1章エピローグ①
あれから、数日が過ぎた。 駆と陽菜が完全に回復するのを待って、三人の、奇妙な共同生活が本格的に始まった。
その日の午後、時雨は陽菜を階下の喫茶店に呼び出すと、一枚の地図を広げて、静かに告げた。
「陽菜ちゃん。あんたのご両親のことだけどね。昨日、政府が用意した、ここからそう遠くない安全な家(セーフハウス)に引っ越してもらったよ」
地図の上には、陽菜のよく知る住宅街の一角が示されている。
「表向きは、老朽化した店の改築と、ご両親の長期旅行ってことになってる。家の両隣には、うちの腕利きが住み込みで警護についているから、心配はいらないさね」
陽菜は、何も言わずに、ただこくりと頷いた。もう、わがままを言える立場ではないことを、彼女は理解していた。自分のせいで、両親の穏やかな日常まで奪ってしまった。その罪悪感が、鉛のように心を重くする。
「それから」と時雨は続けた。
「アメリカさんのお嬢ちゃんも、ホームステイ先を探している留学生、ということにして、今日からこの店に住むことになったからね」
その言葉通り、その日の夕方には、アリスが大きなスーツケースを一つだけ持って、さも当然といった顔で『まどろみ』にやってきた。こうして、一つの屋根の下に、三人の少年少女が暮らすという、奇妙な日常が始まった。
そして、週が明けた月曜日の朝。 三人は、初めて一緒に、学校へと続く道を歩いていた。 陽菜は、少し前を歩く駆の、広い背中を黙って見つめていた。あの戦い以来、彼に対する感情は、複雑な形に変わっていた。彼は、人の理を超えた、恐ろしい「怪物」だ。けれど、その怪物は、命を懸けて自分を守ってくれた。そして、部屋で見せた、あの不器用な優しさ。その事実が、恐怖よりもずっと温かい何かを、陽菜の心にもたらしていた 。
駆もまた、自分のすぐ後ろを歩く少女の気配を感じながら、失われた日常と、これから守るべき日常について考えていた。「今の仲間や家族との関係が守れればよい」。そのために、この力があるのなら、迷わず振るおう。彼は、静かに覚悟を決めていた 。
「二人とも、歩くのが遅いわ。非合理的よ」
隣を歩くアリスが、いつも通りの冷たい口調で言った。だが、その声には、以前のような刺々しさはなかった。彼女もまた、この非合理的な関係性に、居心地の悪さと、それ以上の奇妙な安らぎを感じ始めているのかもしれない 。
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同時刻、東京の地下深く。 反体制派の拠点で、薬師寺景は、モニターの向こうにいる上官に、淡々と報告を終えようとしていた。精神を両断された傷はまだ癒えず、その顔色は紙のように白い。
「……故に、対象の確保には失敗しました」
『だが、お前はとてつもない情報を持ち帰った』
上官は、興奮を隠しきれない声で言った。
『あの力……十年前に失われた我々の希望が、再び現れたのだ!』
薬師寺は、何も答えなかった。
『計画を再開するぞ!』
上官は続けた。
『十年前に失敗した我々の悲願を、今度こそ、より良い形で成就させるのだ! あの娘は、そのための、絶対的な〝鍵〟となる!』
薬師寺は、静かに通信を切ると、己の、まだ感覚がない右腕を見つめた。
脳裏に浮かぶのは、あの光の剣と、そして、最後に自分を内側から拒絶した、少女の魂の叫び。
喫茶店『まどろみ』では、三人の少年少女が、教室の喧騒の中へと足を踏み入れていた 。それは、これから始まる、長く、そして熾烈な戦いの前の、ほんの束の間の、偽りの平穏だった。
戦いの火種は、決して消えてはいない。むしろ、さらに大きな炎となって、再び燃え上がろうとしていた 。
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