『汚れた帯に、誇りを乗せて』
天坂 透真
第1話『飢えと孤独と、あの一本』
前書き
この物語は、ある柔道家の原点の記録です。
舞台は1980年代、バブル景気に沸く時代の裏側。
誰もが豊かさを語る一方で、貧困と孤独に沈む家庭も、確かに存在していました。
本作の主人公は、そんな時代の「誰にも名を呼ばれなかった少年」。
飢えを抱えながら、それでも心のどこかで“誰かに甘えたい”と願っていた幼い魂が――
一本の柔道の技にすべてを奪われ、惹かれていく。
汚れた白帯から始まった、誇りの物語。
第1話、どうか読んでください。
本文
第1章:空腹と静寂
⸺⸺
「飯……まだか……」
冬の空気が、窓の隙間からじわりと忍び込む。
築年数が何十年かもわからない木造の家は、隙間風に慣れるどころか、それを“家族”のように迎え入れてしまっていた。
壁には染み。畳には焦げ跡。湯気の立たない鍋と、冷えたご飯粒が貼りついた茶碗だけが食卓に転がっていた。
「……」
俺はまだ四歳。
それでも「空腹」という感覚が、胸よりも先に“喉”へ来ることくらいは知っていた。
父は酒浸りだった。
朝から焼酎。昼にビール。夜には、覚えていないが、たぶんまた焼酎。
仕事? してない。
母親? もういない。
出て行ったのか、消えたのか。
その説明すら聞いていない。ただ、ある朝、食卓にいつもの味噌汁がなかった。
そのときから、母という存在は、俺の世界から静かに消えていった。
ガチャン、と空き瓶が転がる音がした。
奥の六畳間で父が寝返りを打ったのか、それともまた布団の中で何かを蹴ったのか。
声はない。ただの、酒とタバコと、なにかの腐った匂い。
俺は裸足で、冷たいフローリングを歩く。
腹が鳴るたびに、舌が唾液を求めるように動く。
だけど、もう舐める飴もない。昨日まではチラシの裏紙で作った紙風船を蹴っていたけど、それも破れた。
「……でんき、つけちゃだめって、言ってた」
父の言いつけ。
夕方まで電気をつけると「電気代がかかる」と怒鳴られた。
それでも、あの人が怒鳴るときはもうすでに酔ってて、怒ってるのか泣いてるのか分からなかった。
そんな家。
そんな毎日。
でも、俺は、なぜか泣けなかった。
たぶん、涙の出し方を知らなかったんだと思う。
悲しいとか、寂しいとか、言葉にする前に、心の中がずっと「しん……」と静まり返っていた。
外から笑い声が聞こえた。
商店街の子どもたちの声。
おばちゃんたちの声。
肉屋の「今日は鶏モモ100円だよ!」っていう、元気な声。
俺の家には、そういう声が、なかった。
だけど、聞きたかった。
ほんとは、その中に入りたかった。
でも、ボロボロのシャツと泥のついたズボンでは、誰も「おいで」とは言ってくれないのを知っていた。
だから――俺は、出た。
裸足で。
小さな体で。
静かに、商店街へ向かった。
第2章:あの日の“一本”
⸺⸺
冬の空気に包まれた商店街。
夕方の光がガラスに反射し、アーケードの天井がほのかにオレンジ色に染まっていた。
風が吹き抜けるたびに、どこかの乾物屋の鰹節の匂いと、焼き鳥の甘辛いタレの香りが鼻をくすぐる。
――腹が減った。
けれど、立ち止まったのは、匂いに釣られたからじゃない。
人だかりだった。
俺より大きい子どもたち、買い物帰りのおばちゃんたち、エプロン姿の商店主たちまでもが――一斉に、ある一角に注目していた。
古びた電気屋のガラス前。
その中に並べられた、ブラウン管のテレビたち。
「うわあああ! 一本だァァァ!!」
興奮した実況が、テレビのスピーカーから飛び出した瞬間――
誰かが「よっしゃあ!」と手を叩いた。
画面の中。
白い道着をまとった男が、相手の胴に手を回し、一気にその身体を宙に舞わせる。
ブレもなく、迷いもなく。
背負いながらも、美しかった。
俺は、その姿に釘付けになった。
男の顔には、笑みはなかった。
いや、むしろ、泣いていたように見えた。
けれど、その涙は、誰にも負けなかったことを誇る涙だった。
《柔道男子78kg級、日本、金メダル獲得です!》
人々が拍手を送る中。
俺だけが、動けなかった。
立ち尽くしたまま、画面の中の男を見つめていた。
気づけば、寒さも、空腹も、どこかへ消えていた。
「……すげえ」
初めて口から出た言葉だった。
拳を握る。
小さな手の中で、何かが震えていた。
それはきっと、憧れとか、希望とか、そんな難しい言葉じゃなかった。
――“何かになりたい”。
理由なんかない。
でも、なれるなら、あの男のように。
何かを背負って、それでも立ち上がる強さを持てるなら。
俺も、なりたい。
たとえ、それが“夢”という言葉すら知らない年齢だったとしても。
あの一本背負いは、確かに、俺の心を引き裂いた。
そして――
埋めてくれた。
第3章:帰りたくない家
⸺⸺
商店街を出ると、風がいっそう冷たくなった。
夕焼けはすでに薄れて、空の端が紫から黒へと変わり始めていた。
店先に並んでいた弁当が割引シールで赤く染まり、どこかの家からは煮物の匂いが漂ってくる。
「……」
俺のポケットには、何も入っていない。
道ばたに落ちた10円玉を拾って駄菓子を買った日も、今はもう遠い。
帰りたくなかった。
家に戻っても、父が寝ているか怒鳴るか、どちらかだ。
食べるものはない。
灯りはない。
誰も、「おかえり」とは言ってくれない。
だけど、俺には他に行く場所もなかった。
この小さな町の中で、逃げ込める場所も、人も、影もなかった。
足が勝手に、家へと向かう。
いつもの道。けれど、今日は少しだけ、世界が違って見えた。
心の奥に、まだ残っていた“あの背負い”の残像が、寒さを少しだけ忘れさせてくれていた。
「……」
扉を開けた瞬間、酸っぱい匂いと、腐ったようなアルコールの臭いが鼻をついた。
部屋の中は真っ暗。
ただ、父のいびきと、テレビの“砂嵐”だけが鳴っていた。
バチバチッ……ジジジ……
誰も見ていないテレビが、空気を焦がすように音を立てている。
父は、炬燵に半身を突っ込み、口を開けて眠っていた。
手元には、倒れた酒瓶と、濡れた布団。
俺は、そっと自分の部屋――いや、物置のようなスペースへ戻った。
カーテンもなく、古いダンボールと毛布一枚。
でも、その中に丸まると、少しだけ落ち着いた。
「……一本、だったな」
つぶやいた声は、小さすぎて誰にも聞こえなかった。
だけど、俺の心には確かに届いていた。
目を閉じると、あの背負いの瞬間が浮かぶ。
地面に叩きつけられるような技ではなく、宙を舞い、背中から落ちて――
勝った男が、泣いていた。
そうだ。
泣いていた。
強いって、泣くことと、隣り合わせなんだ。
俺は、この家で泣けなかったけれど――
強くなったら、泣いてもいいのかもしれない。
ほんの少し、眠たくなった。
布団の匂いは嫌いだったけど、今日はあまり気にならなかった。
明日も、あの電気屋に行こう。
また、あの映像を見られるかもしれない。
――そのときはまだ知らなかった。
明日、全く別の“出会い”が待っているなんて。
第4章:河原での出会い
⸺⸺
次の日、俺は早くに目を覚ました。
父はまだ寝ていた。
瓶は倒れたまま、炬燵の布団も濡れたまま。
冷蔵庫の中には、何もなかった。
けれど、腹が減っても、昨日の一本が心を温めてくれていた。
「また、見れるかな……」
期待して商店街に行ったけど、電気屋のテレビはもう違う番組になっていた。
人だかりもなかった。
昨日のあの瞬間は、ほんの一度きりの奇跡のようだった。
立ち尽くす。
誰にも気づかれず、誰にも声をかけられず。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
――なんとなく、川を見たくなった。
商店街を外れ、町外れの河原へと向かう。
細い路地を抜けて、錆びたフェンスの間をくぐり、草むらを踏みしめていく。
冷たい風の中、川の音が聞こえてきた。
そして――その音の中に、もう一つ。
「せいっ!」「うおらあっ!」
人の声だ。
河原の広場では、数人の男たちが道着姿で組み合っていた。
投げられた男が土に転がり、すぐに起き上がって笑っている。
周囲にゴムマットもなく、地面の上で。
「型練か……いまどき珍しいな」
声が聞こえた。
低くて、落ち着いた声。
その声の主は、川のほとりの石に腰掛けていた。
道着の上にジャンパーを羽織った、ひげ面の中年男。
目元は笑っていないのに、どこか優しさを感じさせる不思議な顔をしていた。
「……見てたのか」
男が俺の方を見た。
俺は思わず、数歩あとずさった。
「……やってみるか?」
その言葉は、唐突すぎて、最初は何のことか分からなかった。
「柔道だ。見てたろ、昨日の試合。ああいうの、やってみたいか?」
俺は無言でうなずいた。
言葉なんて、いらなかった。
「だったら、まずは受け身だな。投げられても、起き上がる練習だ」
男が立ち上がり、俺に近づいてきた。
大きな手が、俺の肩にそっと触れた。
「名前は?」
――答えられなかった。
名前。
呼ばれたことがなかった。
母からも、父からも、ずっと“おまえ”としか呼ばれていなかった。
俺は俯いた。
だけど、その瞬間。
「よし、じゃあ“おい”でいいか。おい、まずは地面に寝てみろ」
男の声が、どこまでもあたたかくて。
涙が出そうになった。
でも、泣かなかった。
泣いたら、負けだと思った。
俺は、地面に背中をつけた。
寒かった。でも、なんだか――嬉しかった。
第5章:誘い
⸺⸺
「よし、背中を地面につけて……そのまま両手を上に。ほら、こうだ」
男――植木と名乗ったその人は、俺の体の横にしゃがみ、実際に見本を見せてくれた。
背中から落ちたときに、両腕で地面を叩く。
音と衝撃を分散させる――それが“受け身”。
「力抜いて、無理せずやってみろ」
俺は、言われたとおりにやってみた。
地面は硬く、冷たかった。けど、それが不思議と痛くなかった。
「……筋がいい」
植木はそう言って、ぽんぽんと俺の肩を軽く叩いた。
俺は思わず、うつむいた。
嬉しいのに、照れくさくて、目を合わせられなかった。
「明日も来い。練習してるから」
そう言って、植木は立ち上がり、仲間のところへ戻っていった。
その背中が、大きく見えた。
俺は、まだ何もできない。
名前も言えない。
住所も、親のことも、聞かれなかった。
でも――あの人は、そんなこと、どうでもよさそうに笑っていた。
「……うん」
小さく、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
それが、“始まり”だった。
*
夕方、家に戻っても、父は起きていなかった。
部屋の中は暗く、何も変わっていなかった。
でも俺の中には、確かにひとつの変化があった。
明日、行く場所がある。
誰かが、自分のことを待ってくれている。
たったそれだけのことが、胸の奥を温めてくれた。
布団にくるまりながら、俺は手をぎゅっと握った。
小さな拳の中に、昨日の“一本”と、今日の“受け身”が、重なっていた。
名前なんて、まだなかった。
白帯すら、まだもらっていなかった。
だけど――
その日、俺ははじめて“誰かに名前を聞かれた”。
そして、はじめて“明日を生きたい”と思った。
後書き
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
1980年代、バブルの裏で確かに存在していた「家族の崩壊」と「誰にも見つけてもらえない子ども」。
そんな少年が“柔道”という一本の道と出会い、少しずつ自分の輪郭を手に入れていく――
それがこの物語の始まりです。
一本背負いは、ただの技ではなく、彼にとっては“生きたいと思えるほどの衝撃”でした。
そして、植木という名もなき師との出会いが、これから彼の人生を静かに、力強く動かしていきます。
「名前のない少年」が、どんな“帯”を巻き、どんな“誇り”を育てていくのか。
今後も、どうか見届けてください。
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