第4話



張文遠ちょうぶんえんを生け捕りにした』



 曹操そうそうがある時そう言ったのだ。

 例によって、曹操と夏侯惇かこうとんが私邸で碁を打ち合いながら話している時だった。

 盤面を側で眺めていた郭嘉かくかは目を輝かせた。


 それより前に戦場で呂布りょふと、張遼ちょうりょうと、陳宮ちんきゅうを見かけたことがあった。


「目を輝かせたな。郭嘉。何故だ」


 曹操が腕を組んでにやにやと笑っている。


「呂布陣営で、一人だけ毛色が違って見えたからです」

「毛色か。お前は本当に末恐ろしい」

「本当は殺すおつもりだったのですか?」

 盤面に手を出そうとした郭嘉の小さな手を、夏侯惇が忌々しそうに叩いてどかしている。

「五分五分だな。最終的には元譲げんじょうの判断に任せた」


「殺すつもりだったんですか?」


 今度は夏侯惇の顔を見上げて郭嘉が尋ねると、それを見もしないで夏侯惇が石を強めに打つ。


「当たり前だ。たまたま馬から叩き落とせたから叩き落としただけだ。奴が大したことなかったら胴切りしてやった」


「機嫌が悪いですね。殿の機嫌はとてもいいのに」


 舌打ちした夏侯惇を見て郭嘉が笑っている。

 普通の子供など、夏侯惇が押し黙っているだけで怒っていると勘違いして泣いたりするのに、怒気を見せてもこの子供だけはケラケラ笑うのだ。


 ……曹操も昔からそうだった。


「分かるか」


「はい。なるほど。殿は張文遠ちょうぶんえんを使いたいんだ。嫉妬ですか、将軍」

「お前のようなガキが『嫉妬』などという高尚な感情を知っていたのは誉めてやるが、もう一度言ってみろ。そこの木の一番高い所に吊るして泣いて謝るまで放置するぞ小僧」


元譲げんじょうは剣を持たせれば万物を器用に斬ってみせるがな。頭の方は不器用でお前や俺のように複数のことが同時に考えられん。

 しかし俺の側にいると考えざるを得なくなることはあるだろ。

 だから考え事が多くなると大抵不機嫌になるんだよ」


「誰が複数のことを同時に考えられない馬鹿だ、孟徳もうとく

 袁紹えんしょうとの戦いが差し迫るこの状況で、降将を喜んで使うとは。正気の沙汰か」


「当たり前だ。今、張遼ちょうりょうを使わずいつ使う?」


「あいつは死ぬ覚悟で打って出て来たのだ。直ぐさまお前の寄騎よりきになどならん。

 呂布りょふ陳宮ちんきゅうを処刑したことを話したら、恐らく自刃するだろうよ」


「夏侯惇将軍は殿より呂布を信奉しておられますか」

「なにぃ」

 夏侯惇が隻眼で郭嘉を睨み付ける。


「呂布を見ていれば、張文遠ちょうぶんえんが信念を持って仕えていた人物とは決して思えません。

 せいぜいが武芸の信奉者です。

 殿は呂布を討った。そしてこれから袁紹えんしょうを討ち、河北かほくを平定するという大望を持っておられる。

 間違いなく殿こそ、張文遠が信念と共に仕えるべき方です。

 呂布に出来たことが、殿に出来ないはずがない」


 それを聞いた曹操が大笑いしたが、夏侯惇かこうとんは舌打ちをして機嫌を直さなかった。


「ふん! 勝手にしろ!」


 立ち上がり、彼は去って行った。

 ようやく出番が回って来たかのように郭嘉かくかは、すかさず夏侯惇が座っていた場所に遠慮無く座る。何事もなく盤上を見回して、遠くで「妙才みょうさい! あの五月蠅い小僧捨ててこい!」という怒鳴り声が聞こえてくるのを無視しながら、早速次の手を決めたらしい。

 曹操も相手が代わっても、何事もなく石を打った。


「今夜張遼ちょうりょうに会いに行く。今、城下に留め置いてるからな」


「会ってみたいなあ。壁の向こうでも外でも部屋の隅に置かれた櫃の中でも構いませんから、私も連れて行って下さい。どんなことを話す人なのか、知りたい」

「張遼は生粋の武人だ。隣の部屋に人が潜んでいたら簡単に気付く。

 今夜は余人を交えず一対一で話がしたい。それに奴は寡黙なたちだ。恐らくあまり喋らん」


下邳かひ城からたった一人で打って出て来たというのは本当ですか?」


「本当だ。見物だったぞ。賈詡が指揮を執って矢を雨のように降らせたのに、その中を単騎で突っ込んで来おった」


「……勝敗はもう分かっていたはず。勝敗に関わらない、名を残したいという欲を持っている」


 郭嘉は子供の幼い顔に怜悧れいりな色を浮かべた。


 夏侯惇は郭嘉を嫌っているので、郭嘉が寄って来ると「またお前か」という嫌な反応を隠しもしない。郭嘉はそれが面白いので、夏侯惇の前では敢えて子供っぽく振る舞い、からかって遊んでいるのだ。


 実際郭嘉は、荀彧じゅんいく相手にはあそこまで子供っぽい真似は全く見せない。

 夏侯惇が去った途端、静かな声で呟いた郭嘉が打ち込んで来た石を、やはり気に入りながら曹操は頷いた。


「それなら袁紹えんしょうとの戦いは名を残すに相応しい大舞台になる。

 殿。張文遠ちょうぶんえんはきっと期待に応えたいい働きをします」


 顔を上げて目を輝かせ、郭嘉は言い切った。


「そう思うか」


 誰もが張遼を帰順させるなど無理だ、使い物にならないと言った。

 荀彧じゅんいくはそうは言わなかったが「自刃を望むようなら、呂布と陳宮と共に処刑してやるべきだ」とは言った。

 曹操が荀彧に命じたのは「自刃を望ませるな。説得は俺がする」ということだった。

 戦場で捕らえてから今日まで、下邳かひから長安ちょうあんへ護送して、城ではなく城下に留め置いたのは荀彧の判断だった。


 曹操が説得は自分ですると言った以上、余計なことは荀彧は喋っていないはずだ。

 張遼は今日曹操と話し、何かを見極めようとするに違いない。

   

「はい!」


 快闊に郭嘉が答えた。


 世の知識も、

 記憶、

 経験、

 それを学び取る時間も全く欠けてるはずなのに、この子供には何かが見えている。


 曹操は郭嘉の利発さを深く愛していた。



「もしかしたら今夜あたり下邳かひ方面から報せが届くかもしれん。

 もしそれが届いた時には、お前が届けに来ていいぞ」


 

 曹操がそう笑いながら言ってやると、郭嘉は目を輝かせて喜んだ。



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