求める人々。

 電柱にしがみつく老人。

 流される車の中から必死に窓を叩く人の手。

 ヘリコプターのサーチライトが照らし出すのは、もはや町ではなく巨大な泥の海だった。


「お母さん! お母さん!」


 瓦礫の中から子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 カメラは容赦なくその光景を映し出す。

 レポーターの声も震えていた。


「川の堤防が決壊しました! 町の3分の1が水没しています! 多くの方が取り残されています!」


 俺の頭の中でAMATERASの冷たい音声が繰り返される。


 『線状降水帯の発生確率は3.2%』


 その3.2%が現実になった。

 いや、それどころか観測史上最悪レベルの豪雨災害となってしまった。


 翌朝、俺は災害対策本部に駆けつけた。

 そこで見たものは地獄絵図だった。


 死者行方不明者リストが次々と更新されていく。17名、35名、52名……数字が増えるたびに俺の心臓が締め付けられる。その一人一人に人生があり、家族があり、未来があったはずなのだ。


「天樹さん……」


 振り返ると、泥だらけの作業着を着た男性が立っていた。

 地元の消防団員だという。


「あんたが気象庁の人か。昨日の夕方、うちの地区では避難準備もなんもできてなかったばい。気象庁が『心配ない』って言うけん、みんな普通に寝ちまった。おかげで逃げ遅れた人が……」


 男性の目には涙が溢れていた。


「うちの隣の田中さん一家は、赤ちゃんもおったとよ。まだ生まれて3ヶ月の。みんな流されちまった……。助けに行こうとしたばってん、水の勢いが強すぎて……」


 俺は何も言えなかった。

 謝罪の言葉すら喉に詰まって出てこない。

 おれはただその場に立ち尽くした。


 最終的な被害は死者73名、行方不明者12名、家屋全半壊2,800棟。

 俺のAIが「安全」と判断した一夜で、これだけの命と生活が失われた。


 線状降水帯――それは気象学でも最も予測困難な現象のひとつだ。


 積乱雲が次々と発生し、同じ場所を通過することで起こる集中豪雨。その発生条件は水蒸気量、風の収束、大気の不安定性など複数の要因が複雑に絡み合う。


 AMATERASはこれらの条件を0.1%の精度まで計算していたはずだった。しかし自然は人間の作った数式など嘲笑うかのように、想定外の暴威を振るったのだ。


 気象庁での査問会議。

 俺は全ての責任を取って辞職を申し出た。

 しかし上層部はそれを許さなかった。


「君一人の責任ではない。これはシステム全体の問題だ」


 だが俺にはわかっていた。

 最終的にAMATERASの判断を承認したのは俺だ。

 山崎の違和感を無視したのも俺だ。

 科学を過信し、自然を甘く見た報いだった。

 すべて俺の責任だ。


 以来、俺は未来を予測することを


 今はただの観測技術主任。


 過去のデータである「観測」を淡々とこなし、本庁に送るだけの日々。

 それは責任のない空虚で、しかし心の平穏を保つための唯一の方法だった。


 船の医務室のドアをノックする。中から感情のこもっていない声がした。


「……どうぞ」


 そこには彼女がいた。


 船医の海部美憂あまべみゆう。長い黒髪を無造作に束ね、その瞳はこの北の海のように深く、そして冷たく凪いでいる。


 彼女もまた俺と同じ漂流者だった。

 元・国際医療NGOの医師。

 紛争地帯の最前線で数年間活動していたという。

 彼女は俺とは違う形で世界と自分に絶望し、この船に流れ着いたのだ。


「……また眠れないんですか、天樹さん」


 彼女はカルテから顔も上げずに言った。

 俺は毎晩、あの水害の悪夢にうなされている。

 濁流に飲まれていく人々の叫び声。


 そして何度も響く自分の声――「AMATERASの予測では安全です」。


「……薬をお願いします」


「……気休めにしかなりませんよ」


 彼女のそのシニカルな物言いは時として俺を苛立たせた。

 だがそれ以上に、俺は彼女の中に自分と同じ種類の魂のメランコリーを感じ取っていた。


 科学を信じられなくなった男と、神も運命も信じられなくなった女。


 私たちはこの動く密室の中で互いの絶望の匂いを嗅ぎつけながら、しかし決してその核心には触れないという奇妙な距離感を保っていた。


 美憂は睡眠導入剤の小瓶を俺に差し出しながら、ふと手を止めた。


「……天樹さん、今日の海水温データを見ました。平年より0.8度も高い。このままだと海洋の熱塩循環に影響が出ますね」


 彼女の口から突然出た専門的な指摘に俺は驚いた。

 医師でありながら海洋学にも造詣が深いとは思わなかった。


「……そうですね。深層水の対流が弱くなれば、海洋の酸素濃度も下がる。海洋生物の生態系に大きな変化をもたらすでしょう」


 俺は淡々とそう答えた。

 俺たちは互いの専門知識を通して、初めて会話を交わしていた。

 そして彼女の言葉には、俺の知らない温度があった。

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