第3話『畳の上の、静かな戦い』

前書き



第3話にお越しいただき、ありがとうございます。


今回描かれるのは、柔道を始めてから一年後――5歳になった主人公の姿です。

依然として家庭は貧しく、満足に食べることも、水を飲むこともできない日々。

それでも、少年は柔道をやめなかった。いや、やめられなかったのかもしれません。


投げ技は禁止。

小さな体で受け身を続けながら、寝技の稽古に打ち込む。

同年代の子どもたちに、力では敵わないと分かっていても、前に出る。


今回は、そんな“静かなる闘志”と“飢えと誇りが混じり合う道場の日々”を描きます。



本文



第1章:畳の匂いと、空腹と


⸺⸺


1993年。僕は5歳になった。


春が来た。けれど、家の中はまだ冬のままだった。

水道は止まり、ガスはずっと前から出ない。

夜は布団にくるまっても寒く、朝は父のいびきと酒の匂いで目が覚めた。


幼稚園には行っていない。

父は「そんなもん行かせる金があるか」と言ったきり、働く気配もなかった。

毎日、酒と博打。

タバコの煙と、誰かに怒鳴る電話の声だけが、僕の耳に焼き付いていた。


お腹は、常に空っぽだった。

時々、近くの公園で蛇口の水を飲んだ。

それだけで、少しお腹が落ち着いた気がした。


でも、そんな生活の中で――僕には、たった一つだけ“光”があった。


植木先生だった。


川原での稽古が、いつのまにか、畳のある小さな小屋に変わっていた。

古くてボロいけれど、床にはしっかりと畳が敷かれ、雨風もしのげた。

多分、先生が誰かに頼んで借りたんだと思う。


そこには、僕以外にも何人かの子どもたちがいた。

ちゃんと制服を着て、ランドセルを背負って学校に通っている子たち。

僕より少し大きくて、声も力も強い。

でも、柔道着を着て、畳の上に立てば、僕と彼らは“同じ白帯”だった。


植木先生は、僕の境遇に気づいていたと思う。

だけど、何も聞かなかった。

ただ、「今日も来たな」と言って、パンをひとつ差し出してくれた。

「練習、頑張ったごほうびだ」とだけ言って。


僕は何も言えずに、ただ、頭を下げた。


それでも――

そのパンが、どんな高級料理よりも、美味しかった。



次は第2章「投げられない僕たち」。

投げ技を禁じられた理由、そして寝技の稽古に没頭する日々を描きます。

第2章:投げられない僕たち


⸺⸺


「お前の体じゃ、まだ投げ技はダメだ」


植木先生は、はっきりそう言った。


「骨が柔らかいうちは、下手に投げられたら危ない。受け身を覚えてるとはいえ、技の衝撃は別だ」


「……はい」


僕はうなずいた。

悔しくはなかった。

むしろ、ちゃんと“見てもらっている”ことが嬉しかった。


それからというもの、僕はずっと“寝技”をやっていた。


道場には、僕より少し年上の小学生たちが数人いた。

みんな家庭がしっかりしていて、お腹も満たされていて、育ちの違いは明らかだった。

だけど、畳の上では平等だった。


「さあ、いくぞ」


相手がかけ声を上げる。

組み合って、床に転がり、押さえ込み、絡みつく。


僕は、力では勝てなかった。

すぐに押しつぶされた。

呼吸が止まりそうになっても、先生は止めなかった。


「逃げろ。体を使え」


「……う、うんっ」


動いた。苦しくても、腕を回し、足を絡ませ、腹で踏ん張った。

気づけば、相手の重みが少しだけ浮いた。


「そうだ、そのまま回れ!」


がむしゃらだった。

それでも一瞬だけ、相手の背中に乗ることができた。


「時間。はい、そこまで」


先生の声が響いた。

僕は、泥のように汗をかいていた。


「……はあ……はあ……」


畳の匂いが、鼻に沁みた。

でも、負けたことより、自分の体が“動いた”ことが嬉しかった。


先生が、そっとタオルを投げてくれた。

無言だったけれど、僕はわかっていた。


今日も、ちゃんと見てくれている。


それだけで、十分だった。

第3章:痛みの中の成長


⸺⸺


次の日の朝、僕は目を覚ました瞬間、体中が痛かった。


肩、背中、腕、足――どこもかしこも、筋肉が強張っている。

まともに動かそうとすると、ピリッと痛みが走った。


「……うっ」


声を漏らしたら、奥の部屋から怒鳴り声が飛んできた。


「うるせぇぞ!朝っぱらから!」


父だった。

まだ酒が残っているのか、壁に缶を投げつける音がした。


それでも僕は、黙って起き上がった。

眠りたかった。でも、寝ていたら、植木先生に会えない。


顔を洗おうと水道をひねったが、何も出なかった。

もう慣れた。

上着を引っかけて、公園の蛇口へ向かった。


冷たい水で顔を流す。

その一瞬だけ、自分が“ちゃんと生きている”と感じられた。


――それだけで、十分だった。



その日の稽古でも、僕は何度も何度も、押しつぶされた。

体重では敵わない。力も、腕の太さも、すべて負けていた。


それでも。


「おい、そこの。逃げるの上手くなったな」


稽古を見ていた大人の練習生が、ぽつりとそう言った。


「ちっちゃいけど、動きがいやらしい。体の下から、するっと抜けやがる」


それは褒め言葉だった。


植木先生も、少しだけ目を細めていた。


痛い。苦しい。

でも、誰かに認められるたびに、僕の中に、少しだけ“誇り”が育っていくのを感じていた。


白帯は、汚れていた。

毎日、畳に擦れ、汗と涙を吸って、しわくちゃになっていた。


でも、それが嬉しかった。


その帯が、僕の“努力のしるし”だったから。

第4章:勝てない相手、諦めない自分


⸺⸺


「ほら、そっちの坊主、今日はコウキと組め」


「え〜、またアイツ? 全然力ないじゃん」


コウキは小学校2年生。僕よりも2つ上で、クラスでも足が速いらしい。

彼はいつも僕を下に見ていた。

「ちっちゃい」「すぐ潰れる」「マジで面白くない」と。


でも、僕は逃げなかった。

いや、逃げたくても、道場の壁は逃げ場所にはならなかった。


畳の上では、逃げられない。

目の前に相手が立っていれば、組むしかない。


「始めっ!」


コウキは手加減を知らなかった。

すぐに僕の帯を掴んで引き倒し、力で押し込んでくる。


「こっち来んなってーの」


肘が顔に当たった。

痛かった。

けれど、僕は噛み締めた。


植木先生の声が、心の中に響いていた。


“負けてもいい。逃げるな。受けろ。そして、考えろ”


コウキの腕が首に回る。

苦しい。

でも、僕は少しだけ体を横にずらした。

先生に教わった、あの受け流し。


首が抜けた。


「……あれ?」


コウキの動きが一瞬止まった。


僕はその隙に、腕をすべり込ませ、彼の腰に足を引っかけた。

寝技の一部、返しの形――未完成だけど、必死だった。


「そこまで!」


先生の声で、体が止まった。


結果は押さえ込みにならなかった。

でも、コウキが息を切らしていた。

僕は……最後まで逃げなかった。


「へえ……今の、ちょっと効いたわ」


コウキが小さくつぶやいた。

それは、はじめての“認識”だった。


僕は何も言わなかった。

ただ、立ち上がって、帯をきゅっと結び直した。


どんなに勝てなくても、僕は諦めなかった。

誰かに勝つためじゃない。

昨日の自分に、負けたくなかっただけだ。

第5章:ただ、道場に立つ理由


⸺⸺


その日の稽古の帰り道。

ポケットの中には、小さく折りたたまれた紙袋が入っていた。


「頑張ってたな。これ、持ってけ」

植木先生が、僕の目を見ずに差し出してくれたパン。


「ありがとう」と言えなかった。

でも、ぎゅっと頭を下げた。

先生はいつも、言葉を強要しなかった。


空が赤く染まる頃、僕はひとりで歩いていた。

商店街の端っこ。人通りが減り始めた道。

お腹は空いている。でも、心の中には何か温かいものがあった。


ふと、思った。


――僕は、なんで柔道を続けてるんだろう。


勝てない。

強くもない。

家庭も、学校も、何もない。


でも、畳の上に立つときだけは、僕は“僕”でいられる気がした。


投げ技はまだ教えてもらえない。

道着は借り物。

帯も汚れて、くたびれている。


それでも。


植木先生が見てくれている。

仲間たちと組み合っている。

身体を動かしている。

痛みがある。

温もりがある。


道場にいるときだけは、“人間として扱ってもらえている”気がした。


それが、答えだった。


僕は柔道が強くなりたいんじゃない。

柔道を通して、“誰かに認めてもらえる自分”になりたかったんだ。


帰り道、公園の水道で口を潤した。

冷たい水でも、パンが喉を通った。


今日も、道場に行けてよかった。

明日も、また行こう。


白帯を締めた腰が、ほんの少しだけ誇らしかった。




後書き



第3話、最後まで読んでくださりありがとうございました。


今回描かれたのは、柔道と出会ってから1年が経った少年の姿。

家庭の事情は何も変わらず、飢えと孤独の中に身を置きながらも、

小さな道場の畳の上で、確かに“心の成長”を刻んでいく過程でした。


投げ技は禁止。稽古は寝技と受け身ばかり。

それでも、自分より大きな相手と組み合い、倒されても倒されても立ち上がる――

そんな日々を通して、彼の中に“諦めない心”と“誇り”が生まれていきます。


たとえ勝てなくても。

たとえ白帯でも。

僕は畳の上に立つ。


次回も、どうぞ見守ってください。

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