フェロモンの十戒【ナツガタリ’25】
紫陽花
第一章 秘密の香り
1 調香工房
裸電球の薄明かりが、古びた工房を照らしている。
棚には掌サイズの小瓶が多く並び、それぞれに古びたラベルが貼られていた。ラベルのほとんどはアルファベットで書かれていたが、中には達筆な筆文字で、「十六夜薔薇」「
別の棚には、これもまた古い本が並んでいた。主に植物に関する書物が揃っており、日本語の他に英語やフランス語、中国語で書かれている本もある。
畳に換算して六畳ほどの空間は、薬品棚と本棚、そして厳重に密封された小箱で占められていた。それらは三方の壁に配置されており、中央の安楽椅子を囲んでいる。安楽椅子の正面にはオルガンと呼ばれる大きな作業台とキャスターのついた丸椅子、脇には小さなサイドテーブルが置かれていた。
オルガンとは調香を行う為の特別な作業台で、楽器のオルガンのような外見からそのように呼ばれている。調香師を囲むようにカーブを描いた香料棚が何段もあり、すべての香料が手を伸ばせば届くようになっている。
今は亡き祖母の調香工房。
三年前の中学二年のとき、仄香は祖母の薫子を交通事故で亡くしている。
生前、薫子は孫の仄香をとても可愛がっており、特に遺言などは無かったが、仄香がこの調香工房を引き継ぐことを親族のほとんどが反対しなかった。むしろ、仄香が引き継ぐことで安堵したとさえ言える。なぜなら、この工房には今では手に入れることが難しい、貴重な香料が無数にあったからである。そして、その価値を正確に受け継ぐことが出来たのも、祖母譲りの知識と才能を持った仄香しかいなかったからである。
例えば『
壁一面に並んだ香料瓶を眺めやり、仄香はその計り知れない価値にため息をついた。この工房の真の価値を理解しているのは、親族の中では自分だけだという自負はある。親族の多くは工房が価値あるものだと知ってはいても、理解はしていなかった。よく分からない絵画を相続したものの、とんでもない相続税に驚愕する遺族に似ているかもしれない。
実際、祖母が亡くなってすぐ、この工房を取り壊してマンションを建てようと言い出す親族もいた。その時に出てきた「臭くて近所迷惑だろう」というセリフを耳にしたとき、仄香は生まれて初めて他人に憎悪を覚えたのだ。
聖域を破壊しようとする野蛮人。
工房を壊そうとする親族は、年若い少女の目にそのように映った。そしてそういうことを言う者に限って、親族内での発言力が強かったりするのだ。
中学生の身分で親族を説得して回ったのは大変な苦労であったが、最終的には工房を保存し、管理を自分に任せてもらうことができた。名義上は母親のものとなったが、仄香が成人した暁には正式に相続することになっている。
クッション豊かな革張りの安楽椅子に身を沈め、仄香はサイドテーブルに置かれたアロマポットに目をやった。先程まで揺れていたキャンドルの火は消えている。それは、祖母の使っていた古風な陶器製のアロマポットである。
香料は日光が厳禁なものも多いので、この工房に窓はない。強いてあげれば、入り口のドアにある嵌め殺しの小窓くらいだ。そのせいで、この中にいると時間の感覚が失われがちになる。それを嫌ってかどうかはわからないが、薫子が工房においた時計は、童謡にあるような年代物の柱時計であった。一時間ごとに重々しい鐘の音が響き渡るため、嫌でも耳に入る。輸入物なのか、文字盤はローマ数字で書かれ、針は先端に丸のあるブレゲ針をまねた装飾的なデザインだ。そして文字盤の中央には、柱時計には珍しいムーンフェイズがついている。テレビの鑑定番組などに出せば、結構な値が付きそうな骨董品である。
仄香が壁の柱時計に目をやると、針は十一時を指していた。
と、その瞬間に聞き慣れた、しかし不意に響くと心臓に悪い音が鳴り出した。都合十一回。普段の就寝時刻だ。
昨今の高校生には珍しく、仄香は早めに就寝する生活スタイルを通している。その代わり、朝は早い。おばあちゃん子であった仄香は祖母と生活スタイルを合わせていたせいか、同年代の少年少女たちと比べてもかなりの早寝早起きである。修学旅行などで夜更かしに挑戦してみても、誰よりも早く寝入ってしまう。この一点だけを見てババくさいなどと言われてしまうこともあるが、仄香にとっては不本意な話だ。
寝る前にこの工房を訪れ、香りを嗅いでから床に就くのが仄香の日課である。香りは気分によって異なるが、今日の香りはラベンダーにしていた。鎮静作用のあるラベンダーの香りは、就寝用の香水としてはポピュラーなものだ。イライラを解消し、リラックスの効果があるラベンダーは、入浴時に湯船に垂らしてから浸かるという方法もある。
アロマポットを綺麗に洗い、読みかけのハーブの本を書棚にしまう。全てキチンと片付けられていることを確認した仄香は、祖母の遺してくれた調香工房を後にした。
「お休みなさい、おばあさま」
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